失われ消えていくもの。

バブル崩壊後は格差が広がり多くの国民が将来への不安を感じ、

失われた経済的な豊かさが三十年も続いている原因は、

敗戦の屈辱と国民の貧しさや苦しみを知る政治家が消え、

国民への思いが失われた利己主義の政治家が増えたからです。

高度成長後から裏金に走る政治家が権力を持つという政治の

ダッチロールと、企業も利益還元を従業員にしなくなったからで、

ここ十五年位でドイツの賃金は2.1倍上昇しているのに

日本は1.1倍の現実があり、円安による物価上昇によって

実質賃金は目減りしているので、GDPの55%を占める個人消費は

盛り上がらずむしろ落ちているから景気回復ができないのです。

国民に豊かさの実感がない実体経済に反する株価の上昇は、

円安で海外投資家資金が中国から日本に移動しているからで、

その恩恵を享受しているのは企業と一部投資家だけです。

国力低下を示す円安の恩恵は過去のバブル期に日本人が味わった

海外からの旅行客と企業努力ではない円安恩恵の輸出企業ですが、

円安で輸入企業は値上げし国民に転化しても、輸出企業には

国民へ還元させないのも政治の無策を現わしていると思います。

豊かさと共に日本人が失ったものは情愛の心だけではなく、

街からタバコ屋が消え酒屋が消え米屋が消えて久しく、

肉屋や八百屋や文房具店・本屋なども消えて、全てが大型の

スーパーマーケットが賄うようになり、やがて金物屋が消えて

ホームセンターが生まれ薬局が消えてドラッグストアが生まれ、

この三業態の三つ巴の戦いは熾烈でドラッグストアの一部では

生鮮食品も扱い出して、日用品をめぐる終わりなき闘いの様相です。

近年はこの三つ巴戦に通信販売とアマゾンに代表されるネット販売が

割って入り、この三業態にとってネット通販は脅威になっています。

全ては文明の発達と社会の変化と共に起こっていることですが、

その結果として格差の拡大と階層の固定化が進んでいますので、

新しい形で社会の封建化が密かに進んでいると実感しています。

私が子供のころには鍛冶屋などの業種もあり馬車が走っていましたが、その昔は飾り職人などの業種もあって下駄屋や大工など、

全ての仕事が分化しており一国一城の主として成り立っていた

のですが、文明社会の効率化と統合化の結果として全ての

業種が資本家の傘下に収まったのです。

いずれ私のようなお茶屋も消える運命なのですが、

ひとり暮らしの人の買物などもスーパーでは電子レジになり、

会話などせずに押し流されて過ごす時代になっております。

先日来店したお客様は帰り際に『高野さん楽しかった、

一週間ぶりにおしゃべりをした』と言い、会話のない日常生活が

続く中で突然の電話のときなど受話器を取ってもすぐに

『声がでないときがある』と言う人もおり、全てが金と物のやりとり

だけになってしまったように思うことがあります。

時代の流れは街の風景も変えて行き、古き良きものに代わって

新しい悪しきものが台頭するのですが、その裏では古き悪しきもの

消滅して新しい良きものが生まれているのも確かなことですが、

私などはその変化について行けず困惑しているだけです。

店先の通りすがりの人達の若い世代は学生が多く、健康のために

歩いている老人や買物に歩く人達も老人になっているのは、

若年家庭の買物などは車で目的地に行くのが普通になっており、

世代交代が進んだ我が街の新築住宅では共働き世帯が多く、

車が二台並んでいるのが普通の光景になりました。

格差社会の拡大は精神的な余裕を奪い、全ての物が物であれば

よく衣食住すべてが効率的な生産で安く供給されるものに流れ、

良心的に良いものを供給する者は生き残れない社会になった

のだと実感させられます。

昨年の暮にスタッドレスタイヤを変えたのですが、見に行った

メーカー直営店の若者の対応に好感を持ったので何も言わず

即決してお願いしましたが、後日来店したお客様が私の車の

タイヤを確認して、同じ品をネットで買った金額は四万円ほど

安かったと聞かされました。

私は余裕のある生活をしているわけではありませんので驚きましたが

ネットで調べなかった私の落ち度としても後悔の気持ちはなく、

あの若者が凍えるような寒さの中でタイヤ交換だけでなく様々な点検

や調整をしてくれた姿を思い出して、『まあいいさ』と思えたのは

きっと歳を取ったことによる若者への情愛と敬意だと思います。

現代社会が失った一番貴重なものは、長く日本の大人が持っていた

『若い人達へ情愛』で、功成り遂げた者は貧乏書生を抱えて

教育を施したように、これからの国を背負って立つ若者を育てるという

気概をなくした大人の増加が、若者の活力を奪い失われた三十年に

繋がり、それが日本の国力衰退と連動していると思います。

報われるのは稀ですが『騙される勇気がないと良い出会いはない』と

私は思っており、取り敢えず人を信じることにしています。

失われ消えて行くものは、合理主義という時代の流れの中で

失われ消えて行くのですが、一番悲しく感じるのは人間の

最後の拠りどころにする情愛や情緒が失われていくことで、

社会から情愛が失われる果てにどんな光景が出現するのか?

を思うと、人情や情愛という人間に生きる勇気と組織や社会に

活気をもたらす心の潤い喪失に繋がっているような気がします。 

封建的な父親主導の家族が崩壊し、アメリカ的な家族形態の

模倣からパパ・ママのニューファミリーの時代を経て、女性も

高学歴を身に付け社会進出し自立と自己実現を求める時代になって

久しくなりましたが、このような時代の変化の中で若者達が新しい

モラルを身につけ、社会も女性を働き手と認識した新しい

メカニズムへと変貌し女性達は対応して来ました。

しかし結婚という伝統的で文化的なものは引きずっており、

自立と自己実現を求めながら結婚し子供という子孫を残す

本能的な欲求を実現すると、妻と母と主婦の役割をこなしながら

自立と自己実現を果たす困難が結婚生活には待っています。

しかし社会と組織と家庭では女性が働くために伴う過重労働には

手を差し伸べておらず、働く女性が背負う四重苦を補助する

ための夫の理解と社会システムの構築が遅れていることが、

離婚などの家庭崩壊に繋がっているような気がしています。

妻と母と主婦だけでも大変な役割で、それだけでも家庭の平和を

維持する困難はあるのに、自己実現という新しいモラルが

女性の職業進出を促し共働きが増えましたが、男尊女卑という

文化はまだ社会や組織に残っており、女性の子育てを支援する

社会体制は未整備のままが日本の現況なのです。

このような状況の中で密かに垣間見える現象のもうひとつは

父親の居場所が家庭になくなってきたことで、コンビニが普及し始め

の頃には何故か? 自宅に帰宅する気になれない男が意味もなく

コンビニで本を読んでいる家庭に居場所のない人達がいました。

男は家庭での主導権を失い、その父の日常的な姿を見ている

子供たちの信頼を失っているのですが、子供が思春期を迎えたとき

精神的な不安定の制御には、毅然とした絶対的な父の姿と

労り癒してくれる母性という両義性の伴う滋養が必要です。

封建的で家父長的な家族形態の悪いものが修正され、

友人のような親子関係の時代になっておりますが、離婚の増加や

家族崩壊には男女平等や自己実現や夢などの社会的な成功と

連動したど新しいモラルが遠因としてあるように思います。

この歳になって判るのは人間の成熟のためには思春期と言われる

十歳~二十五歳位までの期間に様々な壁にぶち当たることが

必要で、その壁に打ちのめされ悶々とすることが、後の大人としての

人生にとっての成熟の肥やしになっているのですが、そんなときに

若者をさりげなく支援する成熟した大人の減少を感じています。

私は父から逃げて自立しようと考えた十二歳ころから猛勉強し、

二十歳で東京へ就職して二十六歳まで無我夢中で働いた期間の

様々な失敗の経験が、私自身のその後の人生の全ての土台に

なっていたと思えるのですが、その失敗を見ていた先輩や上司や

時には顧客が何気の心遣いで支えてくれた幸運があったのです。

この間に様々な悪事を働いたことも想い出されますが、

悪いことをして悪いことの意味が解り、悪いことをしない心構えが

できたと思っておりますが、私が思う一番の教訓は『悪いことを

知らないと悪い奴に騙される』ことに繋がっていることです。

人間とは何事も経験しないと本当に理解できないもので、

頭で理解したことなどは決して身に付いてはおらず、

全ての真理は矛盾のなかにこそ存在しているものです。

どんなに立派な良いことばかりしている人でも必ず少しは

悪いことをしているもので、悪いことばかりしている人でも

少しは良いことをしているのが人間で、経済的・精神的に苦しみ

悶々とした生活体験の中で、様々な人達の人間模様をたくさん

見てきた経験こそが私の人生の滋養になっていたと思っています。

人生の思春期に良いことばかりでは未来のためにはならず、

思うに任せぬ辛く苦しい犠牲を伴うものからしか得られない

ものが少し成長した新しい自分で、そんなとき今まで自分が

持っていたものを失い犠牲にして初めて得られるものだと思います。

私は妻を七年前に失いましたが、ひとりにならないと

家事だけではない全ての難儀は本当に理解できないもので、

三年前には病気をして健康を失い出来なくなったことがたくさん

ありましたが、病気中と病気後に見えたものはたくさんあります。

しかしその失った故に得たものもあると思えるのは、ひとりとは

全てを自分でやらなければならないことで、それが病気後の

リハビリになり除雪など三年目の今はハッキリ効果を感じますし、

娘や婿殿の私の心の負担を軽くする思いやりも得た大きなものです。

全ては古いものから新しいものが生まれるのですが、

その古いものも辿ればきりがなく、新しいものも次の時代には

古いものになって行く宿命で、今の私にはその繰り返しが

人間それぞれの人生模様のように思えるのですが、

便利さと豊かさの代わりに失っていく情愛には危機を感じています。

振り返ると他愛もない自信を持ちうぬぼれていたときや、

些細なことで自信を失い将来を悲観し落胆していたときを

交錯するように繰り返してきましたが、このふたつはどちらも

人間にとっては危機のときです。

自信とうぬぼれは紙一重の危機で、また落胆したままでは

流されてしまう危機なので、転げ落ちた場所は始まりのスタート地点

になっているものと考えるようになってから、悪いときは楽観的に

良いときは悲観的にと思えるようになりました。

人間とは何事も失って初めてあったものの有難さを思い知るもので、

両親や伴侶や子供や友人なども満たされているときは

空気のように本当の有難さは判っていないものです。

今想い出しても辛かった点滴だけの七カ月の寝たきり生活と、

毎日が拷問のようなリハビリ生活を頑張ってこれたのは、

失われた普通の生活に絶対戻るんだ! という気持ちだけでしたが、

今も楽な方に流れたい気持ちがないと言えばウソになります。

それができたのは幼少時から何事もできが悪く期待もされず、

チヤホヤされた経験もなく意気地がない怠け者だった私が

思春期頃からそのツケとして自らの失敗による壁の連続だったことで、

その壁を突き破らないと自分が生き残れなかった様々な経験こそが、

私の血肉として身に付いたからだ思い到ります。

ですから私は今恵まれていない人は、その壁を無我夢中になって

突き破ろうとする以外に道は開けないと思うことで、恵まれている人は

果たして自分の力か? 誰のお陰で恵まれているのか?

を思わないと不幸な未来が待っているような気がしています。

バブルがはじけてから失われた三十年と言われておりますが、

この三十年間に様々なものが失われ消えて行き、ネット社会という

新しい仮想空間が生まれた弊害が顕在化しています。

その一番の弊害は効率に伴う格差拡大による社会の不安定化と、

分断による全ての世代で進んでいる人間の孤立です。

敗戦後から全てを米国的なものを手本に真似てきた日本ですが、

米国内の分断現象を見ていると米国の衰退は目に見えており、

今後は模倣を止めてもう一度日本的なものの良さを見直して

属国から脱皮した日本人らしさへの回帰が必要と思います。

日本人の良さとは子供や老人や隣人を愛し労わるという

長屋的な人情の世界で、ドライで効率的なものとは対称的な

非常に無駄の多い寛容の精神ですが、そのような暖かいものを

社会や組織や家庭に取り戻すことが日本に活力を生むと思うのです。

失われ消えてしまったものは必ず回帰するのですが、

アニメや漫画なども日本的な文化を基盤にして生まれたからこそ

世界に受け入れられ一大産業になったように、その国の文化を捨てず

むしろ基盤にした新しい物造りが再生の道のような気がしています。

私が子供の頃はツギハギだらけの衣服で貧しかったのですが、

貧乏の中にも活気があり味噌・醤油を融通し合うような人情で

人の心が通い合う連帯感があったのは、嫌な隣人でも助け合わないと

やっていけないほどに誰もが困窮していたからだと思います。

豊かさが日本人から奪ったものはこの人情と連帯感で、代わりに

台頭したのが拝金主義と利己主義だったから家族の団欒が失われ、

社会から人との心の通い合いが失われ消えてしまったのです。

社会の最小単位は家族ですが、今その家族を含めた人間関係の

情愛という失われた古き良きものを取り戻さないと、日本の家族も

地域も組織も社会も活気溢れる形で再生できないと思います。

たとえどんなに美味しいものを出されても、家族が険悪な

関係だったら美味しくないように、組織も『人は石垣・人は城』で

上意下達に徹した効率だけを重んじる暖かみのない組織だったら、

生気が溢れ出るように生き生きと働く人達は育たないのです。

子供や若者を叱り利用する大人を減らし、子供や若者や女性を

慈しみ情愛を持って育てる大人の増加が国力回復に繋がります。

しかし豊かに育った若者達も苦労をしていないせいか? 

人を見る目が養われておらず、ニンジンをぶら下げられると

私が見ていて『いけない』と思うような人について行き、

悪い運を自ら引き寄せている光景も多く見られます。

今のような強者が『力が正義』で大手を振っている腐敗状態から、

子供や若者や女性という弱者を庇護し育てるという社会意識に

転換できなければ、日本の古き良きものを失い続ける危機で、

新しい良きものは何も生まれてこない危機が続きます。

昔あった下町的な情緒豊かな人情味あふれる日本文化の良さを

伝承しないと民族として脆いような気がしてならないのです。