生きる意味。

最近は私のように煙草を吸う者は肩身が狭いのですが、

一日五本の紫煙は毎日の時間的な区切りであり癒しでもあります。 

店の外で吸っている時にお医者さんのお客様が来店すると

注意されますが、答えは『私は長生きするためだけに

生きているのではなく、生きていること自体を楽しみたく

酒と煙草と女性(妻)は至福の楽しみです』と答えています。 

娘が小学五年生の時に帰宅するなり

『何のために生きているの?』と聞かれたとき、

『今日の寝る前のお話は、その話にしましょう』と私なりの

思いを告げたのが以下です。 

そんな事を思ったのは学校で嫌な事があったのでしょうが、

お父さんも随分考えてきたけど生きている事に意味なんかない

今は思っていて、楽しく幸せな気持ちになるために

精一杯生きることに意味があると思うと告げ、娘に反対に

『生きていて良かったと思うときはどんな時?』と聞きました。 

娘は間髪入れずに『それは楽しくて幸せな気持ちの時さ』

答えたので、お父さんもお母さんもあなたが楽しそうで

幸せそうな様子の時に私達も幸せな気持ちになるように、

『まず自分が幸せになることを優先して生きて欲しい、

あなたが愉快に楽しく生きていると廻りの好きな人達も

幸せな気持ちになる』と思うと話しました。

娘には一時間程話したのですが、趣旨は自分の嫌なことは

避けてもいいから、したいことや手に入れたいものに向かって

取り組むことが人生の楽しさと幸せに繋がると話しました。 

大人になるとそのように生きることが家庭や組織や社会な

様々な人の幸せや役に立つことに繋がっているのですが、

人生には苦難はつきものなので勉強や仕事以外の楽しみ

を必ず持って過ごすことが大切と念を押しました。 

中学では合唱部に嵌まり帰宅は七時頃で、帰宅後も受験勉強よ

りピアノの発表会のために一時間ほど練習し、大学受験勉強の

最中も毎週米国人との英会話を楽しみ、大学の四年間は

アカペラサークルに嵌まり続け、社会人になってからは

サルサダンスに嵌まり今の婿殿と出会うことに繋がっております。

子供が二人できてからも婿殿と時間を都合しあって、

娘はピラティスとジョギングで汗を流し、婿殿は

トライアスロンの練習とピアノのアマチュア大会に出場したりなど、

いつもそれぞれが余暇と共に過ごしてきたこと

人生を豊かにしてきたのでは? と私は思っています。

ボードレールの『人生は絶えず酔うことだ、あなたの好きなものに』

という言葉がありますが、酔うような好きなものを持って

夢中になった時間こそが、生きた証になると私は思っています。

下の孫は感受性が強く自我もしっかりしているぶん言い出したら

聞かないところがあるのですが、私に何か要求したときはいつも

目を見てニッコリ笑い『??ちゃんの好きにしていいよ』と言い

続けているのですが、『ありがとう』と答え最近は何も言わなくても

自分自身で自分を抑制できるようになったように、まずは子供の

要求を聞いてあげ暖かく見守り好きなことをさせてあげると、

黙っていても我慢すべきことは判っていて行動に移します。 

私のモットーは『美味しいものを食べて、嫌な奴に逢わない生活』で、欲望の順番は食欲・性欲・金欲なのですが、

妻には二番目と三番目を入れ替えなさいとよく怒られましたが、

妻への答えは『お金で不幸は回避できるけど、お金で幸福は

買えないよ!』で、苦楽を共にする妻との時間が大切で

愛情確認のためにも性欲は二番目で、次がお金なのは

辛い苦しみのときに妻を抱くと金儲けより私は癒されたからです。 

誰の人生にも苦難はあり、ひとり悩み苦しんで答えが出ない

やるせない時にはアルコールの酔いで苦しみを麻痺軽減させ、

煙草を吸い紫煙を吐き出すと胸の中の悪いものも吐き出している

ような感覚になります。 

仕事が終わり夕食時の一口目のビールの旨さは格別で、

心地良い酔いのリラックス感が一日の疲れを一掃するような

区切りを感じさせてくれ、夕食後の濃い目のお茶の旨味と共に

味わう煙草の味は格別で、今日も一日無事に過ごせた

安堵感で心は『無』の境地になっております。 

ささやかですが唯一の楽しみのビールは四種類ほど冷やしてあり

選ぶ楽しさがありますが、ビールが美味しいドイツのミューヘン

ワインの美味しいフランスのボルドーや北海道の札幌は

いずれも北緯四十三度に位置しているのは、水と空気の良さと

適度の寒暖差に恵まれているからで、食べ飲む喜びの

食欲を満たす口腹が幸腹なら幸福になると生きている実感

を味わいながら毎日ビールと共に夕餉を楽しんでいます。 

朝は夜の反対に心も体もシャキとさせるためにコーヒー二杯

でカフェインをたっぷり取って、煙草をくわえてトイレで無我の境地

の一服も至福の時で、まるでパブロフの条件反射のようで

便通が滞ったことはありません。 

病気で七ヵ月点滴だけでトイレにも行けない状態の時に

思った事は、食べることの楽しさと自力でトイレに行けることが

なんと幸せな事であるか? で、退院後に録画でテレビを見る

ようになってからテレビ東京の『孤独のグルメ』を見つけ

録画して見るようになってから、食欲こそ生きる源と確信させられ

一緒に食べ楽しんでいるような感覚に嵌まっています。  

俳優・松重豊演じるサラリーマンが仕事先の実在の店で

ひとり食事を楽しむシーンに合わせて、味わいの心理描写を

語るだけの番組なのですが、黙々と食べる動物としての

本能的な映像と共に食べている物への人間的な官能の

心理描写が延々と語られるのです。 

物を食べている行為は生き物が生きている姿そのもので、

これこそが生きている意味ではないか? と実感させられ、

この男は仕事の合間に食べているのではなく、

食べる喜びのために働いているという動物的なのが清々しくて、

見ているだけで私は癒され何とも愛しくなるのです。 

食欲の次は性欲ですが、パークゴルフができない冬の定休日の

ひとりカラオケで病気後に嵌っている曲が黒沢年雄の

『時には娼婦のように』です。

作詞家なかにし礼の赤裸々な男の深層心理を突いた

歌詞が好きで、私にも存在するので妻を思い浮かべながら

歌っていますが、私は男も女も誰の心の中にも動物的な邪悪な

獣心本能として持っていると思っています。

私はその獣心を消化するのが性行為のような気がしており、

その行為の中に情愛が備わっていると獣心の一時的な

消化ではなく、獣的な性のエネルギーが生のエネルギーへと

昇華される効能があるように感じ、翌日は妻への愛しさ

強くなったように感じ私の働く意欲に繋がりました。 

 

(最初の歌詞だけ)

時には娼婦のように 淫らな女になりな 真っ赤な口紅つけて

黒い靴下はいて 大きく足を広げて 片目をつぶってみせな

人差し指で手招き 私を誘っておくれ

 

刺激的な歌詞で話題になりましたが、私は『愛』と『性』は

理性的なものではなく本能的な情動が司る感情の発露だと

思っているので、求め合う時はお互いにオスとメスの獣に

なって交わることが純粋な性愛行為だと思っており、

その行為は動物的であるべきで理性的な人間に戻るのは

行為後であるべきと思っています。 

私は好きという感情の延長線上に性行為があると思っているから、

対象相手への愛情がないと性行為に踏み切れないので、

妻には浮気の心配はないけど『私より好きな人ができたら』

と思うと非常に危険なタイプだと言われていました。

一般的な離婚原因によく性格の不一致を挙げますが、

私は性格などは似ている方が耐えられないと思っていて、

性の不一致の方が多いのではないか? と思っており、

性の不一致の原因は行為時にどちらかが醒めて

理性的なのが許せない不一致だと思っています。 

好き嫌いは論理的な理由などがない感情の発露ですが、

その相手の感情が醒めていたら誰でも虚しくなり、

その虚しさに耐えられなくなったら愛と性は非常に簡単に

崩れ去る脆いものなので、性的な関係の一致は非常に

大切なものだと私は思っています。 

恋愛の初期には一緒に食事をするところから始まりますが、

食べる行為と排泄行為は心を許さないと羞恥心を感じる行為で、

嫌いな相手との食事は嫌で不味く感じる逆説として

好きな相手と食の快楽を共有できれば性的な快楽も共有できる

のではないか? と思っています。 

結婚して倦怠期を迎えると食事を楽しく美味しく食べられないように、相手が嫌いになると性の前に一緒の食事が不味くなります。 

結婚未経験の物欲豊富な若い時は、お金では買えない

感情の大切さに気が付きませんが、人間とは生きる力を

奪われるような感覚の楽しくない人間と長く一緒にいることは

耐えられないようにできています。 

反対に『あるがままの自分を承認してくれる好きな人』といると

生きる力が自然に湧き上がり、毎日が愉快なので面倒な家事も

辛い仕事も自然と気合が入り、趣味も含めて何事にも

精力的に過ごせるものです。

何事も他者との比較による苦痛や快楽ではなく、自分自身の

心と身体が感じる苦痛や快楽は警告で、欝になる人は

この警告に鈍感か? または金銭的な利得感覚を優先して

生きる力を奪うような相手や仕事から離脱しないからです。 

食欲・性欲の次に大切なのが、五感が心地良く感じる

音楽やスポーツや趣味など文化的なものですが、自分の

好きな五感を満たす快感や快楽を大切にする価値観を優先して

生きていると、多少お金が足りなくても働く意欲が賦活されるのは、

楽しむ目的のために働くので生きること自体が

愉快で楽しくなるからと思います。 

芥川龍之介の自殺原因とされる『将来へのぼんやりとした不安』

両親の慈愛に恵まれなかった不遇にあったのですが、

その不遇を糧にひとりの人を真剣に愛し乗り越えられたら、

明るい作品でもっと良い小説を書けたと思います。

親に愛されず愛し方を学ぶことに恵まれなかった人もいると

思いますが、憎んだり僻んだりしても状況は悪化しても改善しないと

理解することで、人生を愉快に過ごす秘訣は悪い親を可哀想な人

と思い許すことですが、悪い親を避ける智恵は必要です。 

私は幸運にも妻からの承認で変われましたが、

妻自身は『こんな私のどこがいいの?』とよく言っていたように、

やはり相互に承認し合って成立していたのです。 

愉快に楽しく生きることを相手や誰かに望むのではなく、

まずは自覚できる我が身の悪習を改善する所から始めて

廻りの人達を不愉快にしないことから始めることです。 

人間とは言葉によって心が傷つくと身体も悪くなるものですが、

言葉によって心が賦活されて再生され身体もよくなるものですので、

日頃の言葉の選択に注意すると人間関係は良好になり

愉快に楽しく暮していると、その人の廻りには自然と愉快で

楽しい人が集まることにも繋がって行きます。 

妻が失敗したり女性的でない行為をしたりした時に

私が多用した言葉は『お母さん素敵!』でしたが、

最近は孫達にも使っているのですが非常に効果的で自分が

好かれている確認になるのか? 照れながら喜び内省しています。 

人間が生きていて喜びを感じるものは三つあり、

①生理的な報酬②社会的な報酬③金銭的な報酬ですが、

持続性があり本質的な生きる力を賦活する順序でもあります。 

生理的な快楽や快感を共有できる相手に恵まれることは、

所属する自分の居場所に愛と承認があり相互依存の確信にも

繋がりますので、それぞれが健全な自己実現欲求

に向う活力を生み出して行きます。 

このような場所に辿り着くためには、廻りに迎合して多くの人の

承認を求めたりせずに、あるがままの自分を承認してくれる人を

選択し増やして行けばいいだけですが、もし承認してくれる人が

増えないなら私の若い頃のように生意気な嫌な奴だと

己の非を認識して、日常の我が身を俯瞰してみる

メタ認知能力を磨くことです。 

生きている意味を考えるとアルベール・カミューの言葉

『真の哲学的問題はひとつしか存在しない。それは自殺である。

自分の人生が生きるに値するか否かで、その他の哲学的思考は

たわごとである』という言葉が思い浮かびます。 

地球が丸いという科学的真理を解明したガリレオでも、

撤回しないと火刑にすると言われて撤回したように、

人生が生きるに値するか否かは死と繋がっているから

毎年三万人以上の自殺者が出ているのです。

私はカミューのように強くはないのですが賛成で、

身近の大切な人と共感できる人生が私の生きるに値すること

なので、財貨や権力よりも生きる意味を持っています。 

しかし財貨や権力を求めることに執念を燃やす人は、

このような共感の欠落を埋めるために財貨と権力に

執着しているのでは? という逆説を私は邪推をしています。

愉快に楽しく幸せになるために生きる秘訣は、日常生活の

ルーティンを守る事と何事においても他人と比較をせずに、

好きな人に求めるより与えるという深い喜びを知ることです。

最近の傾向は『人を非難・否定して高揚感を得る』人達が

増加しているようですが、そんな人達ほど『自己承認欲求』が強く

病的なのは誰かれ構わずに承認を求めていることです。

人間誰もが心から欲している愛や承認とはいつも他者から

与えられるものですが、相手の求めているものを与えないと

与えられない背理が存在していると理解することです。

他者から承認され愛され尊敬されることを求め努力することは

良いことですが、そんな形でしか自分を愛せない人が多いから

自己嫌悪や自己卑下に陥って鬱や自殺に繋がるのです。

人を愛することは簡単ですが、難しいのは相手の欠点や嫌な

部分も含めて『愛し続ける』努力の継続です。

これができた時『自分を愛すること』ができ自分を好きに

なれるので、自己嫌悪や嫉妬心などの邪悪さが希薄になります。

自分を愛し愉快に楽しく生きていると同じような人達に囲まれ、

生まれてきて良かったと思えるときが次第の増えていくと

自分の人生に意味を感じられるようになると思います。