遊びと勉強と仕事・どれが一番大切。

子供とは勉強より遊びが大好きなのが健全な姿なのですが、

この遊び好きはよく考えると大人も同じなのに、親は子供に

当然のように勉強を強要している人がほとんどのように思います。

夏休みの頃に三年生の孫が『なぜ勉強をしないといけないの?』

と聞いたので、疑問に答える良い機会と思いドライブに誘って

その理由をお話しました。

それは『あなたが生き残るためです』と言うと

『えぇわかんない、教えて』と言ったので以下のように説明しました。

事故など様々な理由で親をなくした子供は養護施設という所で暮らし、

そこからでも学校に通い勉強をするのは十八歳になったら

養護施設から出てひとり立ちしなければならないからです。

ひとり立ちしたら自分で働き自分で生活をしなければならないのに、

計算もできず字も書けない人は働く場所が見つからないからです。

会社は働く場所ですので、より仕事ができる人を求めているおり

同じ人間でも能力のある人の方が有利な条件で働けるだけでなく、

収入というお金も多くもらえるので生き残りには有利です。

孫は『お父さんとお母さんがいなくなるなんて嫌だ!』と、

今まで想像したこともなかったことに一番驚いていましたが、

次に自分自身がやがてひとり立ちすることなど想像もしておらず、

『ずーっとお家にいたい!』言いましたが、『あなたのお父さんと

お母さんもひとり立ちしてから、お互いを好きになって結婚した』

のだよと説明すると何となく理解できたようでした。

人間は誰でも褒められると嬉しいのですが、勉強は先生や

親に褒められるためにやるのではなく自分のためなので、

『やりたくなければやるんでない』と言い、『勉強より遊びの方が大切

と爺じは思っていると伝えると『どうして?』と耳を傾けてきました。

理由は遊びの中で喧嘩したり仲直りをしたりしながら人の気持ちを

理解する社会性というものを身に付けられます、勉強だけでは

この大事な人の気持ちという社会性は身に付かないからです。

そして遊んでいると意地悪な人や優しい人や乱暴な人や

勇敢な人や臆病な人など色々な人がいることを知りますが、

これを知ることがひとり立ちしたときの生き残りの役に立つのです。

勉強は生き残るために遊びの次に大切なことだから、やるか?

やらないか? は自分で決めれば良いのですと言うと、やらないと

先生や親に怒られると言ったので、やりたくなければ怒られなさい

答え、大人もやるべき仕事をやらない人は怒られるのです。

生きるということは子供は勉強を大人は仕事をすることですが、

勉強や仕事をするために生きているのではなく

その役割と責任を果たしたお金で自分が楽しいということを見つけて

楽しむ、爺じはお客さんにも感謝されて嬉しいので仕事も楽しく、

働いたお金であなたの欲しいものや誕生日プレゼントやお年玉を

あげることができることも嬉しいので楽しさは二倍になります。

勉強や仕事が嫌いな人はやるべきことができないから嫌いなだけで、

嫌な勉強や仕事でも努力して出来ないことが出来るようになると

達成感という喜びを感じるのが人間の不思議なところで、

あなたも努力して出来たとき嬉しくなりお父さんやお母さんが

一緒に喜んでくれたら、あなたはもっと嬉しくなるでしょうと話しました。

そんな話をした二か月後くらいに公文と宿題をしたくないと

言うので、それではやらないでドライブしましょうと誘って

『毎日遊んで勉強ができる方法があるよ』と言うと、『教えて』と

言うので私の同級生で東大に行った人の話をしてあげました。

彼は中学・高校といつも一番でしたが、中学二年のとき隣の席に

なった授業中に『家で何時間勉強している?』と聞いたのですが

返事をせず、授業後に『高野授業中は話しかけるな!』と言い

『俺は授業中に集中して覚えていて、家に帰ったらプラモデルや

ラジコンなど好きな遊びをしているから家では勉強していない』と

きっぱり言い、今度家に遊びに来いと言うので行ったら部屋には

見たこともない立派なプラモデルやラジコンが沢山ありました。

彼は勉強も趣味のことも集中して楽しんでおり、テスト後も考え

集中したその日のうちに間違った所をチェックしていましたが、

これは記憶の二重押しで記憶の定着率が上がります。

高校は同じ進学校に行ったのですが、通学列車の中で参考書を

開いていたときに声をかけたら、『高校の勉強は最低十五分の

予習と復習は必要』だと言って笑っていました。

この話をしてから『??ちゃんは集中すれば出来るのに

いつもグダグダしているから遊ぶ時間が少なくなっているのです』

言ってから『では公園でも行きますか?』と言うと黙り込んでいました。

少しすると『爺じお店に帰って』と言うので『どうして?』と聞くと

『お店で公文と宿題を集中してやってみるから時間を計って』と

言うので『はい』とドライブを中止しての挑戦でした。

本当に集中していたのでどちらも十一分位で済ませたのですが、

最後の方は眠くなっていたので時計を止めて抱き上げてから

何度も跳ね上げたり落としたりすると大喜びしていました。

『眠気は醒めた?』と聞くと『うん』と言ってまた残りの宿題に取り組み、

早くできた時間を知って自信になったようです。

終わった後に車の中で『誰でも集中力が切れると眠くなるんだけど、

集中の訓練を続けると長い時間集中できようになりますと言い、

『あなたはやればできるのです!』頑張って偉かったでーすと

褒めてご褒美のチョコとグミを買ってあげました。

その後も持ち味のグダグダは時々出ますが、やる時は集中する

ようになりましたので学校のテスト結果などで確認できれば、

自信になり集中の時間は伸びて行くと思います。

もし結果が得られた時には、テストの結果より知る喜びと何事も

できないことができるようになる喜びが心を幸せにしてくれ、

自信になって生きていることが楽しくなる伝えたいと思っています。

しかしこんなことで子供が劇的に変化するわけではないのですが、

子供は好きで信頼している人から『あなたはやればできる!』と言われ

続けると自己肯定感を獲得し、サブリミナル効果で少しずつ自分を

変えて行き、やがて成長したときの大きな差になっているのです。

勉強をするか? しないか? の決定は自分自身の問題で、

全て自分の意志で選択と決断をする習慣を身に付けさせて、

その選択と決断が未来の自分と繋がっていると自覚ができると、

勉強だけでなく遊びも部活動なども集中して過ごせるようになるので、

人との出会いも含めて楽しく豊かな人生に繋がると私は思っています。

選択と決断を子供に委ねるのは、それに伴う責任の自覚を促すこと

親の思い通りに育てようとする危険を回避するためです。

『あなたのため』という真綿で首を絞める強迫的な行為は、

子供の逃げ場と個性を奪うだけでなく、結果責任は親の強要にあると

思い込むので、その子らしい幸せを手に入れられないのです。

人間の幸せの実感とは居場所が心地良いことですが、それは

第一が家庭で次が職場や学校に自分の居場所があることです。

家庭は両親の仲が良いことで、職場は地位と人間関係で、

学校は成績と友人関係なのですが、職場では仕事ができると

学校では勉強ができると、それだけで廻りの人が敬意を払い

居場所を譲ってくれるというのが人間社会の常で、

群れで暮らす社会性を持つ動物の世界では強さが権力です。

『あいつは仕事ができる。あいつ勉強ができる』という

相対評価で席を譲るのは人間世界の社会性の必然なのです。

ゴルフコンペなどでも性格が悪く日頃好かれていない奴でも、

コンペ中だけは上手いだけで中心に席を用意されるのも同じです。

人間の誇りである自尊心を傷つけられたくなければ、

嫉妬する前に廻りの人に席を譲ってもらえる何かで努力することが

有効なのですが、私が思う人間としての最大の武器は仕事や勉強など

より、愛された実感と確信による嫉妬や僻みが少ない自己肯定感の

獲得で、昔の言葉でいう『性根が良い』素直な性格だと思うのは、

目に見えない形ですが沢山の人達からの協力を得られるからです。

仕事も勉強も強要されたものは不愉快で身に付かないから

自主性に任せるのですが、この自主性を身に付けるまでは

愛情を注ぎ時に厳しく声をかけ導くのですが、そのさじ加減の

具合に親の親としての成熟が試されているのです。

人間として生まれてきた生きる意味と目的は、自分自身が楽しいと

感じ過ごすことで、自己犠牲的な行為にも喜び感じる対象相手に

恵まれると、対象相手の幸せが自分自身の幸せになります。 

勉強の成果や労働による所得は、楽しむための大切な手段ですが

それらが生きる目的になっている人は、性根の悪い育ちをしている

人なので欲望に際限がなく、特に他人の持っている物は何でも

欲しがる醜悪さがあるので、たとえ社会的な成功を治めたとしても

信義に伴う無償の愛を獲得できないので虚しく悲しい気持ちで

最期を迎えると私は思っています。

遊びのゲームに勝っても、パークゴルフで5の所を2で入れても、

サッカーでゴールしても達成感による心が躍るだけですが、

遊びとは本質的には無報酬であるにもかかわらず楽しいことで、

その楽しさこそ心に滋養を供給する生きる力に繋がる報酬なのです。

プロになれば収入に繋がりますが、遊びではないので

日々大変な努力と自己管理の忍耐という苦しみが付き纏います。

生活のかかったプロと同様に、日常生活も義務と責任を果たして

遊びへの自由と権利が手に入るのですが、子供にも勉強や躾など

義務と責任を果たして遊びの自由があると気付かせることです。

何事にも言えるのですが、大事なことは『本人が気づくのを待つ』

ことで線路を引き強制することは暴走や脱線に繋がっているものです。 今回の件も孫から『なぜ勉強しなければならないの?』と

聞かれたから答えたのですが、聞かれる前にこのような話を

しても心に染み込む効果はないので待つのです。 

『なんのために生きているのか?』なども悩み苦しんで

疑問に思ったときに、この人ならと自分の心を曝け出せる人に

聞くのですが、悩んだときと信頼できる人が揃ったときの答え

こそが心と身体に染み込むのだと私は思っていますので、

ただひたすら待つ忍耐が親や親族には必要なのです。

時速300Kmで走るF1レース車のハンドルには遊びがないので、

わずかなハンドルミスは死に繋がりますが、一般車のハンドルには

かなりの遊びがあることが実は事故を防いでいるのです。

F1レースの醍醐味は危険を伴ったスリルにあるように、人間とは

ある種のスリルを潜り抜けることに快感を感じるようにできていて、

仕事や勉強でも苦痛や苦悩を乗り越えて達成したときにこそ

心からの充実感を覚えるのは自分の成長を実感するからです。

人生も同様に遊びが精神への安全機能を果たしていると思ったのは、

トライアスロンの練習やレースで苦しいとき、日常的に覚える

高額な借財返済への怯えや未来への不安などが『どうでもよい、

なるようにしかならない何とかなるさ』と思えたことで、きっと

『毒を以て毒を制する』ような効果を果たていたのだと思うのです。

キャンプや山登りやダンスなどなんでも良いのですが、

遊びの世界では社会的・年齢的な上下関係などが入り込まない、

ゆるい横の人間関係があり誰でもきっと心地良いからで、

そこには人生を豊かにする他者との共感や絆の確認もあると思います。私が子供の頃に『よく遊びよく学べ』という言葉を聞きましたが、

遊びが先で次が学びになっている点が重要なのです。

歴史学者ヨハン・ホイジンガの著書『ホモ・ルーデンス』は

ラテン語で『遊ぶ人』という意味で、遊びこそ人間活動の本質である

と書いており、文化も文明も遊びから始まっていると書いています。

道具の発明やスポーツの起源なども遊びから始まっており、

集団を大型化するにつれてボールの形を変えルールを変えて野球・

サッカー・ラクビーなど様々なスポーツへと発展して行ったのです。

新しい遊び方の工夫によって脳を鍛え文化と文明の創造にも

繋げたので、遊びこそ人類の可能性を広げたと書いています。

人生を上手に楽しめる人は、仕事や勉強など苦痛に思える単調な

繰り返しの中にも何かしらの遊びの要素を取り入れる工夫をして

成果に繋げており、それが苦痛が苦痛ではない快感になるのは、

その行為によってカタルシス(精神の浄化)が起こっているからです。

私も家庭を持ち借財を背負いながらトライアスロンのために水泳・

自転車・マラソン練習や、仕事の合間に英語の勉強で英検に挑み、

歳を重ねてパークゴルフを妻と楽しみ、病気後はピアノに挑み、

読書は歯磨きと同様の日常の習慣みたいなものでしたが、結果的に

知らないことを知る喜びと慰めにも繋がっているので持続しています。

これら全ては一種の暇つぶしの遊びでしたが、振り返ると

人生の年代ごとに無償の遊びを味わうことができたから

波乱の渦中でも楽しい人生を過ごせたと思うのです。

人間とは社会的な生き物ですので、社会で様々な人達と共に生きる

ため子供には遊びを通じた社会性の獲得の方が重要なのですが、

その遊びと勉強のバランスを保つことこそが難しくても重要なのは、

どちらかに片寄った生活は中毒症状でやはり病気だと思うからです。

社会性には帰国子女が苦しむように文化的なものが含まれており、

幼児期から様々な葛藤を積み重ねて心に染み込む長い期間を

要するのに対して、勉強や仕事は本人がその気になり集中すれば

一から始めても社会性より極めて短期間で獲得できるものです。

誰の人生もそれなりに波乱万丈なのですが、私の七十三年間の

人生を振り返って思うことは、育った文化の違いによる妻との

大小の摩擦と葛藤を繰り返しながらも、少しずつ融合して

妻と新しい文化をふたりで築き上げた先にあった無償の愛と、

心の安全機能を果たした無償の遊びがあったことが

私の生きた意味になり、その遺伝子を継いだ孫達との触れ合いが

今の私のひとり身の生活を支え豊かにしてくれていると思います。