認知症にならず自宅での孤独死を望む。

私共の店もお陰様で今年は四十五年を迎えましたが、ほとんどが

固定客の方達でその九割強が三十年以上のお付き合いですので、高齢化が進んでおり老々介護や一人身の生活の中での

苦労や嘆きを聞いてあげるのも仕事のうちに入っております。 

辛いことは聞いてもらうだけで心が楽になりますが、精神的な

迷路に落ち込んでいる人には逃げ道のアドバイスも必要で、

特に認知症の家族を持ち在宅で面倒を見ている人には対話の

仕方や身の処し方などや、認知症に陥る心のメカニズムを

理解させる所から始めないといけないのが難しい所です。 

遺伝的な要素が大きいアルツハイマー病は脳の神経伝達物質の

シナプスを阻害する蛋白質であるアミロイドベーターが

堆積することで起こり遺伝的要素が高いのですが、

このアルツハイマー病の予防ワクチンはマウスとサルの実験で

臨床効果が出ており、これから五年ほどの人間による治験を経て

実用化できるメドがついております。 

このワクチンは飲むもので、今までのマウスとサルの臨床実験では

副作用もなく安価なものなので、五十歳頃に一回目を飲む

とありましたが若年性アルツハイマーもあるので、家系にこの病気

人がいる方は早い時期に飲むことも予防になると思います。 

何故飲むワクチンになるのか? の理由は、他の臓器と違い

脳には関所のような関門があり薬を脳へ直接送り込めないからで、

腸に薬を届けて腸から脳に送る栄養分でコーティングして

関門をくぐり抜ける工夫をしたからだそうです。 

医学の進歩は目覚しく研究開発技術の進化で不可能が可能に

なっておりますが、長寿化が進む現代社会の孤立を解決しない

とアルツハイマー以外の認知症は増加し続け、

家族や社会保障費の負担は増加するばかりです。 

アルツハイマー以外の認知症は鬱病から進行するものが多く、

コロナ以後は高齢者の社会的な接触も制限されておりますので、

鬱病から軽度の認知障害へと進み見過ごされ易いのです。 

一般的には軽度の認知障害から認知症発症までは五年位

ですが、孤立による鬱からの場合は孤立度が高いと発症は加速

しますので、私共のお客様の御家族にも増えております。 

高齢な両親をお持ちの方達が的確な判断材料として参考に

すべきことは、家の中がだらしなく乱雑になり始めたら

受診をすることをお勧めします。 

高齢による単なる物忘れと認知症の区別の基準はここですが、

根本原因は精神的な無力感にあり迷路に落ち込むと、

その無力感から食欲も落ち体力も減退するので

その辛さから逃れるために認知するのです。 

だから認知して精神的に楽になると食欲が旺盛になりますので、

認知症専門施設に行くと判りますが食事の一時間ほど前から

認知症患者は集っています。 

人間とは不思議な動物で忙しくても暇過ぎても鬱症状を

こし易く、一般に若い人は懸命に働いても認められない

無力感から、高齢者は社会的な役割が無くなり社会と繋がる

糸口を失って暇になると鬱を発症し易くなります。 

高齢になっても年齢相当の役割を仕事として持っている

人達の場合は、人との会話もあり自分は社会の役に立って

いるという自負感が持てるから元気なのです。 

反対に家族から何もしなくて良いという環境に置かれると、

自分が家族に負担をかけ迷惑ばかりかけている存在なのだ

という僻みが起こりますし、家族がいないひとり身の人は

会話もないので自分は社会的に必要のない存在なのでは? 

という無力感の僻みから鬱になって行きます。 

効率と便利さを追求する現代社会で、最近は買物に行って

支払いも機械が相手ですので最低限の会話すら存在せず、

店員が『何番で』と告げられるだけの時代になって

しまったので尚更です。 

心も身体も健康維持の基本は運動・睡眠・食事ですが、

鬱になるとこの三つが阻害される悪循環に陥るのですが、

ひとり身世帯では気付いてくれる人がいないので

手遅れになってから発見されています。 

鬱から何故認知症に進行するのか? の私が思う仮説ですが、

人間の生命維持装置が身体だけでなく心にも自動的に

働いているからでは? と思っています。 

例えば身体の生命維持装置の場合では、冬山で遭難すると

寒さで血流が落ちるので生き残るために脳と心臓への血流を

自動的に優先しますので、最初に集音のための耳から凍傷が

始まり次に心臓から遠い足や手の指から胴体へと凍傷が進みます。 

これは人間の意思で行っているのではなく、生き残りを優先する

ために不要なものから削除する免疫システムだと思います。

鬱病も運動・睡眠・食事が阻害されますが、特に食欲が

減退する人が多く痩せ衰え栄養不足に陥り生存が脅かされますが、

ここで脳が認知すれば鬱病で抱えていた精神的苦悩から解放

されるから食欲が出るのです。

認知症は初期の記憶から忘れやすくなっていますので、

鬱発症の原因である辛い記憶を忘れて解放されるから、

食欲が出て栄養不足が解消され元気になり命の危機が回避

されるという、神秘的な生命維持装置が心にも自動的に

働いているのではないか? と私は思っています。 

運動による筋肉活動は様々な作用をしていて、運動をして

筋肉を使うとマイオカインというホルモン物質が出て脳に届く

と鬱病を防ぎ、他のホルモン物質も大腸癌・肥満・糖尿病・

リュウマチ等を防ぐ役割を果たしていることが最新科学

で判明しています。

このような運動療法が認知症患者にも効果があることは

臨床データーで証明されていて、認知症施設の半数に音楽に

合わせて踊ったり太鼓を叩いたりさせ、残り半数は今まで通りの

生活をさせて比較すると、前者は認知機能が二~三ポイント

上がり後者は二~三ポイント下がったそうです。 

記憶を司る脳の神経細胞も古い物を壊し新しいものを作っている

のですが、運動による筋肉を使わない生活を続けると

新しい脳の神経細胞が減少することも判っています。 

私の場合は三歳の孫が昨年のクリスマス発表会で踊った

ウキウキパレードという曲の踊りが滅茶苦茶可愛いので、

お姉ちゃんと二人に踊ってもらいDVDにして家のテレビで

再生し認知症予防に見ながら一緒に踊って楽しんでいます。 

孫達を見ていて思うことは、成長と共にどんどん出来ることが

増えていますが、反対に老いるということは出来ない事が増えて

行き子供に戻って行くようなものですので、一緒に遊んでいると

精神年齢的には近づき楽しいのですが、体力的には付いて行く

のが大変になり最近は二人が労わってくれます。 

高齢になると睡眠時間なども短くなり寝つきが悪くなりますので、

今は副作用がない導眠剤的なものがありますので活用しても

良いと思いますし、高齢者の体力維持のためには

三十分位の昼寝が効果的なのでお勧めです。 

高齢者の鬱病や認知症予防にはなるべく若い人達と

繋がれるような習い事や何か新しいことに取り組む工夫と、

日常行動の中に運動や料理のような創造的な行為を日課として

組み入れる事と、快適な睡眠のためにはなるべく嫌な人を

避け美味しい物を口にして楽しく前向きに過ごすことです。

楽しいことや創造的なことは待ち望むのではなく、自ら行動を

起こす以外に道はないので私は指のリハビリを兼ねて

電子ピアノを始めましたが、継続していたら今は四曲弾ける

ようなり今は五曲目(ベートーヴェンの悲愴・第二楽章)に

挑戦していますが、できない苦しみの中で達成感の喜びを

夢見て最近は就寝前にも取り組んでいますが、ピアノの音色を

楽しみながらの悪戦苦闘が心地良い疲れのせいか?

疲れを感じたら床に入るのですが、音楽療法の効果は絶大で

瞬時に寝入り朝まで熟睡できます。

最近はコロナ不況のために若年層の鬱病や自殺も急増して

おりますが、格差社会の負の連鎖で若年層の方達の生きる

意欲みたいなものも減退しているように感じています。

人生とは苦難の連続ですが、その苦難の時にこそ心の持ち方が

大切で、何事も苦難を乗り越えると喜びと自信が生まれます。

苦難なしに栄光を掴んだ人などなく、誰もが絶望の淵から

這い上がる精神力の果てに小さな幸せと自負心が生まれます。

私も行商から四十六年の間に『もう駄目かも』と思ったことが

数えきれないほど有ったのですが、若い人達には

私の座右の銘にしているサミユエル・ウルマンの言葉

知って欲しく書いておきます。

    

   若さとは人生のある時期のことではなく

心のあり方のことだ。

  若くあるためには強い意志力と優れた構想力と

激しい情熱が必要であり、小心さを圧倒する勇気と、

易きにつこうとする心を叱咤する

冒険への希求がなければならない。

  人は歳月を重ねたから老いるのではない。

  理想を失ったときに老いるのである。

 

私はこの店の借財を背負ったときに、この言葉を習字の

上手な叔父に頼み書いてもらい額縁に入れて、店で私が座る

正面に飾り毎日胸に刻み、特に挫けそうな時に自分自身に

言い聞かせ奮い立たせて過ごして参りました。

 行商から始めて幾度も眠れない夜を過ごしましたが、

 私を信頼し安心して寝ている妻の寝息を聞きながら、

 娘と妻の信頼に応えようとこの言葉を胸で繰り返しました

 大切なのは執念に近い願望を持ち続ける事と、不安を助長する

 ような将来を悲観的に考えることを止めることでした。

 薄氷を渡るような数々の経験で学んだことは、

 どうなるか判らない未来を憂うのを止め、今現在を懸命に

 生きることに専念することが難関を突破し道を開くことに

 繋がっていたということでした。

 死は平等に誰にでも訪れ私にも待ち構えているのですが、

 その時を迎えた時に認知せず死を快く受け入れて、

 後悔なく 『精一杯楽しく生きてきたな』と実感できる

 生き方をしようと思い定めて生きて来ました。

 一年近くの闘病生活で経験した病院やリハビリ施設暮らしは

 私の想像通り中身は刑務所と同じでしたので、高齢者施設

 などはご免で仕事を続けるための様々な努力をしても妻との

 想い出のある生活をした店の二階での孤独死を望んでいます。

 私は長く生きることより精一杯生きたいが願いで、そう生きれば

 その後に迎える死は生の四苦八苦からの解放でもあるのです。

 孫達との別れに悔いはありますが成長を見届けたいので、

 できれば娘の家の庭にあまり大きくならない木を植えて、

 死後ずーっと家の仏壇に置いてある妻と私の遺骨を少しづつ

 根元に入れて欲しいのも勝手な願いです。 

 そうすれば庭木として孫の成長や娘達家族の健康や

 試練を見守り応援し続けられ、いつも傍にいられるようで

 私は墓などよりずーっといいなと思っています。

 私は浮世の立派な墓などに興味はないので、散骨として毎年

 妻と私の骨の残りを少しずつ木の根元に撒いてもらえば、

 妻ともう一度錯覚の恋愛ができるかな? と思っています。