私の人生を賦活しているもの。

私は女性が接待するような場所が苦手なのですが、それは

就職して間もない頃に可愛がってくれた先輩に連れられ

銀座のクラブや高級料亭で見たホステスや芸者さん達の

自尊心を売っている姿と、女性の自尊心をお金で

買っている男達の行動を見ていて、心の奥に抱えている

暗い闇の醜さを垣間見たからだと思います。 

その先輩は早稲田大学応援団卒業で、会社でも飛び抜けて

金使いが荒かったのですが、練馬の地主娘の婿養子との

ことで社内では特別な存在の人でした。 

なぜか? 私を可愛がってくれ夜だけでなく昼食なども、

私が見たことも食べた事もない美味しいものをご馳走してくれ、

まだ右も左も判らない都会の寂しさを癒してくれました。 

その先輩を嫌いになれなかった理由は、どんなにお金を使っても

ホステスや芸者には手を出さず、純粋に遊ぶことを楽しむような

粋な人で最後には必ず私を寮まで送ってくれ

『北海道の山猿、またなー』と颯爽と帰って行くのです。 

しかし一度仕事中に実家に寄った時に垣間見た、

妻と義母の前での低姿勢な対応の姿に驚きと共に

何とも憎めない人と思いましたが、その後は誘いを避けるように

なったのは低姿勢の姿が目に焼きついた事と、自尊心を

売っているような女性達と接するのが苦痛だったからで、

以後私は一度も女性が接待する飲食の場には行っていません。 

私は妻にも娘にも孫達にも敬意を払い人格を尊重して接する

ようにしておりますが、それは自分も他者からそのように

接して欲しいと願っているからで、ですので私はお客様でも

見下したような傲慢な態度の人には礼節を欠いていると感じ、

反射的に同じ礼節を欠いた無礼な対応しています。

私が就職した頃は高度成長の入口で、お金がものを言う

成り上がり者が幅を効かせ始めていた時代だったので、

若い女性は自尊心を押さえ込みさえすれば成り上がり者からの

おこぼれも高額だったのです。

しかしそんな仕事の女性達が一番気付かれたくないものを

私が醒めた目で見ていたせいか? 

いつもそのような場では若造のくせにと嫌われました。 

人間には見られたくないものが誰にでもありますが、

裏の世界では同じ裏の人間と接していれば苦痛ではないのですが、

裏の世界に表の世界のような顔の人間がいると目障りな違和感を

醸し出すので、裏社会を演じている人達に自己嫌悪を

想起させる屈辱感を与えるので場が白け嫌われてしまうのです。 

援助交際や売春や買春などは裏社会で行われますが、

そのような立場の人達は建前の表社会で生きる延びるために、

どちらも裏社会の金銭のやりとりで補っているのですが、

そこでは他者の喜びを自分の喜びとするのではなく、

お互いが自分の欲望だけを満たしている一方通行の虚しさ

私が感じ表情に出ているから嫌わられたのだと思います。 

人間の生きる喜びには性愛の官能に似たような部分があると

私は思っており、大好きな妻や孫達の喜ぶことをしてあげたい

欲望(衝動)に駆られるのは、妻や孫達の喜びが

私自身の喜びを賦活していると実感しているからです。

私は性交と性愛は別な行為と思っていて、

性愛とは妻が私から得ている官能を確認することによって

私の官能が賦活し増幅され、妻も私が妻から得ている官能の

確認によって妻の官能が賦活し増幅されるという、

お互いが相手を思いやる相互関係の中で成り立っている

官能が人間的な性愛だと私は思っており、どちらかの

一方的な官能の満足は動物的な性交だと思っています。 

親子や夫婦だけでなく全ての愛情行為とは、相手の喜びによって

自分自身の喜びが賦活されるという相互循環が存在しないと

持続しないもので、その相互循環が対象相手をかけがえのない

大切な存在として意識する愛情に繋がっているのだと思います。 

私は愛情の反対語は憎しみなどではなく無関心と思っていて、

なぜなら無関心とは自らの存在すら無視した相手の

意識にも登らない透明な存在に成り下がっているからです。

哲学者ヘーゲルの言葉を借りると、人間の欲望は物や人ではなく

他者に望まれ・愛され・承認されることを欲望しているのが

人間的な欲望で、物や人を所有したり他者と一体化したりする

ことのみを望むのは動物的な欲望と表現していますが、

これは性愛行為や教育的な行為にも当て嵌まります。

子供達は大人との日常生活の中で、自分を承認し

自分の欲望をその人の欲望としてくれる大人が大好きになり、

自分を所有し自分との一体化を望む大人を嫌いになるのは、

この欲望の違いを論理ではなく直感的に悟っているからです。 

師弟関係などの学びにも同様の関係性が存在しており、

学びを起動するものは『知らないこと・自分に欠けているもの』

を自覚し、知らない・欠けているものを埋めたいという欲望ですが、

その学びの場においても師弟間に教える喜びと学ぶ意欲が

共鳴するような、お互いを賦活し合う人間的な欲望が

相互に存在するとき教育効果は劇的に上昇します。 

しかしそこには危険な落とし穴も潜んでもおり、

相手の承認欲求を満たし好かれることを悪用して支配の

パワハラに繋げたり、異性の師弟関係においては

セクハラ的な行為に及んだりする危険な落とし穴です。

その危険をフロイトは『転移』という言葉で表現したのですが、

精神分析において患者が分析医に心の全てを吐露し

完治が近づくと、患者が分析医に恋愛感情を抱き始める症状

の勘違いをフロイトは転移と呼んだのです。

この転移は一種のステロイド的な劇薬で、劇的に症状を良くする薬

ですが患者と分析医を危険な関係にする副作用もありますので、

男女だけでなく男同士でも転移が起こると危険だから、

時折分析医と患者のもつれで凄惨な事件が起こっているのです。 

相互に賦活し合うような関係において大切なことは、

この転移に似た感情を対象相手に起こさせないことで、

男女の場合はこの転移感情を恋愛感情と錯覚したり、

同性の場合は転移感情が分析医を実の理想の親と錯覚したり

する危険が伴うので意識的に回避する方策が必要です。 

それは対象相手(分析医)への依存によって起こる賦活ではなく、

自分自身の感情によって起こっている賦活との違いを

自覚させる作業で、このような転移症状を乗り越え自分自身の

感情を大切にする人間的な成熟に導くことです。

最近の学問の動機と目的は社会的地位や収入という個人的な

私利私欲を実現するものに変形しておりますが、

教育を受けた者には社会的な奉仕を果す義務も背負っている

という自覚が必要と私は思っております。

その理由は義務教育から大学まで公費やその補助によって

運営されているからで、まず学問は個人の生き残りと自立のため

ですが、次に家庭・組織・社会へと循環させ相互に賦活し合う

関係性の中で国家が繁栄し、結果として日本人全てが

生き延びるために教育が存在しているからです。

投票率の低下は政治への無関心ですが、約半数の人が棄権

している現状では国民全体の二十%の得票によって

政権運営され政策決定されているという異常事態です。

その無関心の棄権が強者癒着を増長させ格差拡大の

弱者切り捨てに繋がっていますし、政治的無関心が自分の

所属する国家への愛情の欠落と相関しているのです。

弱者が国の政策に救いを求めるなら、国民として国家を

愛する投票行動をする義務と権利を果たすべきです。 

際限のない富を求め続ける富の独占が貧富の差を拡大

している現状は、家庭を組織を社会を国家を歪んだ病に

追い込み破壊し始めていると私は感じています。

 格差が全ての人を不幸にしていると思うのは、

 お金がなくて不幸な人と、お金があり過ぎて不幸な人の

  二極化になっており、使うためのお金に使われている

  人間が増加し続けていることが現在の資本主義社会の

 一番の不幸で、このことなども相互がなく一方通行の悲劇です。 

 先日孫達と公園で遊んだ帰りにお姉ちゃんが

 『爺グミ買って』というので、公園に来る前に食べたでしょうと

 答えると、『買わないと土に埋めるよ!』言われ怖いので

 二人の希望の味を聞きコンビニに寄って与えました。 

 一見恐い会話のようですがこの裏には相互の信頼関係があり、

 孫達と内緒の指きりげんまんの最後が『針千本呑ます』ではなく

 『土に埋める』になっているのです。 

 私達三人の間で『土に埋める』は信頼と甘えの言葉で、

 孫達はとても親や先生には言えないような言葉を

 私に安心して言うことで、学校や保育園での我慢や

 嫌な出来事を無意識的に消化しているのです。 

 妻も私に『小生意気なひねくれ者・面倒くさい男』などを

 普通に言っていたのも同様の信頼関係を確信していたからです。 

 このような信頼関係構築には、その前段に相手の欲望を

 欲望するという相互に賦活し合う関係が必要で、

 私と妻や孫達の関係は、親や先生のような縦の関係でもなく 

 友人や兄弟のような横の関係でもない、一般的には少ない

 変形した斜め下の位置に私がいる安心感ようです。 

 その日車から降りる時にお姉ちゃんが、

 『公文学習を頑張っているのを爺に見て欲しい』と

 お願いされたので『はい』と答え行きましたが、子供には大人には

 全く判別できないところに『学びや成熟へのスイッチ』があって、

 それは信頼関係の裏側で突然起動しています。 

  孫達は妻と同様に私に対して安心して上位に立てる

  優越感の伴う信頼によって生きる力を賦活しており、

 私は娘と婿殿の支えに賦活され今もリハビリに励んでいますが、

 病気後の仕事も長年のお客様の継続的な来店に賦活されており、

 私自身の規則正しい生活にも繋がっています。

 求めている人に求められているものを贈与し、その贈与によって

 相手が賦活している様子が私の生きる意欲を賦活しています。

 妻を失った私の残りの人生は、全ての人と縦でも横でもない

 斜め下の位置で、ただ信頼に応えたいという思いが支えです。

 私共もコロナの影響で『社会から必要とされていないのか?』と

 感じさせられるような暇な時間がありますが、そんな時には

 意識的に自分自身を賦活させるために生産的な行為である、

 本を読み知らないことを知る喜びや、指のリハビリのために始めた

  ピアノ練習で弾けない曲が弾けるようになるという自己啓発の

  達成感による自己満足で賦活するように努めています。

 最近はベートベンの『悲愴』を終えて、難関でとても無理と思えた

 ブラームスの『ハンガリー舞曲』がランプなしで弾けるように

 なりましたが、そんな他愛のない結果と大切な人との繋がり

 一人身の私の毎日を意識的に賦活するように努めています。