時代によるイジメの変質。

いつの時代になっても人間社会のイジメはなくならないのですが、

最近はイジメの内容と動機が変質しております。

その変質の理由は学校教育の目的が本来の国家再建であった

『国家と共同体を担う人材の育成』から個人の目的になり、

現代は社会的地位と高収入を得るための学問に成り下がり、

自己利益の拡大という他者排除の思想が強くなったことが

イジメの陰湿化と無差別化を加速していること繋がっています。

私達の時代の頃と現代に共通しているイジメの動機は、

貧富の差による豊かな家の子供への嫉妬と貧しい家の子供への

蔑みですが、根底にあるのは異質・異物への違和感で

人間の持つ同質性を求める精神性の裏側に潜む排他性から

起こっていると思います。 

戦争もイジメも根底には文化的な違和感による不愉快な感情が

起爆剤になるのですが、社会制度の変遷と共に集団に

過剰適応した個性的な者もイジメの対象になるようになり、

近年は全員が獲物であり全員が捕食者になっています。 

高度成長以後の豊かさと共に格差が明確になって来てから、

文化や貧富の差による摩擦を防ぐために、感受性が鋭敏な

思春期の中学生や高校生に制服を導入したのは、

私服通学にすると貧富の差や文化的な差異が明確になり、

嫉妬や僻みや蔑みによるイジメ問題に繋がるので鞄や靴まで

同一化し貧富と文化の差異を目立たなくさせのですが、

近年は子供の世界の学校にも資本主義的な思考やSNSが

侵食し始めてイジメの内容と形態が変質しています。 

人間の本質を見極めるときは幼児の行動を観察すると

明確に表出していますが、子供は様々な遊具を使って

自然発生的に仲間を作って遊び始めます。 

それは遊びの中で誰かと繋がる喜びを味わうからですが、

その誰かと繋がることによって人間はある種の全能感を伴う

自我の成長と拡大を感じるから楽しいのです。 

しかし現代は正面切って言えない攻撃的なことを、ネットで

口にすることで全能感を伴う快楽を求めるという人間性の歪み

子供達の世界にも広がっております。

それは資本主義的な競争社会が長く続いた中で変質したもので、

協力や協同などより他者より抜きん出る能力や個性の発揮を

求めるようになったことで、幼児期から学問でもスポーツでも

他者より抜きん出るための個性を求める社会になってしまいました。 

現在は効率的な意思決定による効率的な金儲けで成長をする

ことが目標で、その競争に負けた社会的な弱者は努力を怠った

自己責任だという利己主義蔓延のギスギスした空気感の中で

子供達は育っており、その空気に子供達は確実に感染しています。

 中学生くらいまでは仲間との繋がりによる自我の成長と拡大を

通じて楽しく過ごすことの方が重要な理由は、

仲間と協同で協力し合う中で自分の役割や信義や節度や

ルールを学び、集団の中で相互に依存し合って生きている

ことを学ぶからで、そのことが大人になってからの複雑な

社会生活を営むための精神的な基盤作りに繋がっているからです。 

私は七十三年間お金に追われ余裕なく生きてきましたが、

『お金がなくても小生意気に涼しい顔をして過ごせたのは、

競争に勝つとか利己的な振る舞いとは反対の感情と行為から

受け取ってきた信義の伴う返礼があったからです。

イジメの低年齢化やイジメの陰湿化の横行は、

建前は仲良く協力して優しくなどと標語にしていますが、

本音では資本主義的な競争に勝ち、勝者になれば

何をやってもいいから個性を発揮しろという社会と家庭で

育てられているからで、現代の子供達は建前と本音が相反する

大人社会の要請に混乱させられて過ごしているのです。

また今は私達の時代のようなボスいう調整役が存在しない

フラットな均質性の中でそれぞれが自己利益を追求する

カオス状態なので、加害者と被害者が簡単に入れ替わる

不安を抱えたストレスにも晒されています。 

中学生頃までに集団生活による自我の成長と拡大を経験して

自分の役割と他者の役割の相互関係を学んでいれば、

矛盾を理解し容認できる成熟期を迎える高校生頃になった時、

競争に勝つ・個性的に振舞う行為に対しても他者を意識した

節度を保つことができるだけでなく、友達への情や信義などの

暗黙のルールも身に付きます。 

中間層の没落は家族関係も機能不全に陥れており、

それぞれが勝手なことをして家族として機能していない家庭が

増えており、それは離婚の増加や結婚への幻滅による

非婚者の増加に反映されております。  

世間的には擬似的な建前の仲良し家族の仮面の下で、

極めて利己的な自己愛の両親を見て育った子供は、

信じられる者がいないので結婚への憧れは持たないと思います。 

この自己愛の変質も資本主義的な損か? 得か? の

利害優先の行動規範が主流の生き方になったためです。

褒められたくない・目立ちたくない・埋もれていたいという

最近の子供達の傾向も、適応不足と適応過剰のどちらも

イジメの標的になる可能性があるからで、全員が獲物であり

全員が捕食者になりうる異常なストレスに曝されているからです。 

長く教員を務めた人が退職後に書いた本の中の出来事で、

いつも二人でつるんでいた男子生徒の一人が不良グループに

絡まれたとき、もう一人の男子が『僕塾に行くから』と逃げ去った

のですが、その次の日から二人は何事もなかったように

いつも通りにつるんでいて理解に苦しんだと書いていました。 

私も高校時代にバス停で三人連れに絡まれたことがあった

のですが、その時に一緒にいた一年上の番長グループから

落第して友人になった彼が、いきなり鞄で三人を張り倒し

『今度高野に手を出したら、ただで済まさないからな』と凄み、

友人が私の背中を押し二人でバスに乗り込んだのとは

対照的な出来事だと思います。 

その彼とはその後の短大進学後も一緒に遊び続け、

就職時も私の志望したトヨタに『俺も一緒に受ける』と言い

同じ会社に進み、妻との出会いも彼の遊びへの誘いに

付き合ったお陰の縁結びで今も続いている友人です。 

このような時代の変化はいったい何がもたらしたのか? 

は複合的な要因があると思うのですが、資本主義的な

損得勘定と共に『簡単に人を信用するな。個性的になれ。

自己利益を追求しろ。自己犠牲なんかするな』という

利己主義が肥大し続け、お金以外に人を信じない誰もが

孤立した大人社会になった写し鏡が現代の学校における

友人との信頼関係の希薄化にも繋がっているような気がします。

バブル崩壊以後の合理化では大人社会でも合法的な差別で

イジメが行われ蔓延したのですが、手を差し伸べる身近な

地域社会も家族制度も形骸化し内実は崩壊した結果が、

非婚者と離婚と自殺と鬱病の増加です。

高校生の造語であるKY(空気が読めない)という言葉は、

『空気を読め』という肯定型ではなく『空気が読めない』という

否定型で使っている排除が前提の言葉ですが、実はそこには

仲間内だけに通じる邪悪で意地悪なルールが存在する

異分子排除を楽しむ嫌な言葉と私は感じておりました。 

子供が成長過程で仲が良い愛情と敬意で支え合う両親を

見ていたら『仲良き結婚っていいなあ』と思えるでしょうが、

建前と本音を使い分けお互いを責め合うような家庭で育っていたら

『結婚って面倒』と幻滅し日常行動は邪悪化すると思います。 

子供が社会を写す鏡なのは、育つ過程で家庭や社会のあり方

全てを内面化して成長しているからで、その短い養育期間の

体験を常識化してしまうと、かって信義や矜持(媚びない・

見下さない)という言葉で結ばれていた時代があった

教えられても、やはり実体験として大人から無償の信義や矜持

伴った贈与経験をしないと既成概念は氷解しないと思います。

家族の解体は高度成長の豊かさ獲得から始まったのですが、

そのときの分かれ道は、家族それぞれがそれぞれの欲望を

満たす方策を選択して解体するか? 全員の欲望を断念して

家族共通の満足を選択し全員が自分の欲望を我慢するか? 

の違いで、その選択が家族のあり方を決定づけるものになります。 

人間としての信義とか矜持とか道徳とかは

日常生活の中で身体に沁み込むように身体化されているもので、

その人間性の評価はお金の使い方にこそ現われている

ものなのに、今は稼ぎ高で人間を推し測る風潮になっているのは

自分自身も『いくらもらえるか?』だけが基準だからです。

いつ誰がターゲットになるか判らないということは、

信じ信頼できる人が誰もいない不安の毎日なのですが、

その源は社会全体に『イジメ体質』が瀰漫しているからです。

  現代は豊かさも学力偏差値も相対評価で確認しているのですが、

  イジメは相手を貶めることで自分の相対評価を上げるという

  無意識的な行為ですので、社会全体に信義のような絶対評価で

  人間を見る目を養った大人の増加が必要なのです。 

  共和的な貧困は共有できても、共和的な豊かさを共有できない

  人間のあり方を克服するのは容易ではありませんが、

  弱者を捕食して成長する資本主義とは別の新しい

  定常経済による分配のあり方模索が解決策のような気がします。 

  現代社会で進行している個人の原子化に伴う孤立化は、

  不安による猜疑心と不信でエゴの肥大に繋がっておりますが、

  この不安感情が無差別的な攻撃性の源泉になっています。

  子供の未来が社会の未来に繋がると思うのですが、

  とりあえず学校だけは資本主義的なものから隔離した場所にし、

  学業だけでなく協同的な作業や行事を通じて思いやりや

  信頼関係を構築できる場にして育むことなのですが、

  子供達が協力し合うための唯一の方策は誰もが他者のために

  少しの我慢を受け入れることだと学習することが重要です。

  イジメの陰湿化や信頼関係のない疑似的な友人関係なども、

   『自分さえよければいい』という偽善的な疑似行動が大人社会に

  瀰漫している からで、それが学校生活を過ごす子供達に幼少期

  から確実に感染していることは、イジメと反抗期が低年齢化

  していることに現れていると思います。

  現代は豊かさも偏差値も相対評価で考えることが常識化し、

  その相対評価思考の強化によって他者の幸せで自分の不幸を

  確認し、他者の不幸で自分の幸せを確認するという

  イジメの陰湿化と無差別化の歪みを生んでいるのです。

  次世代の子供達のためにも、もう競争の奪い合いによる

  成長ではなく社会の存続を優先課題に考えるべき時です。

  モンスター化した親の排除は前提条件ですが、

  長い時間をかけて起こった教育崩壊を建て直すには、

  やはり長い時間がかかると腰を据えた地道な積み重ねが必要

  なのですが、 大人社会における信義や矜持を取り戻すこと

  こそが子供達の不安解消の防波堤になると思います

   もうひとつは『身の程を知って』楽しく生きている大人の増加で、

   そのような人は強者でも理不尽な者には平然と噛みつき、

   弱者には優しい振る舞いを行う子供の見本になると思うからです。

   人間はひとりでは生きられない弱いもので、

   『人』という字のように支え支えられて生きたことが生きた証です。

   一度きりの人生で権力やお金を持っても心から愛する人もなく、

   心から愛された確信もない人生は寂しい限りなのですが、

   そこには相互関係にきっと自己犠牲が伴っていないからです。

   変質した自己愛のイジメ体質から脱却して人生を豊かにするには、

   『騙される勇気を持って人を信用し。情緒的な個性を尊重し。 

   自己利益は程々に。大切な人への自己犠牲の喜び』の実践で、

   そうすると個人の能力を超えた沢山の人達の協力による心温まる

   程々の人生が過ごせると私の経験で確信しています。