若気の至りの失敗からの学び。

私が二十歳でトヨタの販売店に就職したときの社員寮は

六畳一間に二人で暮らす生活で、同室の彼は親が豊かだった

のか? 秋田ナンバーのスプリンターに乗ってきていました。

私などは親から布団だけを送られ最初の給与が出るまでの生活費は

短大時代に稼いだスマートボールの貯金で過ごしました。

就職して半年くらいしたときに、経緯は忘れましたが彼の車を借りて

出勤した片側三車線の中央を走行中に、右車線をベレット・スポーツ

が走り抜け追いかけようと加速して左車線に出たらダンプカーが

停車していて、加速したまま追突して同乗者もいたので罰金と

病院代と修理代で、当時の給与の二十倍位の借財を背負いました。

三日間ほどの記憶は目の前が真っ暗なだけでしたが、この失敗から

一生懸命に働く以外に返済の術がない状況に追い込まれたことが、

今振り返ると後の私の人生の様々な良薬になっていたと思います。

『窮鼠猫を嚙む』ではないですが、人間は追い詰められると本当に

火事場の馬鹿力を生むもので、怠け者の私が休日出勤手当と

車を売ることで貰える販売手当をあてにして仕事に精進した三年間は、怠惰な私の生き方を否応なく大きく変えたきっかけになりました。

交通事故という不運がもたらした幸運は他にもあり、

この不幸を背負って頑張っている姿を見ていた先輩や上司が

何気に心遣いをしてくれ、私の知らない様々な場所に連れて行って

くれ、都会の最先端の場所や世情を知ることに繋がりました。

二十歳の田舎者の私が世間を知ってから驚くような場所だった

銀座のクラブや料亭の芸者遊びに誘ってくれた先輩は、

練馬の地主の婿養子になった早稲田大学卒の人でしたが、

背広は会社に仕立て屋を呼んで作り、仕事は程々にしかせず

仕事中にサボる場所など私には未知のお洒落な店でした。

銀座のクラブ界隈では当時売れていた水原弘をよく見かけ、

料亭では三味線で芸者と座布団やじゃんけん遊びをするのですが、

子供のような遊びに何が楽しいのか? 私は判らず過ごしましたが

寂しさや辛さを忘れさせてくれ、最後に先輩は酔っ払い運転だった

のですが会社の寮までいつも送ってくれ、恩着せがましくせずに

『北海道の山猿また明日なー』と颯爽と帰宅するのでした。

そのときの看板芸者(芸呼名・豊山)は大手ミシン社長のめかけだった

のですが、ある日若い男と高級レストランで見かけ先輩に教えたら

『あれは芸者の燕』だと教えられ、人間が持つ複雑な贈与の

上下関係が潜んでいる人間心理の裏側を考えさせられました。

その後突然その先輩が会社に来なくなったので上司に聞くと、

『??は会社の金を使い込み発覚したが、奥さんの実家が

弁済したのでトヨタレンタカーに左遷された』と聞き、

私はご馳走になった罪の意識に苛まれて先輩のいる

自由が丘の事務所に謝罪に赴きましたが営業所の所長でした。

そのときも私の顔を見るなり『高野よく来たなー』と微笑み、

『美味しいものを食わしてやる』と二階建てガラス張りの

高級レストランでピザを初めて御馳走になり、その美味しさ

驚き全て一人で平らげたのを先輩は微笑みながら見ていました。

この気障で粋な先輩が自宅では義母と嫁に頭が上がらず、その後

『必殺仕事人』の中村主水を見ると必ずその先輩を想い出します。

私の営業所は調布の中古車センターでしたが、ここの近くには

日活の撮影所があり映画などで使う車調達の商談などで撮影所を

訪れましたので、多くの有名芸能人に出会いました。

当時売れ出していた東京ロマンチカの鶴岡雅義さんは顧客で、

『夜のヒットスタジオ』生中継の見学や自宅に誘われましたし、

クレイジーキャッツの谷啓などはよく外車の修理で来ていました。

テレビや映画などの華やかな世界の人達の素顔を見る機会を得て、

何も普通の人と変わらない様子の中に秘められた芸能人の

自己顕示欲の強さを見て、社長も芸者も銀座のクラブのホステスも

どんな特別な世界にいても人間とは本質的に同じと思いました。

もう時効なので言うと、春日八郎の事務所に商談に行ったときは、

明らかにヤクザと判る人が大勢いて表と裏と闇の世界が繋がって

いると思うようになったのも、このような経験があったからと思います。

昔大蔵省の官僚が『ノーパンしゃぶしゃぶレストラン』で接待を受けた

報道がありましたが、人間のやることは所得によって場所と金額が

違っているだけで中身は庶民と同じことをしており、

人間がやっていることは食べて寝て男は女を、女は男を求めて

子孫を残そうとすることを本能的に求めて生きている、

他の動物と基本的には同じことをしているなのだと思います。

別の先輩は自宅に招き奥さんの手料理を御馳走してくれましたが、

様々な手を駆使して会社の金を騙し取り遊行費と女遊びに使い、

私にもその手法を教え促しましたが発覚して退職に追い込まれ、

子供が二人いたのですが離婚し最終的に行方が判らなくなりました。

もう一人の先輩は真面目一方で、新日鉄の重役の親が建てて

くれた高級住宅に住み、やはり自宅に誘ってくれ奥さんの手料理を

御馳走してくれて、まるであの頃の理想の家族像のようでしたが、

ある日奥様から『別れようと思っている』と告白されてから

私は足が向かなくなりました。

核家族化と豊かさの始まりの時期でしたので、マイホームやマイカーを

持とうとするだけでなく、ブランド品店や美味しい店なども出来始め

誰もが物質的な豊かさを求め享受し始めていた頃で、

敗戦後の飢えの反動の毎日がお祭りのような空気だったと思います。

この頃は高度成長の始まりの時期でしたので、様々な階級の人達が

混在していた時代だったので中卒集団就職の人達との出会い

あり、ある日中古車を買いに来た若者三人は沖縄から集団就職で

きた人達で、三人の給料を合わせて中古車を買いたいとのことでした。

ローン購入だったので住んでいる品川の工場に赴いたのですが、

寝泊りしている場所は工場上の板張りで片隅に蒲団があるだけ

相手は何も判らないので印鑑証明や車庫証明や公正証書などの

作成を全て私がしてあげ、会社の審査を通した経験などは

社会の底辺の人達の存在を知り大変勉強になりました。

東京では六年間過ごし,最初の基本給は24,000円だった

のですが、インフレに伴う昇給が続いた上に販売手当

一台売ると4,000円・自動車保険をセットで入れると3,000円・

JAFは1,000円の手当が付いたほどに会社も気前がよかったので、

借財は三年位で返済したと記憶しています。

その頃からはお客様の紹介だけで毎月十五台以上売るように

なっていたので、田園調布や世田谷や成城などの高級住宅の

人達とも商談しましたが、その頃の本当の金持ちは気取った嫌味など

なくナポレオンなどの高級品やタバコを頂きましたが、お茶好きの方

から戴いた高級茶で私と妻はお茶の美味しさを知りました。

新車を紹介で売るとセレブに逢い、安い中古車をローンで売ると

源泉徴収票を頂くので底辺の人達の生活が垣間見えるのですが、

私は大都会東京で二十歳から二十六歳までの感受性が敏感なときに

社会階層の上から下までを見た六年間だったと思います。

就職時に蒲団だけ送られた父の薄情も、短大時代に勉強もせず

スマートボールにうつつを抜かした身から出た錆びでしたが、

振り返るといずれ長男には世話になるからと兄には甘かった父の

思惑があだとなり、最後まで兄は忍耐が身に付かず可哀想な

人生に終わったのは、多感な時期に葛藤できなかったからです。

私の交通事故なども振り返ると身から出た錆びによって火事場の

馬鹿力を生み、その不運と不幸に立ち向かう姿を見ていた人達の

様々な好意に繋がっており、結果としてその先輩達の人生を

垣間見たことが私の『生きる学問』に繋がったように思います。

失敗による一番の効用は怠け者の私を矯正しただけでなく、

その過程で様々な人達の人生模様を俯瞰して捉えるという

鳥瞰的な視点で人生を考えるようにしてくれたことでした。

しかし妻と出会うまでは、たくさん車を売り良い収入を得ていても

愛に飢えていた寂しさで心に大きな穴を抱えた反動で、

身分不相応の高級車やオーディオに散財した奔放自堕落な

生活していましたが、今思うとこの冷や汗がでるような生活が

後の私の忍耐するための肥やしになっていたと思えるのです。

結婚後は精神的にも落ち着き節約家の妻に家計を任せたら、

妻はマイホームを夢見て貯蓄していましたが、その貯蓄を原資に

妻の反対を押し切りお茶屋として脱サラすることになりました。

この頃から高度成長で急速に進んだ豊かさを享受し、お仕着せの

民主主義を丸呑みしていた日本人は、それを個人主義とはき違えて

自分に都合のよい利己主義に走った結果がバブル崩壊でしたが、

この頃から『自分だけ良ければよい』という風潮が強くなったようです

しかしこの利己主義が結果的に寂しさと頼る相手もいないという

辛さに繋がりその苛立ちが人間関係の悪循環を生み、

建前だけの信頼できる人がいない孤立感から、本音のウエブ上に

やり場のない悲しみが罵詈雑言として氾濫しているのだと思います。

欧米のような圧政の苦しみとの闘いの末に手に入れた自由でも

民主主義の獲得でもない日本人の結果責任なのですが、全ては

敗戦の失敗を忘れ学んでいないから身に付かないのです。

不正を働く権力者に対しても従順な日本人を見ていて、

いま一番危惧していることは階級・階層の固定化が目に見えない

形で深く進んでいることで、努力しても報われない・努力しなくても

報われているという形で貧困と富裕の連鎖が続くのを見ていると、

私の眼には『新しい形の封建社会』が形成されているように思えます。

高度成長はパージがあり敗戦の失敗から学んだ若い官僚・政治家・

事業家が新しい指導者になり、貧しい家の子供でも勉強し努力すれば

報われる社会状況だったから起こり続いたことで、中卒の本田宗一郎

松下幸之助が起業し成功できたのも、学歴や経歴だけではなく

努力した者を認める空気が社会に充満していたからです。

失われた三十年は社会も組織も家族も風通しが悪くなってしまった

結果で、士農工商の時代と同様の政治家の子供は政治家・

事業家の子供は事業の跡を継ぎ、学歴なども幼稚舎からや

中高一貫というエスカレーターのお金で買えるのは今の常識です。

現在はこの新しい封建性が強化されており、若者にも野心はなく

誰もが諦めきっている様子が支配的なので、寄らば大樹的な

思考の安定した職場を求めている労働者の増加が、トヨタや

ダイハツなどの大企業の不祥事に繋がっているように思えます。

維新とは支配層から起こることはなく、貧困層の学びと努力から

起こっているのですが、そのような境遇の子供達や若者達の気概を

奪ったのは私達世代の責任で諦めさせるような空気の充満が

日本人全体の活力を奪い取っているから学力が落ち、

国際競争力が落ちることに繋がっているのです。

世界一だった半導体が凋落し、裾野が広い自動車産業の輸出も

凋落すれば資源のない日本の将来は真っ暗で、石油だけでなく

食料資源の輸入なども心配な貧しい国になってしまいます。

敗戦後のパージによって膿が一掃された後の、若い政治家と

経営陣は謙虚に敗戦の失敗から学び、政治家と官僚は民を思い、

事業家は従業員を家族のように思い、世帯主の夫は家族のために

働くという情愛があったから社会が活力に満ちていたのです。

しかしバブル頃からの政治家と官僚と経営陣は傲慢な利己主義に

走るようになり、その利己主義の蔓延は庶民にまであっという間に

広がり、そんな大人を見て育った子供達が建前と本音を使い分ける

ことは常識で、今はそれができないと大人も子供もイジメに遭う

ような社会に変質しています。

現代の会社勤めの若者達に聞けば判ると思うのですが、

傷ついた若者に情愛をかけてくれる大人が果たしているのか?

自宅でご馳走してくれる・美味しいものを食べに連れて行って

くれるなどして若者を励ましてくれる大人がどれくらいいるのか?

私は『いない』と思うほど財布ではなく大人の心に余裕がないのです。

愛されることを欲望しても愛することはしない、

与えられることを欲望しても与えることはしない、

豊かの人ほど搾取はしても贈与は決してしない、

日本人の良さである人情や情愛を失った寂しい現代社会の現実です。

お金とは過剰な不足と過剰に満たされることが不幸への道で、

どんなにお金を手に入れ贅沢をしても、そこに待っているのは

『満たされつくした不幸』で、同様に性的な快楽を手に入れても、

そこに鳥の巣作りのような家庭の営みという料理・洗濯の母性と、

家族のために労働する姿の父性が存在しなければ、男女関係と

家族関係は継続できず自壊してしまうのを忘れたのが現代です。

逆説的ですが家庭や家族の平和維持には、何がしかの不足がある

少し足りないゆえに各々が努力し家族が一致協力し合うという

『満たされないことの幸福』も夫婦と親子にはあると思います。

人間とは際限のないステップアップを目指すという欲望が限りなく

できており、私の想像ですが使うに困るほどのお金を手に入れ

物質的な欲望を全て満足させたら、次は空虚な精神的な飢餓感が

襲ってくるような気がしており、最後は人間的な繋がりによる

精神的な充足感を持つことしか飢餓の救いはないように思います。

私のようにひとり身になり、意識は覚醒しているのに全身動かず

食べられない闘病生活が七カ月も続いた経験をすると、

幸せとはわずらわしい毎日の生活の中に存在していると

必ず思い知らされます。

私自身は性的な快楽とお金の大切さを認めていますが、

同じくらいに母性と父性の役割を果たすことも大切で、

企業の存続と同様に従業員の存続と生活も大切という、

矛盾と葛藤することの中にこそ真理があると思っています。

人間とは置かれた環境と失敗や成功に支配され生きている

のですが、そんな中で自分自身を見失わないためには反省や

自戒と覚悟が必要で、それができないとき人間は流されるのです。

若い頃に東京で過ごした私の濃密な六年間は、豊かの人にも

貧しい人にもそれ相応の悩みや苦しみや喜びもあることを知った

ことでしたが、大切なことは自分の境遇を受け入れ甘えず僻まずに

『人間としての矜持を持って生きる』ことで、次に家族や友人などの

身の周りの人達に誠意を持って接することが後悔のない人生に

繋がっているのでは? と思っています。

私は二十歳の若気の至りの失敗から始まり、その後開業したので

約四十二年間ずーっと借財を背負った毎日でしたので、

金銭的には余裕のない人生を過ごしましたが、家族とお客様という

良き人達との触れ合いに恵まれた楽しい人生だったと思っています。

人間とは人間関係も金銭感覚も失敗からしか学べないもので、

その失敗後に『その壁と向き合いどう生きるか?』が別れ道で、

その選択が命運を決めていると思い知らされた学びの六年間でした。