自画像。

前のブログで『裏を見せ表を見せて散るもみじ』

大人になってから実践することが人生を豊かにするが、

裏は誰にでも見せると怪我をするから裏を見せる

相手を選び区別すべきと述べた理由を書きます。 

それは人間として生まれてから言葉を覚え、家族や社会の

仕組みを理解しながら成長する中で社会性を身に付け、

小学校低学年頃から相対評価で自分自身の立場を意識する

ようになるのですが、まだ自分自身の正確な自画像や

社会の法的秩序の仕組み』などは全く把握していません。

子供は事件になって初めて『とんでもないことをした』と

自覚するほどに社会の法的秩序の具体的な運用については

理解しておらず、自分自身の中に潜む凶暴性や残虐性も

具体的に自覚できていないゆえに無邪気なのですが、

その為に抑制も働かないから非常に危険な存在なのです。

イジメや事件が起こる理由もこれで、人間の持つ

凶暴性や残虐性が刺激される立場や状況に置かれたとき

暴発を抑制するものは刑事罰で、次が自画像の把握という

自分自身を俯瞰する視点ですが、社会生活の中では

他者の内面など真に理解できない危険が潜んでいるから、

裏は本当に信頼できる人にだけ見せる知恵こそが

安心・安全な生活の基本に繋がっているのです。 

子供は親や先生に見つからず怒られなければ

『何をしてもいい』と思っている者が多く、日常行動に

おいて社会的制裁を意識している子供はほとんどいない

と私は思っています。 

まして自分自身が『どのような人間なのか』という

自画像など掴めていないので、何事においても制御や

抑制が働かない子供らしさゆえに、ちょっとしたことで

凶暴性や残虐性が無意識的に突如暴発するイジメに繋がり、

自虐的になると突発的に自殺に走る危険も孕んでいるのです。 

大人でも自分自身の自画像を掴めていない人は危険人物で、

ドメスティックバイオレンスやパワハラを行う人などは

このタイプで、これらの人は逮捕されても『自分の所有物

である妻や子供に暴力を振って何が悪い』という意識で、

罪悪感が全くない人が結構多くいるそうです。 

他者を所有物のように扱うような傲慢さも、

その傲慢さへの自己嫌悪を自覚できた人だけが抑制でき、

その自画像を把握できた人は傲慢な人を上手に避ける

手立ても考慮できると思います。 

人間とは刑事罰を受けるというリスクがなくなると

容易に非道な振る舞いを平気ですると私は思っていて、

子供のような感覚で処罰されなければ略奪や強姦や放火など

をする潜在的な人物は世の中に沢山いるとも思っており、

一見知的な紳士面をしている人でも、ばれなきゃ大丈夫と

インサイダー取引であぶく銭を手にして、すまし顔で贅沢を

している者も今は結構いるとも思っています。 

誰の心の中にもある野蛮で獣的なものは無法地帯や

危機的状況の時に出現するもので、私がお世話になった

人がシベリア捕虜収容所生活での野蛮で利己的な醜さ

話してくれましたが、この人間地獄を見てきた人に

出会ってなければ今の私がないほど多岐にわたって教わり、

私自身の様々な部分の自画像形成に役立ちました。

人間の心の奥に潜む機微だけでなく、資本主義社会の

裏側で行われている『癒着や力が正義の差別的な商取引や

金融の実態』なども、もしこの方に教わり知って

いなければ恐らく私は破綻していたとも思っています。

多くの戦争経験者が口をつぐんで語らなかったのは、

平穏な生活に戻ってその過去を話すと自己嫌悪に苛まれる

からほとんどの人は墓場まで持って行ったのだと思います。 

捕虜収容所もそうですが家庭や学校や企業内は密室で、

公共の場とは違って事件になるまでは法の力が及ばない

場所なので、自画像を把握できていない怪物的な人間による

イジメや暴力が起こりやすい危険な場所になり易いのだと

私は思っています。 

自画像の獲得とは、例えば恐怖心などの『恐れ』を

感じる度合いはそれぞれ違うのですが、何事にも怖れを

持たずに振る舞う無鉄砲な人を勇敢などと言いがちですが、

このような人ほど挫折には弱いもので、本当の勇敢さとは

自分自身の弱さを自覚しながら克服して立ち向かう勇気を

持ったときに少しだけ勇気が身に付いております。

その積み重ねで少しずつ強くなり自信に繋げながら

恐怖心に対する自画像を作り上げているものなのです。 

恐れや小心さは動物として捕食者から自分の身を守る

ためには必須のもので、この機能は脳の好き嫌いを判別する

扁桃体がストレスホルモンを分泌して瞬時に反応しています。 

扁桃体を取り除いた猿の実験では、普段は瞬時に逃げる蛇に

対して何の警戒心も持たず近づき噛まれてしまいます。 

寛容さなども生まれながらの違いは多少有っても、

本質的には人間は自己利益を最優先に生まれているから

子供でも所有欲や快楽を求めますが、社会性を身に付ける

中で好きな人に大切な物を譲り、対象者の喜ぶ顔を見て

自分の喜びとするような行為を通じて、我欲という狭量さ

から少しずつ人間的な寛容の幅が広がって行く中で、

自分の寛容の幅を自覚した自画像が形成されています。

一般的に恐怖心が強く寛容さを持つ人ほど何事においても

熟慮を重ねる傾向があり、怖れや寛容さがない人ほど

軽率な行動を取りがちですが、熟慮を身に付ける

一番の方法は命取りにならない程度の沢山の失敗をする

ことで、この失敗から学び内省するという意識がない

ほど挫折に弱く、自信喪失から自暴自棄になりがちです。

 私の若い頃は物欲が強く育ちの悪い卑しさ丸出しでしたが、

 会社の寮生活で隣の部屋の同僚の欲望のなさに不思議な

 気持ちを抱いていましたが、あるとき医者の息子で

 『欲しいものがない』という言葉を聞いたとき、

 自分の卑しさに気が付き強烈な自己嫌悪を味わってから、

 日常生活の中で卑しい行動を抑制しなければと思うように

 なりました。 

 権力的な欲望なども人間は本質的に持っておりますが、

 人間関係では『平等で対等な関係』の取り扱いほど難しく

 できており、親と子・先輩と後輩・先生と生徒・上司と部下

 などの判り易い上下関係である『差別に近い区別』が

 あった方がスムース行くという厄介なものだから、

 円滑な社会制度運営のためには必要なものなのです。

 人間社会の上下関係の中で『俺が上』と振る舞う人や、

 高級車やブランド品を身に纏う人達ほど実は権力とお金を

 失うことを恐れている小心者が多いから強欲で、

 その自画像を把握していないので誇示し続けるのです。

 反対に平等で対等な人間関係でも上手く行く人達は、

 お互いに自画像を獲得している分別が備わっている

 からスムースな関係が維持できているのですが、

 このような人間関係を夫婦や友人で持てる人は、

 金銭的な欲望も制御できる人だと私は思っています。

 自分という人間が『どんな人間なのか』という自画像を

 獲得できると、社会的な制裁や刑罰を意識した行動ではなく

 『人間としてどう振る舞うべきか?』を基準に行動する、  

 成熟した本当の大人になれるような気がしています。 

 私は三月二十二日の早生まれの上に身体的な成熟も

 遅かったので、高校一年生まで整列時にはずーっと一番前

 だったので身体的な劣等感を抱え続けていましたが、

 大人になってその劣等感を払拭できたとき

 『あの劣等感から様々なことを学んだ』と思いました。 

 それは様々な中傷や敗北感を味わうたびに覚えた

 口惜しさを抱え続けているうちに、自身より

 他者の言うことのほうが私の実態を現わしている

 ということを学んだことです。 

 それは身体的なことだけでなく精神的・金銭的・人間的な

 ことも他者が評価したことの方が正しいのではないか? 

 と考えてみるようになったとき、自分自身を俯瞰して

 捉えられるようになっていたことに気が付いたのです。 

 その頃から自画像が明確化しただけでなく、

 自己嫌悪を覚える自画像は努力で修正できるということ

 にも気が付き、精神的・金銭的・人間的なことも私自身が

 敬意を覚えた人との出会いから学び模倣する事にしました。 

 何事も手本を模倣しているうちに基本が身に付いて行く

 ように、少しずつですが自分が変化し成長できた感触を

 覚えて行くうちに、以前より他者に寛容な気持ちで

 接することができるようになっただけでなく、

 僻み・妬み・嫉み・恨みのようなネガティブな感情が

 薄れて行き、他人の幸せを素直に喜べるポジティブな

 自分に少しずつなっていることにも気が付きました。

 子供にとって幼少期ほど立ちはだかる全ての壁が

 巨大に見えるものはないのですが、驚き戸惑いながら

 一つ一つの実像を認識する過程を経ながら、同時に

 人間関係の葛藤を通じた他者との関係性の学びを積み重ね、

 思春期頃に初めて身の丈を知って、人格とか人間性と

 呼べるようなものを獲得するのだと思います。

 不確かで幻影のような己の人格と人間性の実像把握は

 社会と繋がる葛藤の中で獲得され、正確な自画像の把握は

 三十歳頃ではないか? と私の経験で推察しています。

 

 孔子の言葉、

 子曰く、吾十有五にして学に志す、三十にして立つ、四十にして惑わず、

 五十にして天命を知る、六十にして耳順う、七十にして心の欲するままに

 従えども矩を踰えず。(のりをこえずと読み・矩とは節度や規範のこと)

 とありますが、四十にして惑わずに行きつくためには

 三十代に自画像の歪み修正が必要で、それにはまず

 自分自身の持つ正邪の部分を見つめ正確な自画像を

 把握することが始まりだと思っています。

 七十にして心の欲するまま従えど節度を越えない境地は、

 自分自身の自我と倫理のバランスを苦も無く達成すること

 ですが、七十三歳の私は今も苦悩し揺れ続けています。

 人間を含めた全ての動物は本能的に暴力的な悪魔の心と、

 思いやりを含めた道徳的な天使の心の二面性を持ち、

 その天使と悪魔の構成比率こそがその人の自画像です。 

 そして真の自画像獲得には、剥き出しにした利己的で

 悪魔的な行為の験が通過儀式として若いときには必要で、

 その経験から自己嫌悪に襲われ葛藤を積み重ねて成熟に

 繋げた人こそが、人間らしい道徳的な自画像を獲得します。