人間の欲望。

人間とは生まれるとすぐに母親の乳房にしゃぶりつくように、

まず食欲から始まり成長し思春期を迎えると性欲が旺盛になり

社会人として働き始めると金銭欲を持ち始めます。

生命維持への本能的な欲求として食欲を満たしてあげることが

基本ですが、乳児のころから微笑みかけ肌が触れ合う温もりの機会が

多いと、人間として情緒豊かな心の発達に繋がるだけでなく、

成人してから僻みや妬みなどの誰もが持つ邪悪な感情が薄め

抑えられるのは自己肯定感を獲得することに繋がっているからで、

これらを獲得すると人との良好な人間関係を保てる人間になります。

また母親の手料理で育った子供ほど、確率的なものですが

成長後に『味覚が鋭敏で情緒が安定した穏やかな人』が多いと

思う私なりの理由は、家庭料理は薄味ですので味覚のセンサー

である味蕾が発達するためと、母親の作る姿を見て育つので

『母親の自己犠牲による愛を毎日受け取っている』ことを

確認するので、母親の愛情が身体と心に染み込み育ちます。

 そのため『母の作った??は旨かった』という記憶を持つ人は、

情緒が安定した穏やかな人が多く、一流の料理人になった人は

決して贅沢な料理で育ったのではなく、漁村や農村などの新鮮な

魚介類や野菜の本来の旨みを損なわない薄味の家庭料理で

育ったから味覚が鋭敏になっているのです。

この反対例として某女優の息子はいい歳をしても覚醒剤を

止められないのは、幼児期の頃から母親は忙しいために他人の

家政婦が作った美味しい物だったり、幼稚園のお迎えなども

母ではなかったりしたと想像するのですが、たとえ不味い料理でも

母親が作った『お前からもらっていない』という寂寥感抱え育った

ために心の穴が成長と共に拡大したから、覚せい剤やアルコールや

博打などに逃避しても広大な無意識の穴は埋められないのです。

子供は成長につれて同年代の友達との遊びへの欲求が盛んに

なるのですが、これこそ社会性の獲得と密接に繋がっていて

意地悪な人・優しい人・暴力的な人など様々な人間がいることを

知るだけでなく、遊びを通じた中で喜びや悲しみや苦しみなどを

味わい葛藤することで、何をすれば何をされる・してもらえるなどの

相手の心理状態を推察しているので、専門大学四年間で学ぶ

心理学の勉強より複雑な人間心理を自然に学んでいます。

また子供は与えられたものを工夫しますので、その工夫が上手く行く

と喜びになり好奇心も育つので、出来合いのおもちゃより空き缶や

空き箱などの不用品を与えると、いじりながら別なものを作る喜びを

味わう達成感などで自然に想像力が発達強化されています。

言葉を覚えるころからは『承認欲求』が芽生え強くなりますが、

この承認欲求が満たされないと成人してから情緒が不安定になる

傾向があるのは、承認されない抑圧状態が長く続くと自我の確立と

自己肯定感の獲得などにも影響し、自分に自信が持てないだけ

でなく他者への不信感情も強くなるので、理由のない不安に

襲われたり孤立感に苛まれたりするので、躁鬱病や覚醒剤中毒や

アルコール依存症などに繋がり易くなります。

学校へ行くようになると遊びだけでなく学業やスポーツなど世界が

広がって行き、その中で自分の相対評価を上げるという欲求

生まれてきますが、入学から小学校三年生くらいまでが規律正しい

生活習慣と、嫌なことにも取り組む習慣を身に付ける大事なときで、

『あなたはやればできる』と励まし達成することの喜びを覚えると、

子供は自信を獲得し何事にも挑戦するように成長して行きます。

成長と共に遊びへの欲求と義務としての勉強やスポーツ(体育)や

習い事も増えてきますので、どのように両立するか? を

自分で考え時間的なバランスを工夫しなければならないのですが、

これも挑戦する数が多い子供ほど上手く両立しています。

健康管理も時間管理も同じように全ては習慣化で、悪い習慣が

身に付いているか? 良い習慣を身に付けているか? 

が結果に繋がっており、特に良い習慣は入学から三年間が勝負です。

大人でも何ごとも三年の辛抱と言いますが、遊びによる社会性の

獲得と自己管理する良い習慣の両立に自信を持てるようになると、

中学や高校で塾の世話にならなくても大丈夫です。

私のリハビリもピアノも三年続けることが目標ですが、子供もやがて

できないことができるようになり、判らないことが判る喜びを覚えると

遊び呆けた快楽後の虚しさとは違う、努力という苦痛を乗り越え

手に入れる充実感の伴う生きている喜びを知り楽しくなります。

思春期を迎えると異性への関心が生まれ性欲も高まりますが、

性欲の制御なども欲望と自制心との闘いが必要で、私は娘が大学で

東京に旅立つ前日にエイリッヒ・フロムという哲学者が書いた本

『愛するということ』を渡して、この本を三回読んで好きな人が

できたらセックスをしてもいいいですよ! と伝えましたが、

女には妊娠というハンディがあるので避妊は忘れないようにと、

大事なことなので念を押し娘には呆れられました。

フロムは『愛は技術である』と述べておりスポーツや楽器などで

技術を磨くように、人を愛するための技術を磨き育め書いており、

性行為は肉体的な官能だけでなく、心から相手を求め触れ合う

ことの中に本当の喜びがあることの自覚が人間として大事で、

愛情をより深めるために人間的な愛の技術を磨けと言っています。

愛とは自然発生的に生まれてくるものではなく、磨き育む努力の

継続で作り上げるという愛の本質さえ理解してもらえば、後は娘を

信頼し娘の選択と決断に任せ大人として信頼することでした。

避妊の大切さは経済力と深く関係しており、動物の子供のように

生まれてすぐに自立できない人間の子供は長い養育期間を

必要とするので、経済的な基盤を確立できていない両親による

子育ては親子双方の不幸に繋がっているからです。

動物的本能の子孫を残すために備わっているものが性欲で、

単なる快楽の対象としてある性欲は虚しい本末転倒ですので、

『考える葦』である人間は湧き起こる性欲に溺れず、愛する技術を

磨くだけでなく制御する術を身に付けるべきなのです。。

歪んだ性欲を持つ人は慈愛と承認欲求の欠落が遠因としてあり、

それは幼児期から本当の愛に恵まれなかったことが、

本当の愛に巡り合えない悲しさにも繋がっているのです。

長く営業していて時折子宝に恵まれない人がいるのですが、

身体的な問題は別として、性行為は純粋に相手を求める感情を

優先すべきと私は思っており、『子供作るための性行為』は女性を

道具にしている精神的には不純な性行為だと私は思っています。

愛の行為は単純にオスとメスの獣になって求め合う純粋な行為で、

その結果として生まれた子供には特別な愛情を持つと思うので、

子供養育への大きな義務と責任が自覚できると思います。

大人になると次々に欲しい物が生まれ金欲が起こるのですが、

これも生まれてオシャブリから始まり積木や折り紙になりゲームに

なるように、私はある時期から車も家もブランド品など全ての

大人が欲しがるものは、子供と同じ『大人にとってのおもちゃ』だと

思うようになりました。

そして人生を楽しく豊かにするためには、年齢相応と分相応の

おもちゃをいつも持ち続けられる好奇心が必要ですが、

この年齢相応は兎も角として分相応の自覚が難しいと思います。

お金も愛と一緒で愛の本質を理解するように、お金の本質を理解

しないとお金に振り回される人生やお金を振り廻す人生になり、

生きるための道具としてのお金ではなく、お金を得ることが生きる

目的になり、どちらもお金に翻弄される人生になってしまいます。

お金を得ることを目的にすると、無意識ですが他者を道具として

扱う手段として利用するようになりますので、自己犠牲を伴うような

無償の愛とは無縁の寂しい人生になり、老いて若い時のような

多くのおもちゃで遊べない身体になったとき必ず思い知ります。

子供を育てるときお金の価値を教えるのも大切なことで、

私は娘が大学受験のときに受験料の振り込みから、

東京での受験日程に合わせた旅行会社との手続きと支払いも

全て娘ひとりに任せて、言われた金額を娘に渡しました。

この行動で娘が受験でどれだけのお金を要しているか? 

どのような日程にすれば受験に有利か? など様々なことを

考えたようですが、一番はお金の価値を知ったことと思います。

日銭商売の自営業ですから一万円売ることの大変さは見ており、

その一万円札が飛ぶように支払われて行くのですから、

これも頭ではなく実際に身体と行為を通じて理解する機会でした。

またお金も失敗からしか学べないので、旅立ちの前日に娘を呼び

三十万円と二十万円を別々の封筒に入れ、在学中の安全装置

だから別々の定期預金にしておき、『自分のためでも友達のため

でもいいから、何かあったときに使いなさい』と言って渡しました。

このお金は自分の居場所や友人を作るために一年半くらいで

使ってしまったのを想像できましたが黙っていました。

それはその頃からアルバイトを三つ始めたと聞いたからで、

安全装置としてあったお金がなくなったとき、その安全装置の

大切さを知るのですが、人間は何でもあったものを失って

初めて存在した有難さを本当に理解する学びの機会ですし、

何に使ってもいいと私が言って渡したのだから黙っていたのです。

親が見守り責任を取ってあげられる若い時に失敗した方が

傷口が浅いもので、娘が学んだ失敗は五十万ですが、

社会に出て三十代なら二百万~三百万になり、

四・五十代の失敗は壱千萬単位の失敗に繋がると思います。

先日五歳の孫だけを預かったときに、『ひとりで買い物したい』

と言うので、孫に千円札を渡し一人コンビニに行きグミとチョコを

選び支払いをしてくるのをさせ、私は十五メートルくらい離れた所で

見守っていました。

出てくるなり嬉しそうに『爺じお店のお姉さんが入っていったときと

帰るときに優しく笑っていたよ!』と満足そうに話したのですが、

それは一人でできた喜びと自信だけでなく、私と店のお姉さんに

信頼された喜びなのですが、それだけでなくお金を使うという

行為の中に含まれた様々なものを自然に学んでいるのです。

お金を得ること・お金を支払うこと・お金を受け取ることなどの

商行為の中に伴う、使う自由と権利や得るための義務と責任などが、

商行為を見ているだけとは違う体験こそが身体と心に染み込みます。

人間には優越感という快楽があり、それが権力欲にも繋がって

いますが権力は手に入れてからの維持の方が難しく、権力に

執着する傲慢な態度の人ほど意外な落とし穴に嵌り失脚します。

池波正太郎さんの短編小説に『鼠の糞』というのがあり、

独身の剣術指南役の主人が十三歳の下女に凌辱を加える

のですが、封建時代の下女には抵抗する術がないので下女は、

腹いせに食事の汁の中に鼠の糞を入れ続けますが、知るところに

なり手打ちにされます。

最後にこの男は藩を辞めさせられ浪人となって江戸に出て

この事情を知っていた別の男によって討たれるという話ですが、

陰湿な行為に耐えた苦しみを陰湿な行為で復讐するのは、

弱者としての女性が理不尽さに耐えるしか術がないときです。

しかし現代でも似たような話があり離婚専門の弁護士さんに

聞いた話では、憎しみから『旦那の味噌汁にそっと下剤を入れる』や、

『カレーライスにそっと猫や犬の糞を入れる』などの恐ろしい話を

聞いたのですが、このような行為に到るほどの憎しみを持たせた

男にも想像を超えた権力の乱用があると私は想像しています。

私は下剤はともかく猫や犬の糞でも下痢はしないのでしょうか?

と聞いたら、『何度もやっているけど下痢は起こさない』

その奥さんが平然と答えたそうで、それほど無言で耐えた

時間の中に憎しみの情念が燃え盛っているのです。

反対に権力を長く維持できる人間は、上位の者に媚びず

下位の者には権力を笠にせず情愛を持つ人なので、

家族や使用人などを労り対等な人間として扱うような人ですが、

権力には執着しないので驚くほど潔く後進に道を譲っています。

伊藤博文は女性にだらしない男でしたが、今でいう秘書に

あたる下僕と外で一緒に出かけたときなども、友人のように

対等に扱い同じ食事をしていたという逸話を読みました。

そのように上下関係ではない人間的な処遇こそが人格を現わし、

その人間的な処遇に下僕は礼を尽くし忠誠を誓う心が自然に

芽生え育まれるから長く権力を維持できたのだと思います。

男には自分の子孫を残すという動物としての本能が強いので、

性欲が女性の二倍になっていると脳科学で判っているそうで、

神が創造した子孫維持本能ゆえに男の性欲制御は難しいのです。

どちらにしても人間の様々な欲望が文明や文化の発達に繋がった

のも確かなことですが、その様々な欲望を満たし発散するときに

強者に媚びず弱者に優しくする思慮を持ち続けられる人が、

魅力のある人間らしい人のような気がしています。

最近の女性の結婚願望には男に経済的な豊かさを求める傾向が

強いのですが、経済力より自分を心から求め大切にしてくれるという

心を豊かにしてくれる男を選ぶべきで、その自分自身の精神的な

魅力に自信がない人ほど経済力を求めるのだと思います。

男は現実の具体的な生活から未来という不確かで抽象的なものを

掴み取ろうとしますが、女は現実の生活の中にある不確かで

抽象的なものを感知して具体的な行動に繋げている所があります。

男の欲望とは女によって濾過され浄化されるもので、

『この女のためならあらゆる自己犠牲を厭わない』というほどに、

女に惚れ抜く純粋な欲望を最近の男が持たなくなったのは、

現代の女性の在り様にも半分の責任があるように思います。

女によって欲望を濾過され浄化された男は、ありふれた日々の中で

女の欲望を満たし女の情念を鎮めることにある種の快楽すら感じ

ながら毎日を過ごしているものなのです。

昨今はお金への欲望の肥大によって誰もが幻惑され、

人間の本質を見る眼を曇らせ失い始めているように感じています。

お金を持ったことのない私の想像力ですが、

お金で手に入る物欲の快楽は持続しない一時的なもので、

高級車に乗るような相対評価による優越感は不純なものだから

持続しないもので、優越感を求め続けるとその立場の維持と

より以上のものを求める焦燥感に苛まれ続けると想像しています。

私の人生は借財を背負い続けた人生でしたが、

毎日の出来事を妻の写真に話し続けながら思うことは、

『あなたに出逢えて本当によかった』と思うことと、結婚式後に

これからずーっと一緒にいられると思ったときの『嬉しくて、嬉しくて』

涙がでたことを五十年以上も経過した今も鮮明に想い出します。

その出会いから娘を授かり、娘と婿殿の出会いから孫達が授かり、

その孫達の確信を持った我儘に触れるたびに後悔のない幸せな人生

だったと実感させられ、この世に生を受けたことに感謝しています。

私も歳を取り様々な欲望が衰え枯れ始めてきているのですが、

これからは生まれた時との反対現象が起こり始め、

老いと共に物欲という欲しいものが少なくなって金銭欲が衰え、

性欲がなくなり、最後に食欲がなくなったときに死が訪れます。