人生の薬味として死を思う。

明けましておめでとうございます。 新年早々に『死』の話題で

恐縮ですが、私は子供時代から親元を離れるまで自殺願望に

度々襲われその後も死の淵を覗き込む日々を送っていましたが、

妻と出会って生きる喜びを覚えてから消失し、特に娘が生まれて

からは毎日を精一杯生きることの喜びに満たされ、家族を持った

幸せと責任によって自殺願望は完全になくなりました。

しかし妻を亡くした最初の頃は時折自殺願望が蘇りましたが、

踏みとどまることができた一番の理由は何かしらの収入が伴う

仕事があったことで、二番目の理由は妻をなくす一年ほど前に

娘達家族が孫誕生と共にスープの冷めない場所にきたことで、

三番目の理由は自殺願望を消すためにレシピを見て手間のかかる

料理に精を出し心の隙間を忙しさで埋めたことでした。

病気後の夕食は娘と婿殿の差し入れのお蔭で過ごしていますが、

今はその恩恵に甘え続けてリハビリに精一杯励むことができ、

時折孫達のお迎えを頼まれると孫達に癒され心に張りが生まれ、

娘達や孫達に多少の役に立てることに生きる幸せを実感しています。

生きる上での今の最大の闘いは老いて行く身体との戦いですが、

老いても社会的な役割を果たしている実感が持てる仕事を持ち、

その対価としての多少の収入が自らの存在意義に繋がるので、

老いの身体には仕事こそ生きる原動力になっているのだと思います。

また仕事を持つということは規則正しい生活にも繋がり、

身なりも整えますので自然と心も整って過ごすことができます。

長い商いの中で妻を亡くした人が認知症になったり、

ひとりの老後を施設で終えたり、後追い自殺をしたりした人などを

見てきて一般的に男は弱いものですが、女性は夫を亡くしてからも

強くしっかり生きている人が多いのは家事を続けていることと、

夫や子育てに耐え続けた心の強さではないか? と思います。

一般的に男は仕事を失うと社会と繋がる糸口を失う人が多く、

子供が自立し妻がいなくなると自らの存在意義を失い

その悲しみと辛さに耐えられないのは、男とは誰かを支えているという

自負に依存して自らの支えにしている上から目線の弱さがあり、

そこに生きる意味を求めてしまう男の悲しい性があるように思います。

人間には何事も天性と言われるものが備わっているのですが、

私は孤独に耐える強さなどにも天性のものがあるように思い、

その点で私にはその天性は備わっていないと思っています。

しかし私自身の人生を振り返って『死』を意識して生きることは

大切だとも思っており、私は死を迎えたときに心残りのないよう妻や

娘や親族に対してできるかぎりのことをしようと努めてました。

もし私に対して何かしらの不満を持っている人がいるとしたら、

その人は未熟でわがままな人間だと私は確信しております。

私が三回の破綻危機を迎えたのは私自身が蒔いた種ではなく、

今の店舗を購入しローンを抱えた直後から続いた、親族のわがままや

援助などで三回にわたり合計1700万円位の借財を増やした為です。

商人のローンは破綻のリスクが高いのでサラリーマンの住宅ローンの

ような長期返済ではなく、長くて十八年位の返済ですので

毎月の返済額は倍以上になり、その上の借財増加による

毎月の返済額増加を決算書で理解できる税務署の人には、

たびたび『夜眠れますか?』聞かれたことを懐かしく想い出します。

一番大きな借財は父のわがままと嫉妬でしたが、男の子にとって

父とは人生における最初で最後の越えるべき強者の壁なのですが、

このとき父も成長した息子を自分自身の姿と比較して強く意識し、

壁を乗り越えられた嫉妬からライバル視するのだなと思いました。

成熟した父親ならば子供が親を越えたと思えることに喜びを持ち

自分を卑下しないのですが、実情は非常に少ないのが現実です。

男の見栄とプライドがかかった嫉妬ほど手に負えないものはなく

私自身は娘だけですが、父の度重なるわがままや嫉妬の気持ちは

手に取るように理解できたので父には何も言わず黙って了承しました。

私の男兄弟は三人ですが、自分の弱さを自覚できない父は息子達に

わがままと嫉妬で虚勢を張り続けましたので、どの息子とも上手く

折り合いをつけられず、特に身体的弱者になってからの父の

晩年は一層惨めな気持ちなり死を迎えたので可哀想でした。

人間は身体的・金銭的な弱者になる晩年から死を迎えるまでの

心境にこそ人生の総決算を否応なく味わうのだと思いました。

しかし私はこれら借財のことでは今も後悔や恨み辛みもなく、全ては

私が選択し決断したことで金融機関四社の自転車操業でやれる

思った私自身の見透視の甘さが危機を呼び寄せたと思っています。

三度の危機に手を差し伸べてくれた三人の銀行の支店長達も、

このような事情に嘘がないことを通帳のお金の流れで確認できた

から私を助けてくれ、三度目の危機のときはそんな状況の中で

たとえ財産を失っても娘の希望を叶えるために東京の私立大学に

送り出していたことなどは信じられないと言われました。

そのとき私は『子供は親を選べずに生まれてきているから、

子供の選択と決断には全力で応えるのが親の義務』と答え

そのことは娘が中学生のとき娘と約束したからとお話しました。

そのとき『こんな借金まみれの家に生んですみません』と娘に謝罪し、

『トンビが鷹を生む』という言葉があるが、私は小狡いカラスで

お母さんは血統書もない野生の土鳩なのに、あなたは私達には

でき過ぎの子供なので社会に出るまではあなたの希望に全力で

応えたいと思っていますと伝えた経緯があり、私が一番心掛けたのは

その責任を果たすまでは絶対死なない健康管理でした。

私は何事も駄目だったら生まれてきたときの裸に戻ればいいと

心の中で完全に開き直っており、取引先に迷惑をかけそうになったら

『担保に入っている店舗を引き渡し、以後は銀行に家賃を支払い

営業を続ける』と決めていたのも死ぬ時に後悔したくないからです。

度重なる借財の事情を親族は知りませんが、妻は全てを娘も多少は

知っており妻に保証人の了解を取るときには、いつも呆れた顔で

『あなたの好きにしていいよ』言ってくれた無条件の信頼と、

その後の苦労にも愚痴をこぼさなかったのでいつも感謝していました。

妻はいつも黙って私の話を聞いてくれ『執念深いあなたならできる、

頑張れマサヒロ』と言ってくれたので、母性のような自己肯定感を

私は妻から授かったからずーっと好きだったのだと思います。

妻が時々文句を言ったのは年中無休の家事のことで、サラリーマンと

違い家と店舗が一緒なので月二回の定休日以外は毎日私の

三食に気を使い時間的に縛られているという愚痴でした。

とことん合理的にできている私には家が欲しいなどという気もなく、

家族と過ごす居間と寝るところがあれば余分な苦労がないと

思っていたので、妻には苦労を掛けましたが一人になった

人生を振り返って何の後悔もなく、結婚以後は全てにおいて

『できるだけのことはやった』という自負があるので、

今はいつ死が訪れてもよいと思って妻の迎えを待っています。

自殺願望が消えてからも私が日々死を意識して過ごしてきた理由は、

後悔や心残りを抱えて死を迎えたくない思いからでしたので、

月二回の定休日は妻と娘の喜ぶことを念頭に計画を立て、

母がひとりになり娘が自活してからは母と妻の喜ぶことを念頭に

定休日の遊びの計画を立てていたのは、母や妻の死が

私より早く訪れたときに後悔を残したくなかったからです。

相手が自分より早く死を迎えたときに、『生きているうちに、あれを

してあげればよかった、これもしてあげればよかった』などと

後悔を背負って生きたくない思いからでしたが、唯一の後悔は

婿殿のように妻に料理をふるまってあげられなかったことなので

仏壇の向かってとときどき謝罪しておりますが、それ以外は今でも

私なりにできる限りのことはしたと自負しております。

今は娘達への感謝と孫達の喜ぶことを念頭に日々を過ごし、

死を迎えるまで店頭に立ち仕事に励みたい思いなのですが、

四十六年間も月二回の休みで無事に過ごせた丈夫な身体に

生んでくれた母には感謝しております。

この歳まで沢山の人の死に立ち会う中で身に付けた考えですが、

私はこのような積み重ねの中で自分自身の死のイメージを整え

創り上げてきたというのが実感です。

人生において時折死を思うことの効能を池波正太郎さんは、

死を思うことは人生の薬味である述べており、若い頃から

この薬味を知っておくと気楽に生きられるだけでなく必ず得を

することに繋がっているのだが、最後にやすらかに死ぬことだけは

自分ではどうしようもなく難しいことだと述べており同感でした。

このように書いてきて、私に果たしてできるかどうか? 

判らないのですが、死を迎えると悟ったときには波乱の人生を

『楽しかったよ、ありがとう』と孫達に手を振ってお別れをしたい

のですが、笑みを浮かべてできるか? 死を迎えるときの楽しみです。

妻の希望だった先立つことを許す代わりに『必ず迎えにきてね』と

約束したことも、果たして本当に迎えに来るのか!なども

死を前にしたときの私だけの楽しみのひとつです。

このように書くように私は死は恐れるものではないと思っており、

死は解放だという思いを心から確信したのがギランバレー症候群の

病気で七ケ間点滴だけの寝たきり状態で生かされたときでした。

最初の二ヶ月ほどは人工呼吸器をつけていたので、話せず・全身

動かず・食べられず・トイレにも行けず下の世話になって、

ただ空と雲とカラスだけを見て自由に飛ぶカラスを羨んでいました。

これまでの人生には後悔も未練もなかったので、最初の三ケ月は

ただ生かされている精神的・肉体的な苦しみからの解放を願って

『心から死を望み続け』一日の時間が非常に長い毎日でした。

生きることが苦しみ以外の何物でもなく、夜は眠れず眠っても

恐ろしい夢を見続けて、目覚めたときは夢に妻が現れれば

迎えだから死ねる』のにと思いひたすら待ち続けていました。

何事も新しいことに挑戦するとき人は不安から緊張するのですが、

死も想像による怖さで苦しみは死を迎える前の生きている時です。

その死を迎える前の苦しみの中で走馬灯のように駆け巡る

自分自身の人生の軌跡の総決算が、人生の中で触れ合った

人達の対応に表出していることを、リハビリの病院生活五カ月間

患者さん達の様子を注意深く見続けて理解できました。

私が突然倒れ閉店した留守番電話に心配の伝言や、

友人やお客様から届いた心配の葉書や手紙が娘から届けられ、

指が動くようになってからは孫達からも手紙や絵だけでなく

携帯に励ましの映像が届き、自分が社会や廻りの人達に必要と

されている感謝で辛いリハビリも苦痛ではなく意欲に繋がりました。

健康を当然のように捉えているとき人は様々な欲望を持ちますが、

日頃は当然と思っている美味しいものを口にして官能を味わい、

自力でトイレに行けて少しは誰かの役に立てる生活ができること

こそが生きている幸せなのだと死に直面すると判ります。

人間は強者の位置にあるとき弱者に強権を振り廻したか?

寛容と慈愛で接したか? の結果が最後を迎えるときの違いに

現れるもので、自分が身体的な弱者になり死を迎える間際には

誰もが必ず自分自身の生き様を思い知ると私は思いました。

誰もが老いと共に目がかすみ耳が遠くなり様々な機能が衰える

のですが、このように全ての機関の反応が鈍くなって行くことこそが

実は死を苦痛なく迎えるための準備に繋がっており、

死期が近づくと痛みを緩和するエンドルフィンという脳内麻薬物質が

出ることも最新科学で判っています。

精神的にも老いると生気を失うことは生きる力の減退ですが、

同時に生への執着も減退するので死への恐れも減退するのです。

人間とは『人の間』と書いていることに意味があり、単に人であらず

人と交わりながら人との間で生きる、つまり世間と交わって生きている

ので中国語では『じんかん』を意味しています。

江戸時代には『非人』という言葉がありましたが『人に非ず』の世間から

つまはじきにされた人のことで、これは村八分的な扱いですが

罪人への『死刑』などは世間から抹殺する村八分です。

一般的な人の死はその世間という組織からの脱会のようなもので、

その脱会手続きは国柄による文化的なものが作用しており、

死んだら終わりと思っている国は火葬にし、死んでも魂は残っている

と思っている国は土葬にしている傾向があります。

私はずーっと安楽死を認めるべきと思っておりましたが、オランダの

安楽死を補助している医師の苦しみを読んでから変わりました。

それは安楽死を執行する医師が人の命を救うのではなく人の命を

奪う苦しみを一生の背負い続ける重さで、、日本でも優生保護法が

できるまで『間引き』が産婆さんによって普通に行われていたので、

その職業の人達は大変苦しんだという話を想い出しました。

東北地方のコケシは『子消し』という説もあり、コケシのもの悲しさは

間引きされた子供への供養ためではないか? と思いました。

その記述を読んでから安楽死は自分自身だけの問題ではなく、

その行為を執行する立場の人に思いが到り考えが変わりました。

死には本人の死である一人称、身内や知人の死の二人称、

まったく知らない他人の死である三人称がありますが、安楽死や

自殺などの一人称の死は本人の問題ですが、残された家族や

友人にとっては人称の死を『どう受け止めるのか』という問題を

残すことで、家族や知人が自殺や安楽死に対してずーっと背負って

行かなければならない周囲への配慮を私は忘れていたのです。

生きている意味は自分だけのものではなく、絶望の中でも

『その運命を受け入れどのような対処をするのか』による

周囲に与える影響も考慮すべきで、そのような影響も含めて

自分自身の生きる意味を広げるべきだと思うようになりました。

私が家族を持ってから自殺願望が消えたのは、このことに気が付き

自分自身の命が自分だけのものでないと思ったからですが、

病気で絶望と闘っていたときは、病室の壁に貼ってくれた孫の

励ましの絵と文字を見て毎日死にたい気持ちと闘っていました。

その後のリハビリへの取り組みも含めて、孫達に二人称としての

私の死と同様に私の生き様が孫達の未来に何かしらの影響を

与えればと考え頑張ったのですが、お姉ちゃんの勉強やピアノに

付き合っているとき『爺じもリハビリやピアノや水泳頑張ってね』など

と言うことに出ており、遊んでいるとき私が少しでも危険なことを

しょうとすると二人は大声で『爺じやめて!』と気遣いをしてくれます。

人間は誰でも100%の確立で死が訪れるように、生きることにも

100%の確立で悩みや苦しみが当然あるのですが、私はいつも妻に

『傷のない家庭はない』と話し、天皇陛下の家庭にもあるよ!

と言ったとき『なるほど』と納得してくれました。

普段元気で悩みなどないとき死は意識にも登らず忘れている

人達が多いのですが、やはり意識すべきことです。

私は死は眠りと一緒でその瞬間は自覚できないものだから

決して恐れるものではないが、眠れないときが辛いように

死を迎える前は肉体的な苦しみと精神的な辛さを味わうので、

せめて後悔の苦しみは背負わずに死を迎えたい思いなのです。

死に場所は病院や施設などでなく、孤独死などと言われようが

妻や娘や孫達とのたくさんの想い出がある自宅で迎えたいので、

死期を悟ったら孫達にお別れの挨拶をしておきたいと思っています。

私が思う『死』は生きる苦しみである四苦八苦からの解放であり、

若い人達の重荷である社会保障費の年金と医療費負担を減らす、

社会負担軽減に寄与する社会奉仕に繋がると思っています。

本年もよろしくお願いいたします。