人間が結び付く因果関係。

この歳まで生きてきて実感するのは、恋愛でも友人でも

人間関係には偶然の中に必然が宿っていると感じることで、

私のような個人商店の場合は、長いお客様とのお付き合いにも

人間性の機微や倫理観などの微妙な一致がないと続かなかった

のではないか? と思い続けて参りました。

昔の言葉で『髪結いの亭主』の意味は、働きが悪い亭主の妻への

依存を示唆して使われているのですが、元手が要らない髪結いの

女房の稼ぎが良いから寄生虫のように男が働かなくなる趣旨です。

この関係性においても『鶏が先か卵が先か』の疑問が隠されている

と実感したことが、ギランバレー症候群で七ケ月寝たきり状態の

ときに経験しました。

急性期の病院の看護師さんの仕事はハードなので大多数は

二十代の人でしたが、何気ない会話の中で共通して漏らした

言葉に『自分は職業的に食いぱくれが無い』という意識が強い

ことで、事実医師より給与は低くても医師のように縦の縛りに

束縛されず、自由に渡り歩いても確実に必要とされて稼げるほどに

看護師なしでは病院経営は成り立たないという自負を持っています。

つまり医師の頭数より看護師の頭数の方に需要があるから、

看護師の転職サイトはいつも求人で満たされているのです。

しかしこの稼げるという自負心こそが脇に甘さの繋がり、

寄生虫のような男を引き寄せているのではないか?

と動けない身体の弱い立場の私は思いました。

一般的に女性に『私が食わせてあげる』と言われてシッポを振る

ヒモのような男に『男としてのプライド』があるとは思えず、

そのような傲慢な女性に近寄ってくるのは、やはり同じ邪悪な

傲慢さを併せ持ったヒモ的な男だと思います。

需要と供給のように贈与と搾取は似合いの関係であり、

搾取を求める者は贈与に自虐的な快楽を覚える者を察知します。

看護師でなくても仕事ができて収入がある女性でも、男に対して

謙虚な女性だったらその謙虚さに惹かれる男との偶然の出会いが、

結ばれる必然に繋がるのではないか? と私は考えています。

これは男の場合にも言えて、『俺は稼いでいる』と思っている男の

女性への買春的な思考こそが、稼いでいる男を狙っている

売春的な思考の女の網に引っかかる確立が高くなるから、

昨今のITがらみの若社長達は結婚と離婚を繰り返している

のではないか? と私は邪推しています。

恋愛や友情や結婚などの人間関係は、他の物事と違って

成功とみなされるような明確な形などはないもので、

仕事では成功することは可能ですが、友情や結婚には成功など

はなく友情や結婚にあるのは癒しと安らぎだけなのです。

ある種の錯覚から結婚するのですが、家庭生活とは仕事のような

勝ち負けのない平凡なルーティンの毎日で、どちらかが俺が私が

という傲慢な気持ちを持ったとき簡単にバランスが崩れてしまう、

相互に助け合う互助会のような関係が結婚と友情だと思います。

学業でも社会的地位でも成功することが幸福に繋がっているような

意識が強い時代ですが、会社組織のような縦の関係において

特別に成功などしなくても、横の繋がりで結ばれている友人関係や

結婚生活が楽しければ人生の半分以上は楽しく過ごせると、

私は思い妻や娘や友人に敬意を持って接してきました。

反対に結婚生活に喜びが見出せないから仕事に精を出している

人も沢山いると私は思っていて、このような人にとっては人生の

ほとんどが他者との競争に勝つことのようですが、競争はエンドレス

なので『誠にご苦労様』なことなのですが、誰でも必ず老人になり

弱者の立場を迎えたときに癒しと安らぎの大切さを思い知ります。

競争社会で勝つことには努力の他に幸運も必要ですが、

ひねくれている私はあまりに幸運に恵まれた人を見ると、

『幸運だったけど不幸だった』というマルコ・ポーロの言葉を

想い出してしまうほどに、幸運と幸せは別ものだと思っています。

世の中には仕事で成功したけど人生としては不幸だった人も

沢山いるのですが、仕事成功の魔力とは権力を手に入れることで、

権力を手に入れることは一時的な自由を手に入れることに

繋がっているから、男達は家庭を顧みずに嵌ってしまうのです。

マルクスが『自由とは権力だ』と言ったのは真理で、

自由とは自らをもって由(よし)とする自己満足なので、

一度権力を持つと手放せなくなるのは道理でもあります。

DV男は職場で持てない権力を家庭で行使しており、

手放したくないから暴行後に優しく懇願するのですが、

その男を厚生できると思う傲慢な優しさが脇の甘さなのです。

組織でも権力を持つと権力に迎合する人達が吸い寄せられ、

この体制維持に心から腐心する人は苦言を呈するので遠ざけられ

追放される確率が上がるという作用と反作用現象が起こります。

マルチ商法詐欺などに引っかかる人などが高配当という

欲に目が眩んでしまうのは、欲深いことばかり考えているから

高配当の情報に目が留まり網に引っかかっているのです。

長く続く人間関係に必要な要素は血縁とか利害関係による

結びつきなどではなく、謙虚な人間は謙虚な人と、傲慢な人間は

傲慢な人と結びつくような、倫理観や矜持や信義や貨幣への

価値観などのような見えない糸が作用していて、それぞれの人の

心の底に宿る思想や価値観の共振による『アッそれ判る』という

言葉にし難いものが存在しているような気がしています。

動物と人間の違いはこのような精神的な結びつきがあることで、

この精神的なものこそが長い繋がりを維持する力になっており、

これが欠けていると利害関係が一致するか? 一致しないか?

だけで容易に人間関係が結び付いたり崩れたりするので、

傷つけたり事件に繋がったりする危機が訪れているのです。

資本主義の時代が長く続き、金銭的な要素が幸せの必要条件に

なっておりますが、精神的な要素こそが人間にとっての幸せの

十分条件であることを認識していない人達が増え続けたから、

豊かになっても鬱病や自殺は減少しないのだと思います。

一見社会的な成功を治めたような人の自殺報道に触れると、

生きるための必要条件に目が眩んで、生きる目的である

十分条件については心配りが及んでいなかったのではないか?

と私は思ってしまいます。

利害関係が伴う社会生活の中で、どのような人間関係を構築して

行くか? には一期一会の偶然の中に潜んでいる必然があり

その必然は日常の咄嗟のときの言葉や行動に表出しており、

それこそがそれぞれの人の精神性を物語っていると思います。

スポーツでも一流になれるほどの才能を持った人が怪我をしたり、

作曲家のサティのように時代的に早過ぎた才能で不遇な生涯を

送った人達が沢山いたと思うのですが、そんな人達の中には

『不運だったけど幸せだった』という人もきっといると思います。

昔深夜のテレビドラマで見たのですが、不幸になってタクシー

に乗り『あそこで別な道を選択していたら』と悔やんだら、

運転手が『私の車で元の場所へ戻ればやり直せます』と告げたので、

半信半疑で戻っても貰うと本当に過去の選択場面に戻ります

今度は別の道を選択するのですが結果はやはり駄目で、

何度やっても望むような良い結果に繋がらないという物語でした。

これなどは人生の幸せとは選択条件だけでなく、その人の心の

有りようという人間性こそが人生を大きく作用していることを

示唆している物語のような気がして楽しく見ました。

確かに曲がり角をひとつ間違えて迷い道に迷い込むこともあると

思うのですが、実は間違える決断をした精神性の方が人生を大きく

作用していると私は考えており、曲がり角はあらゆる場面にあって

『本人があそこ』と思った場所以外にも無数の落とし穴があり、

本人が気が付いていない曲がり角の選択ミスがあるだけでなく、

本人の人間性が他者に及ぼしている他者の影響力を考慮しないから、

何度やっても望むような良い結果に繋がらないのだと思います。

『幸運の女神には、前髪しかない』という格言がありますが、

これは後で気が付いても後ろ髪がないので掴めない意味です。

人間の精神性においては化学反応のような現象があり、

幸運の女神に出会っても気づかない人と、その女神を触媒として

自分の心の中に化学反応が起こり学びが起動して、その学びから

サナギが蝶になるような別人格へと成長できるような人

前髪を瞬時に掴んでいるという例えだと思います。

坂本龍馬と勝海舟の出会いなどはこれで、龍馬は開国論者である

勝海舟を斬るために屋敷を訪れたのですが、勝海舟が話した

世界情勢と海軍の必要性に龍馬は感服してその場で門人になり、

後に龍馬が西郷隆盛と面会したのも勝海舟の紹介だったのです。

この頃の若者達は利害を超えた様々な人との出会いによる学びから、

精神的な化学反応を起こして別人格を獲得する成長だったから、

歴史的な維新へと繋がる新時代への扉を開いたのだと思います。

私は一年に及ぶ病気以後『浦島太郎化』してテレビ視聴が激減した

のですが、理由は誰かを貶めることで笑いを取るようなイジメ体質の

バラエティ番組と、建前では正義を唱えても実態は権力に迎合

している報道番組に食傷気味になったことと、CMは詐欺商法に近い

高齢者への通販業者が跋扈している様子にうんざりしたからです。

これもテレビの視聴率が下がり続けCM単価が下落し続けている

ことと相関しており、CM収入の減収によって番組制作費の

減額が余儀なくされて低俗化に拍車がかかったことがあります。

この現象も鶏と卵ですが、私が約一年間テレビ視聴への習慣を

失ったことが影響し醒めた目で見ることに繋がったのだと思いますが、

これらの現象も人の結びつきと同様に全ての出来事の結果には

原因が必ずあるように思え、イジメ体質のお笑いを日常的に見ている

うちに日本の大人も子供も弱者を笑いものにすることへの

抵抗感が薄れ習慣化し、まるでプロパガンダのような効果で

社会全体にイジメ体質が蔓延したような気がしています。

このような世論形成に大きな影響を与えているマスメディアの劣化は、

すでに悪循環のスパイラルに落ち込んで腐敗臭が漂っていますが、

そろそろ有益な酵素の触媒効果によって有益な発酵食品を

生み出すようなサナギから蝶に転換すべき時期ですが、それは外圧

恐らく既存のメディア以外から発信されてくるような気がしています。

誰でも経験したことがある『録音された自分の声が違う』ように、

組織も人間も意外と自分自身の実態を見失っているのが常です。

今の既存メディアはインターネットを通じた不特定な個人から、

個人は他者からもたらされる実像との出会いを触媒にして学び

別人格に変貌すべきときなのですが、組織も個人も情報洪水の

波に流され利害関係に翻弄されて漂流し続けるだけで、

変貌による己の異物化を誰もが恐れている社会になったのです。

金銭の量的な拡大を目的化して学びを手段にしている限り

個人も組織も腐敗が進むだけですので、実利など全く伴わない

新しい自分という別人格を作り上げるステップアップ作業にも

価値を見出すことですが、そこには『他者との出会い』という

触媒への感知能力の鋭敏さが求められます。

偽善が蔓延した時代で生き抜く難しさは確かにありますが、

サナギが蝶になれば見える世界が変わるように、偶然から必然に

繋がるような出会いを見逃さずに新しい自分を作り続けると、

顔つきが変わり身なりが変わり仕事への姿勢や時間管理も変わり、

人間が変わると出会う人も変わり違う世界が見えてくると思います。

若い人達には階層化された社会の流れに身を任せるのではなく、

幸運の女神の前髪を逃さずに新しい別人格の自分を掴み取る

生き方を目指して欲しいと願っており、それこそが不運でも

幸せを掴み取ることに繋がっていると私は思っています。

しかし現状の一番の問題は高齢世代が跋扈している、

私達世代が若者の足を引っ張っている老害もあるのでは?

と思いひたすら自戒しています。