終わり良ければ全て良し。

温暖化の影響から北海道の夏も異常な蒸し暑さが続いて、

まだまだ残暑の厳しさもありますが、街路樹が紅葉し出す

十一月を迎えると病気後退院して丸三年の歳月を数えます。

まだ足首に残るシビレの後遺症を残さないために毎日重い腰を上げ

怠惰に鞭を打ち今も朝夕のリハビリを続けています。

良くもここまで続けてこれたと我ながら感心していますが、

一番の理由は残りの人生を不自由な身体で過ごしたくないからで、

二番目の理由は睡眠中にシビレの残っている足首が、

つま先立ちした時のような状態になって二~三度ツッテしまい

必ず起き上がって足先を床に押し付けないと戻らないのです。

幸いその後はすぐ眠りに付けるのですが、この症状は足首の

シビレを緩和しないと脱出できないと思っているからです。

退院時の足の指は微動だにしないほどに動かない状態でしたが、

今は全て動くようになってこの部分のシビレは緩和しているので、

足首のシビレもリハビリの継続に一縷の希望を託しているのです。

毎日嫌々だったのが習慣化されましたが、始めるときは

『どっこいしょ』という感じでやはり怠惰は快楽だと思い到ります。

猿のように木の上で暮らしていた人類の一部が、木から降り

陸上で食物を得るようになってからは、獲物を得るだけでなく

敵から逃れるためにも移動が宿命になり、長時間の移動(走る)の

ために大切な部分を除き体毛を無くし代謝をよくするように進化

したから人間は動かない生活を続けると機能不全を起こして

病気に繋がるのだと思います。

宇宙人のイラストでは頭が大きく足や手が細く描かれているのは、

無重力の場所では筋肉が使われないので首から下は細くなり、

頭だけは使うので異常に大きくなる理屈だそうですが、

そう考えると地上で生きる人間とは重力との戦いでもあるのです。

三年もリハビリを続けてきて、これらの理屈が本当に正しいと実感

させられる経過を辿ってきましたので、やがて足首のツリも克服

できるのではないか? と希望を持っておりますが、果たして

『いつまで生きるつもり』なのか? とも考えてしまい、妻のいない

今の生活の寂しさを続ける辛さとの狭間で心は揺れ動きます。

それでもリハビリを続ける目的は孫達の成長と、年々減少しても

来店して下さる長年のお客様達に必要とされる喜びと、私達家族

ここまでやって来れたお客様への感謝の気持ちがあるからです。

約一年近く病床にあった間の娘と婿殿にかけた迷惑だけでなく、

今も夕食のおかずの差し入れを頂いているお陰でリハビリの

継続ができていることを思うと、少しでも元気になって孫達の成長の

お手伝いをすることで生きる力に繋げたいとも思っています。

社会生活の変化の中で急須でお茶を淹れる家庭が減り、

お世話になったお客様がたとえ減少して行っても、

四十六年間も営業していれば当然のことなので、資材や

仕入れ商品の値上がりが続いておりますが極力値上げせずに、

誠意を持って続けることが残された役割だと思いたいのです。

本田技研創業者の本田宗一郎氏が晩年言っていた言葉ですが、

『人生は終わり方が難しい』という趣旨のたとえ話に、

若いときに何かを始めるときは夢中でがむしゃらに進むので、

飛行機の離陸のように向かい風でも意外と簡単だが、

人生の終わりの迎え方は飛行機の着陸のようなもので

慎重にしないと晩節を汚すだけでなく、若い人達の邪魔をしたり

抑えつけたりする老害に陥りやすいという趣旨でした。

高度を上げて上昇して行くことは心理的には快楽ですが、

少しずつ高度を下げて行くことは権限も名誉もプライドも捨てて

行くことなので、身を切るような辛く寂しい決断を自ら下さないと

廻りに迷惑かけない人生の着陸はできないから難しいのです。

ソニー創業者の井深大氏も本田氏同様に早く盛田氏にソニーを

託して退いたせいか、二人は親交が深く本田氏死去までの

長きに渡って続いたのも心境が共有できたからだと思います。

逆説的には飛行機の離陸や水平飛行は若者が、着陸のような

危機の伴う衰退には老人が向いているのかなとも思います。

私などは小さな店ですが、このたとえが身に沁みて感じており

ローソクの火が燃え尽きるように静かに消え入りたい思いです。

四苦八苦の四苦『生老病死』の『老』真っ只中の今の私は

妻を失い友を失い長年のお客様との別れも増えてくると、

ひとりの時に例えようのない寂寥感に襲われることがあります。

それらから逃れようとして本を読んだりピアノを弾いたりする

のですが、共感できる夢中になれる本と出合ったときと、

最近はショパンの『別れの曲』に挑戦していているのですが、

このメロディーには癒されるので寂しさを感じると練習しています。

昭和の高度成長期に創業された企業経営者達は、

今の時代の経営者のように社員を所有している意識は微塵もなく、

社員を『自分の夢の協力者』として大切にしていたから、

夢の共有意識を持てた労働者も嬉々として働いていました。

社員の中には植木等の『スーダラ節』のように労働はあまりせず、

宴会の時だけ活躍するような人達もおりましたが、

異質な人を異物として排除しない寛容さが組織にあったことが

潤滑油として働き触媒効果で企業の推進力に繋がっていました。

組織も人間と一緒で無駄とか余裕が必要で、精神や組織の

健全さを保つにはガス抜きのような息抜きの無駄も必須で、

恐怖や締め付けによる効率性の追求だけでは萎縮した忖度を

生み、相互不信が蔓延し不活性化した不快な組織になります。

組織とは細胞と一緒で新陳代謝が必須で、古い細胞は老廃物として

排除しなければ病根に繋がるように、組織も若返り続けなければ

時代の変化と技術革新に対応できないのだと思います。

老人が持っているものは時代遅れの常識と智恵くらいで、 

いつの時代も若者の方が優秀だったから文明の進歩があり、

新しい変化に対応し続けて人間社会が繁栄してきたのだと思います。

歳を取るということは頑迷になることと自覚させられることが多く、

社会の変化を察知したり予測したりできても、その変化に対応して

自分が変化することを頑なに拒んでいる自分がいます。

昔の廓の女郎が言った『身体は売っても心は売らぬ』気持ちに近い

のですが、実は老人は変化することがきっと怖くて面倒なのです。

ですから日本の景気回復の最良の処方箋は、

官民含めて全ての組織の上層部を二十歳くらい若返るように、

今の上層部の人達をパージ(追放)すれば組織の風通しが良くなり

業績も劇的に良くなると私は思っています。

家庭の平和なども家長が優しく謙虚であることが必要条件で、

十分条件は妻が夫を理解し信頼で結ばれている夫婦関係こそが、

子供を健全な成長へと導く見えない糸に繋がっています。

子供が本質的に求めているものは大人のような豊かさなどではなく、

両親が信頼関係で結ばれ仲良くしている家庭であることで、

その環境で上司が部下を愛しむように親が子供を愛しんでいれば、

子供の持つ『生きる力』は自然に発揮されるものと思っています。

私の人生はもうとっくに着陸態勢に入っていると思うのですが、

果たして迷惑を最小限にして無事終えられるのか?

その方策の選択を日々悩みながら毎日を過ごしております。

本田宗一郎氏は最後を迎える数日前に、死を悟ったのか? 

病室で奥様に『おんぶ』をねだったそうで、奥様は夫をおぶって

点滴を引きずりながら病室の階を一周したそうです。

どんなに権力を持っても最後は弱者として誰かの世話になり

看取ってもらうことが命ある者の宿命なのですが、その最後に

慈愛を授かるか? どうかは『そこまでどう生きたか』の結果で、

妻のいない私には叶わぬ幸せな最後と羨ましい思いでした。

妻を納棺する前に私は、妻の横に添い寝して頬ずりをし最後の

別れをしたのですが、冷たい妻の頬に愛しさと別れの寂しさを

味わったそのときの感触は今も鮮明に残っております。

長く生きることには別れの寂しさが付き纏いますが、

かけがえのない妻との想い出と、思い出深いお客様達の記憶を胸に

時代の流れに流されて、生活の糧として歩んだ四十六年間の

仕事人生と心中する覚悟を決めて残っている責任に励みます。

四十六年間を振り返ると今は『浦島太郎』のようで、借財への

不安に怯えた創業時には取引先の会長と社長に励まされた

だけでなく、様々なご厚意を授かり若かった私を見守って頂きました。

そのようなお陰で来店者も増え忙しさで深夜・早朝まで仕事に

追われたことや、若き日の私を暖かく見守って下さった今は亡き

お客様達のことも、今も鮮明にお姿が想い出されるように

私の心の芯に残っております。

その軌跡を追っていると投げた石の放物線のように見えて、

今は落下から着地の時を迎えようとしていると思っています。

季節の移ろいと他愛のない日常の喜びに感謝しながら、

『終わり良ければ全て良し』に漕ぎ着けたいと願っておりますが、

漢詩『勧酒』の結句『人生足別離』を井伏鱒二が

『さよならだけが人生だ』訳出したのは名訳だったと思い到ります。