呼び名。

先日銭湯に行ったときが日曜日だったせいか? お孫さんを

連れた方が『おじいちゃん』と呼ばれていたのを聞いて、

改めて呼び名について考えさせられました。

私の孫達は私を『爺じ』と呼びますが湯舟に浸かりながら、

そう言えば妻と知り合い娘ができるまで茂子という名前の濁音が嫌で、

妻を『モコ』と呼んでいたのを想い出して、では私は妻から

何と呼ばれていたのか? を思案したのですが、

多分マサヒロから『まーちゃん』だったと思うのですが、

確信を持って未だに想い出せないほどに遠い日の出来事になった

と思いました。

こんな新婚時代を想い出したのは昨年の暮に探し物をしているとき、

新婚時代の五十年前に買った赤井電機製のオープンリール

見つけて電源を繋いだら動いたので、早速電気屋さんに配線を

お願いした経緯で新婚時代の諸々を想い出していたからです。

結果はボリュウームを最大にして辛うじて再生できたのですが、

録音は駄目なので果たして修理できるところがあるのか? 

果たして修理代はいくらかかるのか? テープを売っている所も

東京で、日本では作っておらずドイツ製で一本一万円くらいして、 

音響道楽としても限度があるので問い合わせするのを迷っています。

オーディオの世界でもオープンリールは死語に近いのですが、

私達も娘ができてからはお互いを『お父さん・お母さん』と

呼ぶようになり、最後までお互いをその呼称で呼んでいたので、

今も妻を想い出して写真に声をかけるとき『お母さん』と

呼ぶのが一番シックリしています。

呼称は家庭だけでなく職場などでは社長などの階級呼称ですが、

対等か上下関係などや取引先が下請けなどでは呼び名が

人間関係にも微妙に影響を与えるので、どのような呼称で

声をかけるか? は年齢なども含めて複雑に絡んでおります。

私共のように様々なお客様に会う仕事ですと呼称の選択が難しく、

私は一般的な女性には『奥さん』ですが、二十年程前に来店した

四十代の女性との会話中に『奥さん』と呼んだら、物凄い勢いで

『私は結婚していないから奥さんではない!お客様と呼んで』

叱られたことがありました。

そんな失敗があっても私が『お客様』という呼称に変えられないのは、

この言葉に漂うへりくだったよそよそしさを覚えてしまうからです。

私の店は名前を聞く商売ではないので、あるとき話の流れで

『お名前は?』と問いかけたとき『何で名前を言わなきゃいけないの!』

と詰問されたこともあり、本当に人は色々だから差しさわりのない

『お客様』が一般的なのだろうと思いました。

それでも私は名前の判る人には名前で呼びかけ、話の流れや

家族で来店したことのある既婚者の女性には『奥さん』という

少しくだけた呼称で会話をするのは、その方が会話に親しみを

込めて話せるからで、独身と判った人には名前を覚えて名前で

会話をするように心掛けております。

人の呼称には相手に対しての心情が滲み出ているもので、

男の『お前・てめえ・この野郎・貴様』などだけでなく、相手を??さん

とさん付けで呼ぶか? 君か? 呼び捨てにするか? などの中に

相手への敬意や親しみや蔑視感情が何気に表出しております。

しかしコンサート録音のCDなどで耳にする『拓郎・陽水』など

と呼び捨てで観客が叫んでいるのは、敬意を持っている相手への

親近感からの呼び捨てで蔑視感情などは微塵もないと思います。

私が妻に初めて『お前』という呼称を使ったときすごく嫌な顔して、

お願いだから『お前』と呼ばないでと懇願されたので、

それ以後は決して使わないようにしました。

孫達ふたりも『あんたねー』と言うと反射的に『あんたって言うな!』と

言い返し名前で呼ばないと怒りますので、普段は全て

『??ちゃん』と呼ぶのが日常的になっています。

男と違って女性が『あんた』という言葉を使うときは、

『あんたという人がよく判った!』などのように失望と蔑視感情があり、

反対に『あなた』という言葉を使うときは敬意や親愛感情があるように、

男女で同じ言葉でも使い方に複雑な意味が込められております。

このような呼称だけでなくイントネーションなどにも感情的なものが

出ていて、そこに人間の上下関係や敬意や憎悪や蔑視感情などが

含まれておりますが、私は円滑な人間関係の確信が持てた人への

謝罪のとき遊び感覚で、怒鳴るような口調で『ごめんなさいねー』

言うのですが、最近は孫達も遊び感覚で使いますので返事はやはり

怒鳴る口調で『とんでもないですよー』と返して楽しんでいます。

先日下の孫に保育園の先生に叱られたらとき使ってみたら? 

と言ったら『爺じそれはできないよー』と即座に言う所をみると、

もう上下関係の分別をわきまえていると感心しました。

子供の面白いところは、私が迎えに行き他の子が先に気付くと

『??ちゃん、おじいちゃんが迎えに来たよ!』と孫に知らせる

のですが、孫は必ず『おじいちゃんじゃない、爺じなの!』

訂正するのは、呼称の親近感への違和感なのだと思います。

女性がある年齢に達して一番ハッとする呼称に『おばさん』があると

思うのですが、『お姉さん』と呼ばれたときから『おばさん』と呼ばれる

ことに慣れるまでの心情的な受け入れも時間が必要で、

『おばさん』から『お婆さん』と呼ばれた初めての瞬間なども

男より女性の方が感受性は鋭敏のように思います。

私は呼称の変化より通行中にガラス越しに自分の姿を確認して、

自分自身の老け具合を確認させられ驚いたことがあり、

最初のうちは避けておりましたが最近は思いっきり受け入れて

おりますので、自分を客観的に見る姿として楽しんでおります。

男女ともに年相応の呼び名は幼児が呼びかける呼称が

的を得ていると思うのですが、最近は年を重ねた独身の女性や

男性も増えており今後は今以上に増加しますので、どの分野に

おいても他人行儀な『お客様』という拝金主義的で慇懃無礼な

言葉のみが世間に溢れると思います。

このような現象の普及が引き起こすものは、個人の孤立化の加速

昔の言葉で言う『袖振り合うも他生の縁』という、人間としての成長と

成熟に欠かせない『縁』が失われて行くことに繋がると思います。

組織の中の上下関係だけでなく、『お客様は神様』などという

拝金主義的な言葉もまかり通っている昨今は、仕事という

社会生活の大部分を占めている場所で建前だけの人間関係が

広がっており、その結果として自分とは全く違う価値観を

持っている人に触れる機会が減少することに繋がっていて

それが人間的な成長と成熟の機会を奪う原因になっています。

私はたとえお客様でも間違ったことを言ったりすれば

異論を唱えますし、子供連れで来て間違った子育ての言動を見たら

理由を述べて指摘するのですが、妻や娘にはお客さんに

説教をする店がどこにあるの! と言われても止めないので、

ある時期からは『お好きにどうぞ』と言われるようになりました。

しかしそんなお節介な出来事から親密になったりするもので、

その親密さはお互いの呼称に必ず現れ、人情を通じたお互いの

学びに必ず繋がっているものです。

終戦後から高度成長期に入ってから以後は様々な呼称が変わり、

文士が作家になり大工が建築士になり看護婦が看護師になり

スチュワーデスは今フライトアテンダント(客室乗務員)になったのは

男女差別を避けるためだと思いますが、男女雇用機会均等法以後

に様々な状況変化が起こったための呼称変更だったのです。

一般的に女性は『私』ですが、男は幼少時代は『僕』で、

中学生頃から社会人になるまでは『俺』で、社会人になってから

『僕・私・俺』を状況によって使い分けるようになっていると思います。

使い分けの傾向として『俺』はプライベートな関係や虚勢を張るときや

凶暴性を剝き出しにするときに使い、男がよく使う『俺だよ俺』などの

言葉は自我を剥き出しにできる相手にだけ使っています。

反対に『私』は公的な場におけるお客様や目上の人などの

気を遣う相手の場合が多く、会社では連絡や報告書などの文書では

ほぼ『私』が多く、少し気取って洒落た服を着て外出するときのような

少し硬さがある言葉ではないか? と思います。

『僕』はこのふたつの中間くらいの柔らかい印象を持つ言葉で、

この僕はシモベとも読みますので謙虚な素の自分を曝け出す

ような気持ちのときに無意識に使っているような気がします。

男の一人称の呼称として昔は拙者・小生・吾輩・おいら・ワシなども

ありましたが、言葉とは時代の写し鏡で現代用語辞典などを

見ていると若者が使う私の知らない言葉が沢山あります。

女性は『私』が多いのですが、時折親しい関係になった相手に

自分の名前を言ってから話し出す『??ねー』という一人称の

使い方ありますが、これは心の中で葛藤し続けても答えが

見つからない悩みの本音を吐露し相談しようとしていることが多く、

ただ頷きじーっと聞いてあげるのが一番の薬になる答えです。

女の子の孫達ふたりがこの下りで私に話しかけてきたときは、

決して聞き洩らさないように注意して頷くのですが、

こんなときは答えを求めているのではなく、悩んでいる自分の

辛さを知って欲しく一緒に悩みを共有して欲しいのですが、

吐き出しているうちに自分自身で答えを見つけて成長しています。

妻がよく言った『意見はいらないから、黙って聞いて!』が正解で、

辛い気持ちを自分が信頼する人に話すと気持ちが楽になるので、

孫達のような苗木の成長に欠かせない『水やり』に繋がっていて、

そんな救難信号として女性は『??ねー』と話し出すような気がします。

また日本では政治家・教員・弁護士・医者・芸術家・作家などを

『先生』と呼びますが、学芸が優れた人を指す中国の用法が

江戸時代以降に広がったもので、先に生まれた人が原義の

敬う対象としての言葉ですが、果たしてそのような気持ちで使用して

いる人がどれほどいるか? 最近はむしろ利益供与を期待して

媚びで使用している人の方が多いような気がしています。

『先生と言われるほどの馬鹿でなし』という言葉があるのは、

先生と呼ばれることに自己満足し自分を過大評価している人への

皮肉で揶揄し自戒を求める意味と、誰でも安易に先生と

呼ぶ風潮への皮肉を込めた意味がありますが、人間とは絶えず

外部評価を気にする傾向があることに半分意識的につけ込み、

迎合的に『先生』という呼称が日本で広がったように思います。

実利ばかり追い求める社会になった果てに、人間として

自分のためだけに生きている人達が増加し、大切な人のために

生きることに喜びや充実感を覚え、そこに自分自身の存在価値を

見出すことに生きている意味があると思う人の減少を感じます。

自分の存在価値と生きる意味を見失ってしまい、家族を持たない

人達が増加した時代になったときの老人社会はどうなるのか?

今は若者でも人は必ず歳を重ね老いて誰でも老人になるので、

ひとり身が増えて甘え頼れる人がいない老人が増えた未来は、

生活と施設に入るお金だけを頼りにするような、よりギスギスした

お金社会になって行くような気がします。

お金とは怖いもので、若いときはお金によって得る自由を

満喫できますが、そのためには同じだけの我慢もあるわけで、

その我慢が精神的な限界を越えたとき犯罪になりますが、

世界的な政治の極右化傾向による世界的な分断現象などは、

格差による政治的な不満のやり場として起こっていると思います。

親族の崩壊と核家族化が進んだ現代人が求めているお金とは、

自由ではなく自己保身のような感覚があるように感じていますが、

その自己保身に大きな不安と危機を覚えている現象と思います。

若者・中年・老人の呼び名がありますが、誰もがその時期ごとに

自己保身と家族のために働いているのですが、その勤労の努力が

報われない苛立ちが社会不安を増幅しています。

戦争勃発の背景は社会不安が隠れた引き金になっており、

ロシアのプーチン大統領やイスラエルのネタニヤフ首相の

戦争継続も同じで、政治家は自己保身のために国民の目を外敵に

向ける操作が常道で、大統領・首相という呼称に付随する

地位と権力を維持する手段に戦争が使われている部分もあります。

人は人生の中で呼び名が様々に変わる中に人間模様があり、

豊かでなくても結婚し子供を持ちささやかな幸せを手に入れている

人がいるかと思うと、お金持ちでも人情を持ち合わせない

傲慢さのために不幸を背負った人達もたくさん見てきました。

人間は死ぬとき地位も財産も持って行けず、持っていけるものは

家族や友人・知人と交わしたかけがえのない想い出だけです。

私は誰の人生にも陽もあれば陰もあり表には裏があると思っている

ので、いつも自分の境遇をあまり過小評価せずに生きて

老人を迎えられたら良しとすべきと思っています。

今年五月で四十七年目を迎える店頭に立ち道行く人達を

眺め続け、忙しそうに活き活きと颯爽と歩いていた人が杖をつき

トボトボと歩む姿の変遷に、様々な人達の人生の軌跡を想い出し

ながらひとり身の爺じになった自分を重ねております。