愛するとは対象に絶望しないこと。

ロシアだけでなくイスラエルも戦争を始めましたが、イスラエルは

1948年の国家建設の経緯に根本的な問題が潜んでいるおり、

パレスチナとの憎悪の連鎖の起点はヨーロッパがユダヤ人との

共存を拒み、大国間だけの合意によって強引にパレスチナに

先住民であるアラブの人達を追い出してイスラエルを建国した

ことに根本的な原因が潜んでおり、両国の民族的な憎悪連鎖の

始まりには欧米による反ユダヤ主義の歴史があります。

ロシアとウクライナは言語・文化・宗教が近い同じスラブ人なのですが、

パレスチナとイスラエルは言語も文化も宗教も全く違いますので、

一時的な和平が得られたとしても憎悪の連鎖を止めるのが

非常に難しいのは、イスラエル建国に付き纏う憎悪感情が拭えない

歴史的な事情から、過去の和平合意も継続できないのです。

過去に和平を推し進めた人達が自国民によって暗殺されたのも、

憎悪がどちらの国民にも血肉化されている内部分裂が

歴史的な時間の中に存在するからで、中東不安定化の火種に

なり続けているのは利害を超えた感情だから手に負えないのです。

これを解決するには憎しみを抑え共感できない相手と共生しようと

する寛容の精神しかないと思うのですが、言葉にするのは

簡単ですが受け入れ実行することが感情的に非常に難しいことは、

個人的な人間関係に置き換えると理解できると思います。

人間とはひどいことをされたことは脳裏に焼き付いていますが、

他者にしたことは軽く考える傾向があり最初は自己嫌悪を感じて

いても、すぐ忘れて次に自己弁護によって自己を正当化します。

同様に他者に何かしてあげたことは鮮明に覚えていても、

他者にしてもらった贈与は喉元過ぎると人間はすぐ忘れます。

私は憎しみを抑え込み許すことは深い愛だと思うのですが、

憎しみとは対象相手への強い不信感と共に絶望したときに

持つ感情で、離婚などに到る過程は今まで二人を強く結びつけて

いた信頼と希望の消滅によって愛情が消滅するのですが、

その前に相手への不信と絶望による裏切られたという憎しみが

心の中に必ず湧き起こっています。

私が思う結婚という制度が持つ意味の中で良いと思うことは

離婚という手続きが含まれていることで、この離婚手続きによって

不信・絶望・憎しみの感情がリセットされるように感じることで、

戦争でいうと和平交渉の末の停戦と和解のリセットのようなものが

離婚という制度ではないか? という気がしています。

最近は年々離婚数が増えておりますが、逆説的に考えると

些細なことで伴侶に絶望し信じる心を持続できない人達が増えた

こともあるのではないか? という思いもあります。

登校拒否や引き籠りの増加なども、親の希望に応えられない

子供を信じきれない親の絶望感が子供の心の奥底に伝わり、

子供の生きる力を奪っているのではないか? と思えます。 

どんな時も自分の子供を信じ切って見守る深い愛情こそが、

子供が不安や難関に立ち向かうときの力を生んでいるもので、

人はひとりでは強く生きられないから人と書くように、誰かの支えが

難関への不安や絶望に立ち向かう力を湧き上げているのです。

私は結婚後に愛とは? を個人的な次元で考えたことがあるのですが、

妻と娘を対象に『この二人のために果たして死ねるか?』

思案したことがあり、その後の三度目の危機のとき実際に

高額の生命保険金を残し一度死のうと考えたことがあるのです。

決して生きることに絶望したのではなく、私の生存より借財の倍額

入っていた保険金と、残り少ない借財の店舗を売却した金額とを

合計したお金を残した方が妻と娘の未来に役立つのでは? と

そのときは心から思ってしまったのです。

日本の自殺者は三万人前後で推移し交通事故による死者の

六倍強でにもなり、残された遺族で心に傷を背負っている人の数は

三百万人以上に登っておりますが、私はその遺族になるはずの

妻と娘の気持ちを見誤っていたのです。

そのとき金銭的なことは何も知らない妻でしたので、

何気に『もし私が死んだら入る保険金』のことを話したのですが、

そのとき感情を抑制気味でも敏感な妻は黙って聞いていましたが、

私の様子に察知し当時大学生だった娘に電話で相談したのです。

すぐに届いた娘からの手紙を読み、私はお金では代えがたい

私への娘と妻の愛を受け取って思い止まった経緯がありましたが、

そのとき愛とは他者だけでなく自分自身にも絶望しないこと

だということを娘から教わりました。

戦争はそれぞれの人にとってかけがえのない大切な人の命を

奪い憎しみの連鎖を生むのですが、その傷を癒すには少なくとも

五十年以上の平和の歳月が必要なように思います。

その長い年月と世代交代を経て初めて得られる精神的な傷跡の

修復が整ったとき、その悲惨さを小説や映画などの物語として

直視できる精神的な余裕が生まれ和解できるのだと思います。

憎しみの連鎖は次世代の未来の不幸に繋がっているのですが、

そうと判っていても共感できない相手との共生や共感という

寛容の精神を持つなど神業で、最終的には終戦後の戦争経験者

したような憎しみと共に自分が犯した罪を抱え込み沈黙して

次世代への連鎖を断つことではないか? というような気がします。

戦争の終結には憎しみを持つ相手に対しても、自分達の未来に

対しても絶望しないという双方の愛情が整うことが求められるのです。

個人においても愛とは自然に生まれてくるようなものではなく、

若い時の肉体的な繋がりは高揚感と一体感を与える錯覚で、

魅力的な黒髪が白髪頭になり、魅力的な唇は大口を開けて

食べ物を頬張るようになり、普通におならをするようになります。

そのような過程を経て全てが色褪せてからが愛の始まりで、

様々な行き違いや喧嘩を繰り返しながらお互いに嫌悪感や

憎しみのようなドロドロした関係に嵌りながら、その嫌な部分も

含めて共生できる寛容の気持ちを伴侶や子供に持てたとき、

本当の愛に昇華しているように思います。

そのような関係になれたとき何気ないひと言に救われるもので、

たとえ自分自身では判っていることでも実際に伴侶や子供に

言ってもらえるひと言は心と身体に染み込み生きる勇気になります。

今の私は娘達家族からその言葉をもらっていますが、日常的には

妻の写真を見て言ってもらえそうな言葉を求め空想していますが、

今の私は過去のそのような記憶に救われて生きています。

伴侶も子供も現実的には自分の希望通りにならないものですが、

そこで相手への愛情に絶望せずに寛容の気持ちを持続することが

愛へと変質させ、結果的には相手を変える力に繋ります。

愛に変質するまでの最初の寛容は苦痛を伴いますが、

やがて快感になるのは人間の『考える葦』としての心の力です。

生まれたばかりの時に持つ子供への愛しさは、動物なども持つ

持続性のない本能的な愛だと私は思うのですが、長い養育期間が

必要な人間には様々な苛立ちを伴う軋轢などの精神的な忍耐や、

成長に伴う金銭的な苦労など子供が自立するまでには必要です。

その持続的な苦悩に長く耐え続けた証が愛情の深さに繋がり、

気が付くと『与えることが快楽の愛』に変質させるのだと思います。

愛に絶望している人は愛というものを過信している人で、

恋は字の如く心が下にあるお互いが下心で悪いものを隠している

誤解と錯覚から生まれるのものですが、愛とは恋のような偶発的な

出会いがしらで生まれるものではなくて、心の字が真ん中にある

ように真心の長い継続の期間を経て育て上げるものです。

忍耐を伴う過程を経て育て獲得するのが愛と理解していない人

多いから『愛への不信』感情が安易に起こるのだと思います。

大事なのは不信感情が起こったときで、そのとき裏切りへの

不信感情を安易に言葉することを極力慎み、対処の要諦は少なくとも

態度だけは優しく接するように心掛けることが愛を育てるという、

極めて危ういものだから愛は尊く誰もが求めるものなのです。

かって妻と面識のある私の友人が『妻のどこを好きになったの?』と

聞いたことがあったのですが、それは私の妻は誰と会っても

軽く会釈し挨拶するだけで感情の抑制が効いた対応だったからと

思いますが、答えは自己顕示欲が少なく私には裏表がない

誠実さで私を信頼している所が子供のようで大好きなだけで

仕事も手際が悪くお客様との会話も苦手なので手伝わず、

料理や家事なども苦手だけど出来合いやインスタント食品が嫌いな

私のために精一杯やっている誠実さだけが取り得で、特別な長所は

何もないと言うと友人二人ともに戸惑い返事に困っていました。

私は妻だけでなく人の能力が高い低いなどにはあまり興味がなく、

目立たない場所で自分の役割を地道にコツコツと果たしている

ような人に自然と目が行き好感を持つだけでなく、昔から

そのような人には愛おしさを感じるのです。

妻は何事にも自信がなく、できないことは『私にはできない』と

見栄を張らずに正直で言っていましたが、娘と私のためには

特別に精一杯の背伸びをして頑張っていました。

時折こぼした家事の愚痴は、背伸びしている自分を認めて欲しい

心の叫びだっただけで、人は誰でも愚痴を言っているときは

無意識ですが自分の承認を求めている心の叫びなのです。

その子供のような遠慮がちな素直な誠実さが守ってあげたいという

私の男心をそそったのだと思います。

妻は九歳と五歳の孫達と同様に、私に対して自分の希望は

必ず叶えてもらえるという確信を持って接して来ましたので、

私はその信頼に応えずにいられず愛おしさを感じたのだと思います。

男の立場で考える『可愛い女』とは、長所を多く持つことではなく

普通なら隠す悪い面などを素直に誠実に述べる無邪気さで、

そのような場面に接したときその人が信頼に値する心持ちになり、

その誠実さに可愛いさを感じて守ってあげたくなるのだと思います。

私が孫達を怒ったことがないのは、に付けたものがしいと書く

躾は婿殿と娘の役割で、私はただ慈愛で接するのが役割だからです。

時々ふたりを預かるのですが帰宅時間に『やだ』と言っても、

私は『お願いでーす』と言うだけですが、先日はお姉ちゃんが私の

携帯を取り上げて私をビデオ撮影しながら『爺じはハゲですねー

可愛いですねー』と言い、下の孫は私の頭をなでたり耳たぶを

触ったりして『気持ちいい』と言い中々帰宅しないのが日常です。

このような我儘を安心してできる人がいる自己肯定感の獲得が

孫達の心の滋養になり、いずれ訪れる苦難を乗り越える力になります。

妻も私に『本当に小生意気なひねくれ者だねー』や

『人も食べ物も好き嫌いが多い手間のかかる面倒臭い男』平気で

言えるようになってから、抑圧による鬱症状が全く出なくなったのです。

絶望の反対は希望で、素直に自分の希望が言えることは、

相手の愛情に信頼と希望があり全く絶望していない証なのです。

愛とは輝くような美しさで一瞬の喜びを与えてくれるのですが、

油断して大切にしていないと淡雪のように一瞬で溶けてしまう

儚ないものだから、人は誰しも命ある限り愛を追い求めるのです。

人生には甘くとろけるような喜びもあれば地獄のような苦しみもあり、

愛の持続を難しくするのは辛く苦しいときですが、そんなときほど

愛した人に絶望せず信じて気付きをひたすら待つのが愛です。

人の思いとは平凡な毎日の中の言葉や態度に必ず現れており、

その受け取った思いによって人は良くも悪くも変わっているのです。

決して絶望せずに信じ切ることは平凡な毎日の生活の中にあり、

その平凡な毎日の中で信じ切る積み重ねの愛情によってのみ、

はかない愛は育まれ確信へと変わって行き、お互いを思いやる

気持ちの確認がそれぞれを強く生きる力に繋げます。

愛する対象があなたを絶対に裏切れないという感情になるような

愛を育むためには、求める相手を信じて素直に誠実に接するという

単純なことを実践し続ければ良いだけです。

最近の離婚や引き籠りの増加の裏に隠された背景のひとつとして、

愛情を注ぐ対象に対して『ああして欲しい・こうなって欲しい』という

無意識的な条件付きの愛情の形が増えていることもあると思われ、

要求が満たされないと安易に絶望しているのではないか? 

思いますが、その絶望は伝染するから相手も絶望するのです。

その絶望には自分の思う通りにならない苛立ちがあるのですが、

その苛立ちの根底にあるのは愛ではなくエゴの増殖と肥大です。

真心の愛とは無条件で対象相手を信じ決して絶望せずに希望を

持ち続けることで、そのような愛を受け取ったとき人は失った自信や

イジケそうになった気持ちから立ち上がる勇気が湧き起こり、

希望を持って前を向き強く歩み出すのです。

パワハラやモラハラなどの偉そうにする醜悪な快感は持続しない

のですが、忍耐の伴う贈与の快楽は相手の喜びと成長という

返礼があるので、持続した充実感と幸福感で満たされます。