友が逝く。

私が友達と呼べる友を持ったのは高校時代が初めてで、

それ以前の幼少期は町の遊び仲間グループの後をついて行く

金魚の糞みたいな感じで特別仲の良い友達もなく

 小学校時代までを過ごしていました。

中学校に入ってからも友達はなく、暗い鬱病患者のような存在で

取り敢えず進学校の高校に入るため勉強だけに励んだ三年間でした。

目標の高校に入り学業について行けず『もう降りた』と思った

落ちこぼれの高校二年生の時、今も続いている友達が初めてでき

短大も一緒で遊び呆け就職も一緒の会社に進みましたが、

私が脱サラして自営業になってから十年近く空白があり、

それぞれが人生の辛苦を舐めた四十歳頃から交友が再開しました。

私が友と呼べる人は五人ですが、普通の人とは違い他の四人は

自営業を始めてからの仕事と趣味を通じて知り合った友です。

今月初めに亡くなった友は、私がプレハブの店舗を持ってすぐに

来店し始めた三歳年長の中学の国語教師でしたが、兎に角

行動が破天荒だけでなく、見た目も髭を生やし雪駄履きの教師

でしたが性根の良い憎めない人でした。

学校でも授業は最低限しか行わず校長や教頭に逆らい、

家庭生活も顧みずに登校拒否児や家庭環境に恵まれていない

不良少年・少女の面倒ばかりに精を出していて次第に夫婦関係も

悪化して行ったのですが、何故か私の所に来てはその全ての

事の次第を話しながら相談したり、困ったことを頼みに来るのです。

ほぼ四十年間の付き合いでしたが、退職後も登校拒否児や

家庭環境に恵まれていない子供を集めて『作文教室』をしたい

と言うので私の貸店舗の一室を無料で貸したり、集中して

本を書きたいというときも一室を無料で貸したりしたのも、

動機が子供のように純粋で憎めないところに惚れていたからです。

こんな人でしたので社会との折り合いの付け方が下手で、

組織や社会からは異物のような眼で見られがちでしたが、

利害にとらわれず人間としては信義には厚い憎めない友でした。

ほぼ四十年間何かにつけて叱り続けてきたのですが、

私に対しては裏も表も見せ続けたまるで子供のような人でした。

五年程前に体調を崩しペースメーカーを入れてから破天荒は

収まりましたが、私にはそれが寂しく感じられて優しく接するように

心掛け始めた頃から、年金が出た次の日には必ず

『トイレットペーパー・十二ロールと六花亭の菓子

娘達の家の分も持って訪れるのが慣例になっていました。

ペースメーカーを入れてからは免許証も剥奪されたので、

北広島から電車とバスを乗り継ぎ弱った足で来るのに、

途中のスーパーに寄って買ってくるのです。

二か月分のお茶とコーヒーを買い他愛のない話をするのですが、

一見破天荒な彼は冷えた夫婦関係が三十年ほど続いていても、

『その妻を選んだ自分の責任を』最後まで果たそうとしていました。

今私は何とも言えぬ寂しさの毎日で、彼から貰ったトイレットぺ-パー

をトイレで見る度に胸が切なくなるのですが、独り身の私の家には

彼から貰ったトイレットぺ-パーがまだたくさん残っているのです。

私が入院中は三十枚くらいの葉書が娘に届けられ、葉書には

何度も『高野さん、早く帰ってきて』と書いてありました。

早く死を迎える人は『無念』を抱えて旅立つのですが、

長く生きる者は『手足がもがれる』ような寂しい辛さを抱えて

生きることが宿命としてあることが供養と思っています。

これからは毎日トイレのたびに彼を想い出すのが供養です。