幸せと愛を持続させているもの。

一日二回店先で紫煙を燻らせるのですが、通りすがりの

若い女性のひとりが『幸せになりたいね』と言い歩き去りましたが、

この一言が耳に残り誰もが思う幸せの条件とは何か? 

をあらためて考えてみました。 

恐らく人によって幸せを満たす条件は違うのでしょうが、

最近は幸せの第一条件はお金持ちになることのようで、

次が自分を心から愛してくれる人に恵まれることなのでは? 

と推察しましたが、愛は錯覚から醒めてから創り上げるべき

難事業なのだと齢を重ねて思い到ります。

私の恋愛経験は二度だけで、最初は中学時代から

好きだった子に高校二年の春に告白して交際が始まりましたが、

『好き以外に何を話して良いのか判らない』戸惑いの中で、

彼女の窮屈さを察し私から別れを告げ三ヵ月ほどで終了しました。 

その後も思いは続き三年後に逢いに行ってきっぱり断られて

終了しましたが、その時『こんなに思っているのに』という

私の心の中に沸き起こった愛情の裏側にある恨み辛みを伴う

憎しみの感情の利己性を理解できませんでした。 

この愛憎という言葉の意味と深さを思い知ったのは妻との生活が

十五年位経過したときで、些細な喧嘩で私が怒ったとき妻が

『どうしてそうゆうふうに考えるの?』と上目遣いで言ったときでした。 その言葉と表情の中に私への敬意みたいなものが漂い

感じ取ったとき、果たして私は妻に敬意を払い接してきたか? 

を突きつけられたような思いをしたので、仕事をしながら妻との

生活を自分なりに振り返り私自身を俯瞰して考え直してみました。 

恋愛中はお互いに相手のことを知りたいので当然敬意を払って

接しておりましたが、一緒に生活する中で理解や共感感情が

生まれてきたときに幸せを実感したのですが、その頃から

私の心の中に妻を養い所有しているという狭量で傲慢な

感情が巣食っていたことに初めて気が付きました。 

初恋の人に対しても『こんなに好きで愛しているのに』という

一方的なものだけが強く、彼女のことを何でもいいから

沢山知りたいという敬意を伴った感情が私の心の中に

なかったからキッパリ断られたのだと初めて理解できました。 

私は妻の全てを理解した気になった頃から傲慢な所有意識を

持ち敬意を失っていたことに気付いたのですが、妻の

『どうしてそうゆうふうに考えるの?』と問う言葉には、私を

理解したいという敬意が含まれていることに気付かされたのです。 

女性が男に別れを告げるときに『あなたという人がわかった』と

言うのも愛情に伴う敬意を失ったからで、愛を育み維持するために

一番必要なものは相手への敬意なのだと思います。 

これは子育てや人間関係にも必須なもので、敬意が伴わない

一方的な愛が容易に憎しみに変換される諸刃の剣に変貌

するのは、一方的な自分への同質性を求める所有意識の傲慢さ

には相手への敬意が欠けているからと思い到りました。 

その所有意識の裏側には自分とは違う考え方への

不寛容と不安があり、その不安意識が共感を求めることで

埋めようとする同調圧力になったとき敬意は失われており、

排他的な憎悪行為に走るのがDVやパワハラ行為だと思います。 

日本の殺人事件の五十五%が親族間で、最大の比率で

起こっているのが夫婦間殺人で全体の二十%を占めていますが、

同質性を求める所有意識が自分とは違う考え方への排他性として

憎しみ感情に変換される前に、被害者は加害者の自尊感情を

踏みにじる行為で深く傷つけていることが引き金になっています。

結婚した義務と責任として『俺はこんなに頑張って働いているのに』

『私は育児に家事にこんなに頑張っているのに』という一方通行

では、お互いが伴侶に対して敬意を忘れた幼児のような

承認のみを求めている不毛な摩擦に終わっていると思います。 

その反対に位置する感情こそが『どうしてそうゆうふうに考えるの?』

という問いであり、その問いには相手を理解したいという欲求が

内包されており、そのあなたことを知りたいという欲求の中に

敬意が存在する理由は、好きでもないどうでもいい人のことを

知りたいという欲求を持つ人はいないからです。 

一般的には愛の反対語が憎しみや恐怖と言われていますが、

こんな経験から私は愛には憎しみと恐怖が同居していると

認識するようになり、愛を継続させ育む力になるものこそ

敬意ではないか? と考えるようになったのです。

愛憎についての非常に判りにくい説明ですが、愛情を深める

ためには愛情の裏側に潜む憎しみや嫌悪感との葛藤が必要で、

反対に憎しみが深まる危機の到来は、憎しみの裏側にある

『こんなに愛し自己犠牲をしているのに』というような、

利己的な愛情との葛藤によって憎みが倍増されていからです。

葛藤を重ねて愛情が深まると、好きな人の嫌な部分も含めて

全てを受容できるという矛盾が成立するのは、異臭を放つ

癖のある味のチーズを取り敢えず口に入れてみなければ、

その異質性の虜になる機会は失われてしまうのに似ており、

ひとたび虜になると異臭と異質性という当初は嫌悪感を抱いた

ものが、葛藤し受け入れたことで愛着が深まるのと同じです。 

『幸せになりたい』とは誰でも願うのですが、そう願うなら

『誰かを幸せにしたい』と思い行動することで、

そう思うと自然と相手への敬意が湧き上がってくるものです。 

私は孫と手を繋いでいるときや孫を抱き上げ喜びや葛藤を

聞いているとき、無意識に娘が五歳のとき・八歳のときを回想

しながら接しているのですが、ふたりは性格が全然違うので

言動にひたすら耳を澄まし知りたいと願っているので、

自然にふたりの言動を尊重するという敬意が芽生えます。 

子供が支配し命令する人が嫌いなのは、自分を理解して

くれないことが尊重されていないことと繋がっているからで、

次に子供が嫌う大人は先回りして自分を判ったように扱う

大人達ではないか? と私は思っています。 

子供はまだ自分自身を理解していませんが、敬意を持って

接していると聞かなくても多くの思いを告げてくるもので、

実はその話す行為を通じて自分自身を俯瞰し把握する

ことに繋げているのは、状況を上手に説明するということは

作家のように巨視的・微視的に一望俯瞰して捉え、聞き手にも

判るように話すという聞き手への敬意も要請されているからです。

逆説的には子供や愛する人の話に耳を傾けない行為は、

相手の敬意を踏みにじっていることに繋がっているのです。 

 これは大人も同じで、話したい人に話したいことがあるのは

敬意を感じとっているからで、敬意がない抑圧を感じる人とは

話なんかしたくないのが人間なのです。 

愛の行為で慎むべきものは『判ったような気になること』と、

『理解や共感を求めること』で、このふたつの感情は所有意識に

繋がるからで、もし対象相手に違和感や嫌悪感を持ったときは

対象相手の謎を探求するような好奇心で望み恋愛の初期状態

を楽しむむくらいの余裕を持つことです。

その謙虚な姿勢に相手は敬意を伴う愛情を必ず感じ取るので、

嬉しそうに沢山お話してくれ良好な関係に繋がります。 

私の妻は口数の少ない人でしたが、私が妻への敬意を意識し

始めてから『意見はいらないからね! ただ話を聞いて』

様々な他愛のないできごとを話すようになりました。

男は論理で考え意見を言いがちですが、女性は情緒なので

意見されると干渉されたようで不愉快になるので、

ただ『そうなんだ、なるほど、それで?』と相槌を打つだけで

応えるとストレスが解消されて喜んで沢山話すようになります。 

もし内容に悩みが含まれていたら、全て聞いた後に

『実はこんなことがあってね』と問題解決のヒントになるような

別な物語を話してあげることで、私は孫達が葛藤してるときは

大好きなお母さんの五歳と八歳のときの物語を聞かせます。

問題解決の意見を語ることは善意なのですが、話しているとき

答えではなく聞いいて欲しいだけなのに、意見されると

干渉されたように感じ逆にストレスになり不愉快になるのです。

物語で応えることは対話と言うコミュニケーションで、そのヒント

から得た自らの決断は自信と確信に繋がり愉快なのです。

誰でも日常の他愛のないことを安心して話せる相手こそ

信頼している人で、幸せとは身の回りにそのような他愛のない

話を聞いてくれる人がいる、一見退屈そうなルーティンの

日常生活の中にあると私は思っており、私が今も妻に日常報告

するのは死者との会話でも幸せの確認に繋がっているからです。 

病気で七ヵ月点滴だけの寝たきり生活後に、初めて口にした

煮魚一片の美味しいという官能と、その後歩けるようになり

自力でトイレに行けたときの嬉しさを経験してから、自力で食事と

トイレを果せる健康維持だけで幸せなのだと思うようになりました。 

ウクライナ侵攻でそのような日常と大切な人を失い平穏な

日常を奪われた人達の苦しみなども、国家間においての

他国への敬意を持たないロシアの所有意識から始まっています。 

誰でも日常的に何気なく『幸せになりたい』と口にしていますが、

では具体的に幸せの必要条件は何か? と聞かれたら、

現代人は『お金と自分を愛してくれる人の存在』と答える人が

多いと思いますが、では幸せの十分条件は何か? と聞かれたら

答えに詰まる人が多いと思います。 

私が思う幸せの十分条件とは、私にささやかでも敬意を

持って接してくれる人がいて、その人達と私が健康で退屈でも

平穏な日常を過ごせることが幸せの十分条件と思っています。

これから迎える人口減少時代では

経済成長が不可能な未経験の定常経済の時代になります。

  資本主義とは成長を最も効率的に行うシステムなのですが、

  欠点は人口増加と搾取による成長が前提のシステムなことです。

  グローバル企業の成長はアジアの中国やインドなどへの進出で

  成り立ってきたのですが、もう残っているのはアフリカくらいで

  行き止まりが見えている危険なシステムだと思います。 

  後期資本主義は資本を投下して周辺のフロンティア(後進国)

  から利潤を上げる自己増殖システムだったのですが、

  もうフロンティア(後進国)そのものが残されていない混沌と

  終焉の時期が迫っているシステムのような気がしています。 

  フロンティアである後進国が残されていない状況が迫った中で

  企業が利潤を吸い上げる方策が中間層の没落で、労働力を

  安く買い叩き効率化名目による過剰労働の搾取によって 

  企業利益を確保していたのが実態で、格差拡大は労働弱者から

  収奪して企業利益へ移転したのが真相だと私は思っています。 

  中間層の没落は価値を同じくする民主主義の破壊にも

   繋がっており、それは個人間や国家間の分断にも波及しますので

   混迷と戦争へのリスクは増大して行きます。 

   しかし人間はどの時代に生まれるか? は選べないのですが、

  人との繋がりの中で人生を確実に豊かにする方策はあります。

  それが生活する家庭や職場や社会で好きな人や愛する人と

  接するとき敬意を払うことで、その返礼としての敬意を受け取った

  とき何故か心は暖かくなり幸せな気持ちになっているからです。

   他者への配慮の中に敬意が伴っていないと、

  必ず孤立から足元が崩れ落ちるような危機が訪れる

  私は思っていますので、今後のロシアは必ず衰退へと向います。

  幸せも愛も平和も持続させているものは相手への敬意だと思います。