四苦八苦の時は脱皮のとき。

病で寝たきりの状態を受け入れたとき、人間とは

どんな状態にあっても何がしかの不満を見つけて苦悩を

する生き物だと、半分呆れながら我が身を振り返りました。 

病気で動けなくなって思うままに動ける身体を望みましたが、

健康で動けるときは感謝せずに過ごし不足のものを望む

人間とは欲深いものだと思ったとき、仏教用語の

『四苦八苦』を想い出し御釈迦様の唱えた人間の苦しみを

自分の人生と重ねて合わせて眠れぬ夜を過ごしたのでした。 

四苦八苦』の四苦は『生老病死』で、

人は生まれる場所と条件を選べず・必ず歳を取り老いる

そして病気になり・やがて寿命がくれば死を迎える

この四つが四苦ですが、私は普通の人が一番恐れる

死は恐れるものではなく、人間が生きる上での

避けようのない死はある意味で最高の恩寵で、

根源的な四苦八苦からの解放であり次世代のため

にもなる社会奉仕なのだと思っていましたが、

実際に発病後三ヵ月ほどはずーっとこの死への解放を

心から望み、毎夜涙で枕を濡らしておりました。 

八苦に繋がる他の四つは健康なときに味わう苦しみで、

愛別離苦は大切で大好きな人でもいつかは離れ

なければならない苦しみで、怨憎会苦は顔も見たくない

大嫌いな人に出会ってしまう苦しみで、

求不得苦は求めるものが手に入らない苦しみで、

五蘊盛苦は自分の心や身体すら思い通りにならない

苦しみです。 

私は元気になった今も死は解放との気持ちが

変わっていないのは、七十三年の苦労も自分なりに

消化する過程で少しは成熟に繋げられ、少しずつの成長を

『脱皮した』と肯定しながら過ごしてきた人生でしたが、

今は『全てを十分に味わった』思っているからです。 

私は妻と出会うまで生まれる場所を選べないことに

苦しみ続けて、ギランバレー症候群という特殊な病気で

死を望むほど苦しみましたが、私の人生で一番辛かったのは

対人関係の苦悩である愛別離苦と怨憎会苦に苦しんだときで、妻を失ったときの愛別離苦と親族間という避けよう

のない中での利害や諍いの怨憎会苦は今も私の心に重く

のし掛かっております。 

他の六つの苦しみは自分自身が受け入れれば済む

ことですが、相手がある掛け替えのない人との別れと、

身内でも倫理観の違いで折り合えないことは

虚しさに耐える以外ないことだったからです。 

倫理観という言葉の『倫理』の倫という字は友がら

仲間たちと共にあるという意味で、

理はことわりという意味ですから人と交わるうえで

人間が守るべきことわりのことです。 

しかし人間は利害関係が生じると、このことわりを

踏み外す行為や言葉を犯す人が必ず出るので、

人間の叡智が倫理という言葉を生み出したのです。 

資本主義的な損か?得か?で思考する習慣になってから

利己主義が蔓延し、自分さえ良ければよいという人達に

とっては金さえ有れば仲間など必要ないという

思考回路なので、今はこの倫理という言葉は

邪魔なものになっているように思いますが、

誰でも死を目前にすると必ず思い知ります。 

企業のブラック化は進み家族が崩壊し始めているのも、

他者の痛みを我がものと感ずる仲間意識の希薄化に伴う

倫理観の欠落現象ですが、最近の世相はどこでも

相対的な優劣関係のみを争うマウンティング集団

なっているおり、結果として日本人全体の意欲低下と

知的劣化が進み国力が落ち続けているのだと思います。

企業でも家族でも組織全体の知的向上心を蝕むものは

人を貶めて命令口調の上位下達の組織形態です。

人間の意欲と知的向上心を賦活させているものは、

承認されることによる生きている高揚感と

目が輝くような多幸感で、その二つを与えた方が

確実に知的・動的パフォーマンスは上がるのですが、

『俺が上、お前は下』という上下関係に血道を上げる

人間が増え、人間としての倫理と思いやりの心が

骨の髄まで腐り続けた三十年間だったから

経済だけでなく政治も停滞したままなのです。

四十六年間の商いの中で、沢山の人達の四苦八苦に

苦しむ人生模様を見守ってきましたが、生きることは

沢山の苦しみや試練を乗り切る連続で、その間に

少しの喜びや達成感や快楽があるのが人生のような

感じですが、そこに家族や友がら仲間たちと共にあった

ことが生きた手ごたえの証で、そのような人達との

彩りこそが私は人生を豊かにするものだと思っています。 

ある統計で日本人は他国に抜きん出て三倍の寂しさを

感じているそうですが、その理由が本音を出せない

(言わない)だけでなく、判り合うための喧嘩は

面倒なので無関心を装い避けていることも原因で、

結婚しても安全地帯が伴侶ではなく親の人が増加

している体たらくだから愛も友情も生まれないのです。 

確かに『四苦八苦』は苦しみですが、人間としての

成熟のために苦しみは必要不可欠なもので、

友情とは考えの違う人との葛藤によって育まれ

考えの違う他者こそ自分自身を高めてくれる存在

でもあると私は思っています。 

人間の心と身体の痛みを感じる脳の場所は一緒と

脳科学で判明しており、孤独・孤立の心の痛みを強く

感じるのは一週間くらいだそうですが、その後一部の人は

その葛藤の辛さから逃れるため諦める道を選択すると、

何事にも意欲がなくなり鬱や自殺願望を発症するそうです。 子供達が人と繋がる対象の友達がいない状態が続くと

心が苦しくなるのは、誰かとの共同体験で心が同期・

同調する喜びこそ人間が心から求めているからです。 

友情の定義とは血の繋がらない人と対等で継続した

関係を維持しながら、時には自己犠牲も辞さない

仲間のことだと思いますが、お互いの自己主張を

通じた脳だけではなく身体で同期する共感も

人間には必要なのです。

私の孫達を見ていると、体を使って遊んでいるときに

友達と心が同期・同調したときの喜びは格別の様子で、

仲間外れにされたときの孤独・孤立感を味わっている

ときの様子には胸が痛くなりますが、実はこのような

繰り返しの中で他者との距離や配慮を学んでいるのです。 

ニーチェの言葉で『脱皮しない蛇は死ぬ』という言葉が

ありますが、子供は成長の中で新しい環境や体験が次々に

訪れる葛藤の繰り返しで脱皮し耐性を強めているのです。

蛇も幼少期に多く脱皮を繰り返し成長するように、

人間も幼少期に戸惑うような新しい環境や、

友達ができないときの孤独感や、自分が劣っている

のではないか? という焦燥感に襲われるような

『四苦八苦』の繰り返しこそが、実は脱皮しながら

成長している蛇と同じと私は思っており、

昔は娘を今は孫達を見守り続けおります。 

今孫のお姉ちゃん(三年生)は脱皮の真っ最中なのですが、

脱皮後は外皮が柔らかく傷つきやすいように、

脱皮中の子供の心と身体も繊細で傷つきやすいだけでなく、

幼児期のように全てを親に話さず抱え込む強さ

身に付けようとしている急成長の真っただ中です。

子供は成長と共に親の管轄という枠を越えて行き、

自分の世界を広げながら成長するのですが、

脱皮回数が多い高校生くらいまでは、両親が不仲な家に

生まれた子供は生まれる場所と条件を選べない苦しみ

両親から十分な愛情に恵まれて育っている子供でも

愛別離苦怨憎会苦・求不得苦・五蘊盛苦の四つの

苦しみは必然なのです。 

子供が苦しんでいる時に大切な親の仕事は、

細心の注意を払い見守りながらも普段通りに接することで、

成長を確認できたとき『あなたは脱皮して成長したね』

と声掛けをして励ますことで、親として一番重要なことは

子供が何に悩み苦しんでいるか? を理解して見守る

ことで、それができれば子供は必ず強さに繋げて行きます。

大人になり歳を重ねと『生老病死』の本当の意味

思い知るのですが、若い時は出来ないことが

出来るようになる脱皮の成長でしたが、

老いることは出来ていたことが出来なくなる

最後の脱皮と私は思うようにしております。

あらゆる機能が落ちて行く老化現象とは

実は死を苦痛なく迎えるための準備でもあり、

長寿のご褒美は死の苦痛が少なく迎えられることなので、

死期が近い高齢者は床ずれの痛みなど感じないのです。

年齢に関係なく病気になったときなども、

医師の助けだけに頼らずに、本人が受け入れ

立ち上がる意志がないと直る病気も直りません。

私が退院後今も自分でリハビリを続けるのは、

自分で食事ができ・自分で身体を洗え・

自分でトイレに行ける健康寿命こそが自分自身の

尊厳を守ることだと思っているからで、

後遺症を抱えて嘆くのではなく克服するという

意志こそが私の人生最後の脱皮だと思っているからです。

ただ人の世話になり生き長らえるのはもう懲り懲りで、

七十三年間生きて来て死の淵も覗いてきて思うのは、

幼少時代に色々な人との遊びを通じて、

他者との間合いや折り合いの付け方という社会性

身に付けることで、子供にとっては遊びこそが

社会と繋がる心の基盤と身体を創っているのです。

思春期頃からの脱皮には社会性が必要とされますので、

小学校低学年までの遊びで獲得した社会性が試されます。

半分大人で半分子供の大学時代の友人関係の中での脱皮も

大切ですが、青春期を過ぎる三十歳くらいまでに多く

傷つく脱皮を繰り返さないと、『脱皮しない蛇は死ぬ』

という未成熟の人間になってしまうような気がしています。 

人間が成熟するためには、古いものを捨て新しいものを

得る脱皮は必要不可欠なことで、そのためには『四苦八苦』

で痛みを知り乗り越える勇気で苦しみへの恐れを克服する

ことが必要で、より良く生きるためには何度も生まれ

変わって行かなければならないのだと私は思っています。

そして喜怒哀楽で彩られた人生を闘い抜いたご褒美

こそが死で、戦う気力と体力が衰退した老兵への

『四苦八苦』からの解放なのだ! 

死の淵でその解放を願った私は実感しております。 

妻との愛別離苦から六年半を迎え人生最後の脱皮の痛みを

娘達家族に癒されながらも、私の心の中には今も妻がいる

ので毎日の出来事を報告して死者と会話しています。

先日何気に胸打つ言葉を言う天然の『人たらし』

五歳の孫が、妻の写真を見て『爺じは婆ばが

大好きなんだね!私とどっちが大好き?』と聞いたので、

『ごめんね!??ちゃんより婆ばの方が好き』

答えたら『そっか』と残念そうでしたが、帰った後に

『爺じ働いて遊んでくれて大好き、大好きな婆ばが

いなくなったのに偉い』と拙いひらがなで書いて

妻の写真の下に貼ってありました。

孫がその本当の意味の深さを理解できたとき、脱皮を

繰り返し一段と成長し成熟していると期待しています。

 人は『四苦八苦』することが生きている証で、

 その苦しみから学ぶ脱皮の繰り返しこそが成熟への道です。

 そして多くの人との共感で人生を豊かにするためには、

 良寛和尚の最後の言葉裏を見せ表を見せて散るもみじ』

 を大人になってから実践することだと私は思っています。

 裏は誰にでも見せると怪我をするので、その区別については

 長くなるのでそのうちに時間を作って書きます。