生き甲斐。

平成からの長い不況を振り返って、バブル時代を思い出すと

誰もが未来への不安など持たずに浮かれて『宵越しの金を持たない』

ほどに散財していたので、私の商いもシャッターを開ければ

昼食など取る時間がないほどにお客さんが来店したものです。

そのバブル時代に巷に飛び交った言葉に『生き甲斐』があり、

本や講演でも主婦としてサラリーマンとして、果ては老人としてまで

生き甲斐を持つことが盛んに言われたことを懐かしく想い出します。

私は借財返済と子育てに追われて、この時代の人達が求めていた

生き甲斐論に『なぜ?』と疑問を持って眺めておりました。

いま振り返って考えると、バブルに浮かれている時は毎日が楽しく

現在のように未来への不安もない精神的な余裕による

欲望の肥大によって、日々を精一杯生きるのではでなく

その生活の余裕の中に生き甲斐まで求める欲望を生んだのでは

ないか? と私は推測をしていました。

私自身の人生を振り返って、何かに夢中になってもそれに

生き甲斐を感じた記憶はなく、いつも日々の生活に追われたり

未来の不安に怯えたりしていた日常の繰り返しでした。

仕事や日常生活では、愛する人や社会(お客様)に自分が

必要とされている喜びの実感はありましたが、それが『生き甲斐』

という言葉とは結びつかず、『その頃の生き甲斐』という

言葉に私自身は自己満足的で自己中心的な臭気が漂う

違和感覚えていました。

恐らく豊かさへの確実性を信じた心のゆとりが傲慢さを生み、

何事にも『生き甲斐』を求める風潮を生んだのだと思いますが、

心のゆとりが生んだ暇つぶし的な思考回路だったような気がします。

私は金銭的にも時間的にも余裕などなく、日々を生きることに

追われる連続で目の前のことをこなすだけの毎日でした。

『生き甲斐』など考える暇などなかったというのが私の人生の連続

だったと振り返って実感しますが、この余裕のなかった毎日を

精一杯過ごせたことが今は楽しく幸せだったと思っています。

『生き甲斐』に自己満足的な違和感を覚える理由を考えてみると、

日本が貧しかった時代を振り返ると見えてくるように思えます。

士農工商という身分制度の時代も、終戦後の貧しかった時代も

生きることに精一杯でも仕事もなく、働いても貧しく過ごした時代の

人達は社会の矛盾に悩みながら妥協するか闘うかだけでした。

江戸時代末期には権力に抗い国家という社会全体のために生きるか、

自分の幸せのために生きるかの中で個人の無力感と向き合い、

若者達は悩み苦しみ考え続けてその後は戦争の連続でしたので、

ずーっと生き甲斐などという言葉すらなかった時代でした。

高度成長とともに豊かさと自由を手に入れてからは、

豊かになることが個人の幸せと直結する思考回路になり、

『いかに生きるか』など考えなくなり個人的な豊かさ追求の時代

になり、現在は生き甲斐などよりも他者より上位に豊かになることを

求めている時代で、学問も社会全体のためなどという意識ではなく、

地位や収入を求めて学業に励むことが常識になった時代です。

ドイツの哲学者で経済学者のマルクス・ガブリエル氏が、

資本主義の延命のためには格差を縮小するという全体を視野に

入れた倫理資本主義という考え方が必要だと述べていましたが、

そこにはパスカルが言った『人間は考える葦である』と同じような

思想が根幹にあります。

人間はひと茎の葦のように弱い者だが人間は考えることを

知っており、人間の品位は思考の中にのみ存在しているから

正しく考えるように努めようと言った人間的な思想です。

科学技術と医療の進歩は死さえも遠ざけるようになり、

お金さえあれば死への恐れさえも克服できるような錯覚を生み、

現実にコロナ禍のアメリカで死亡した人達は、

健康保険のない貧困層の人達が圧倒的な大多数でした。

人間が豊かさを手に入れた代わりに失った精神性とは、

実は『物事を正しく考える』という態度のような気がしています。

豊かさのみを追って考えることを止めた先に、果たしてどんな

未来が訪れるのだろうか? そしてその豊かさの先にどんな希望が

あるのだろうか? と案じてしまうのは私の単なる老婆心です。

極端な干ばつや水害などの気候変動などへの対策も、

全体を考える思考から出発しないと対応できないことで、

一国家の都合で戦争している場合ではないことは明白です。

利己主義の蔓延は個人間の軋轢や分断を生むだけでなく

国家間の戦争にも通じており、戦争は環境破壊だけでなく

食料危機やエネルギー危機にも繋がり、我々の日常生活を

脅かす事態の揺り戻しとして襲いかかってくると思うのです。

私の子供時代は父の給料だけでは生活できないために、

母は文房具屋を営んでいて日銭が入りましたので、

隣近所の人達が味噌や醤油だけでなく米まで借りに来た

記憶が今でも鮮明に残っております。

今では想像できないことですが、貸した理由を考えると

同調圧力が今より強い昔の地域共同体において、

自分だけが少し豊かなだけで疚しさを感じたことが、

困窮者に贈与する気持ちに繋がっていたのだと思います。

しかし豊かさに慣れてしまうとその豊かさを競うようになり、

他者より豊かさを手に入れた人達に疚しさなど微塵もなく、

むしろ優越感を誇示し貧しい人を嘲笑し努力を怠った人と蔑み

イジメやマウンティング行為を平気で行う時代になったのです。

不思議なもので貧しかった時代ほど、自分より恵まれていない

人への思いやりが共同体の責務として身体化されていたのです。

誰もが貧しさゆえに鬱屈しながら生活している姿を見て育った

時代の若者達は、まず己の自立を目指し次に親や地域の人達を

思うという広い視野で未来に目を向けたことが、

若者たちの前途への夢と希望となったのですが、

それは貧しさゆえ輝きを放った青春だったと思います。

その頃は個人的な生き甲斐などという言葉が飛び交うこともなく、

みんなが豊かになることを求め国民も政治家も官僚も考えていた

から、一億総中流という意識の時代が実現したのだと思います。

バブルの時代頃から誰もが自分だけが人より豊かになることを

目的にするようになったことが、実は個人的な思考である

『生き甲斐』という言葉と繋がっていたように私には思えるのです。

こう考えると他者を含めた全体的な思考を身体化するには、

痛みや鬱屈を経験し人間を見る目の確かさを身に付けることで、

思想家と言われる孔子・ソクラテス・キリストなども貧民のように、

思想とは貧しき者より生まれており例外はマルクスくらいです。

明治維新立役者の西郷隆盛も坂本龍馬も貧しい下級武士の

家に生まれ、差別化された階級社会の中で鬱屈した子供時代を

過ごした中で身に付けた広い視野の思考が、狭い一藩の

思考ではなく日本国という広い視野で捉えた未来の中に自分の

夢や希望が生まれたから歴史的な輝きが放たれたのだと思います。

しかし資本主義の発展と共に西側世界に豊かさがもたらされてから、

発展途上国の貧しさとの格差が生まれ経済援助やボランティアに

よる援助という政策が施されてきましたが、この政策の裏には

西側陣営と東側陣営の取り込み競争という裏の側面もありました。

やがて豊かになった西側国家の中でも格差は拡大し始めましたので、

生活保護政策や個人によるボランティア活動なども盛んになりましたが、

個人による贈与やボランティア活動には影の側面が潜んでいます。

それは自分だけが少し豊かなことに疚しさを感じるのではなく、

自分より豊かでない人を援助することで無意識的に優越感を

味わっている、『人の不幸を見て自分の幸せを確認する』ような

人間の持つ歪んだ心の複雑性に潜む偽善行為です。

例としては日本の競争社会で精神的な対応に苦しんでいる若者が、

ジャイカ海外協力隊で貧困国にて活動すると鬱屈状態が改善され

生き生きとしますが、期間が終了して日本に戻りしばらくすると

また鬱屈した状態に戻ってしまう現象の背景には、人間の持つ

歪んだ心の複雑性が作用した相対評価による自己評価の優劣が

関与しているのです。

このような贈与に潜む二面性の判別は難しいのですが、

人間も動物で自らの生き残りを優先することを本能として

備えているから起こるのですが、ここでも『人間は考える葦である』

という品位を保ち正しいことを全うすることが難しい理由は、実践には

自らの破滅や死への怖れを覚悟し克服しないとできないからです。

私自身も商いを始めてから、このままでは妻や娘を不幸にすると

思われる破綻の恐怖で背筋が凍り付いた経験を三度しました。

三度とも助けてくれた銀行の支店長達が共通して言った言葉が

『お金に困ると人格が変わる人達をたくさん見てきた』で、

様々な事情を聞いたあと私に有利な方策を提示してくれましたが、

それは全ての財産を差し出した私の姿勢とその経緯への共感

言ってくれ、私が頼んでもいない融資(実質的には不正融資)を

三人がしてくれたお陰で今の私と家庭の平和があったのですが、

今の社会常識だったら共感されず破綻していたと思います。

西洋より早く毒の含む植物から麻酔薬を開発した華岡青洲なども、

痛みさえ押さえられたら手術で救える命が沢山あると確信した青洲

の夢に、妻や母が犠牲になっても夢を叶えてあげたいという思いで

その処方量の実験台になった経緯なども、それぞれの心の芯に

広い視野で他者を思う死を覚悟した倫理があったからだと思います。

私は決して『生き甲斐』を持つことを否定しているのではなく、

その生き甲斐を持つ行為の中に他者が含まれているか?

を問題にしており、自分自身の自己実現や欲望だけを満たす

ことに生き甲斐を感じることの危険性を意識して欲しいのです。

例えば子育てに生き甲斐を感じることは、子供の成長のために

自分自身が健康で見守り続ける役割としての自己保身には、

ある種の義務感を感じている生き甲斐で他者が含まれている

健全なものだと私は思っております。

エネルギー価格や物価の上昇が続いておりますが、

これには投機マネーという豊かな者がより豊かさを求めて、

一般の人達から生活必需品を通じて搾取している構図が

背景に潜んでおり、これらは搾取で自分だけが豊かになることに

生き甲斐を感じているエゴの肥大だと思います。

権力や財力を持つ人間が『正しく考える葦』でなくなったとき、

果たしてどんな世界と社会が訪れるのか? 

果たして民主主義の力で修正できるのか?

これから迎えるであろう様々な形の危機が訪れたとき、

人間は考える葦である』として振る舞える人がどれほどいるか?

私は全体の10%もいれば危機は回避できると思っておりますが、

正しく考える人間としての品位が試されると思っています。