邪悪さの克服。

私と孫達だけで遊んでいる時には、孫達がお父さんやお母さんに

規制されている少し邪悪な行為を内緒で行う共犯関係

楽しみ仲良くなっております。 

人間とは本質的には邪悪なものを持っていて、

例えば自分が不幸な気分の時に自分より不幸な人に出会うと、

気の毒だと同情する思いと共に自分はまだそれほど不幸

ではないと思えて安心するような、複雑な気持ちが同居して

いるのが人間の心理です。 

逆に自分より幸せな人に出会うと、自分が恵まれていないと

不幸な気持ちになるのですが、このような相対的な位置で

物事を考えるようになることが社会性の獲得に繋がっている

大事なものでもあります。 

私が孫達に親に内緒で少し悪い事を一緒に行うのは、

親に規制されている事をしてみたい欲望を満たしてあげる

ことが実はガス抜きになっている事と、人間的な成長過程で

大切なことは『悪いことを知って悪いことをしない人間なるように

してあげないと、学校や社会で悪い奴に騙され悪に勝てない』

という未来の不幸にも繋がっているからです。 

子供のうちに親に内緒で悪いことをすると、その内緒の

邪悪さを心の中に抱えて親に対面しているときにバレないか?

という不安と葛藤するのですが、失敗を重ねるうちに

その対策なども高度化して行き、その葛藤の過程で

『親の気持ちや立場になって考える』ようになり

思考回路がより複雑化し成熟して行くのです。 

先日も三歳の孫だけ預かっている時に私の携帯電話を渡すと、

目が『いいの?』と言っていたので『どうぞ』と言うと

ニッコリ笑い『写真が見たい』というので出して渡すと、

指先でいじり夢中になって約二十分位楽しんでいました。 

普段親に規制されているものへの好奇心が満たされたことで、

その後は私の言うことを何でも聞いてくれました。

それらが孫達にとって私が欲望や希望を何でも満たしてくれて

絶対裏切らない人であるという確信を生み、今後の成長過程

において『親に言えないような悩みや秘密も相談できる』

ような存在に繋がれば良いと私は思ってもいます。 

もう上のお姉ちゃんは些細なことですが秘密を私に何でも

言うのですが、これは親に知らせておかなければと思う事柄は

孫達に内緒で娘に伝えている私は二重スパイみたいなものです。 

人間の判断力とは実に危ういもので、全ての事柄を

『自分の尺度で判断し行動している』危険な存在で、

いつも自分の育った文化や倫理観だけを基準にして

人を判定しているから誤解されたり騙されたりするのです。 

悪いことをしなければ悪いことをする人の気持ちが判らず、

そしてその悪いことに罪悪感をどの程度感じるか? は

養育環境や出会いが関係しておりますが、生きる力と倫理観は

自分の邪悪さも含めて愛してくれた人から貰った

自己肯定感と相関しているような気がしています。 

悪とは違って善は言葉より親の背中で教えることが重要なのに、

社会では反対の親が多く子供には建前を押し付けて

自分達は勝手なことをしている親が多いから、

子供は親のその偽善的な行為への反逆として非行に走ったり

勉強などの前向きな取り組みを拒み逆らい続けるのです。

悪と同様に自己顕示欲なども幼児期に目覚めるのですが、

この自己顕示欲も幼児期に発散できるようにしてあげると

実は向上心に繋がっていて、自分が相対的に優位に立つこと

快感を味わう楽しさを知ります。

そして悪も自己顕示欲も幼児期に発散できて自己肯定感を

獲得できた子供は、社会性が成熟し始める中学生頃には

他者への配慮で悪と自己顕示欲の制御が自分の意志で

コントロールできるようになり人間的な厚みも増して行きます。  

人間の成長に環境因子が一番重要な例として、

もしも親が日常前向きに取り組んでいる背中を見ていたら、

子供は前向きに生きることが何だか楽しいのでは? 

と思えますし、親が何かに挑戦して成し遂げている姿を見て

育っていたら自然に応援したくなり

やがて自分も何かに挑戦したくなるのが子供本来の姿です。

多感な思春期には悪魔の誘惑がとっても魅力で、

特に自分に無いものを持っている人に惹かれるので、

思春期の真面目な女子が不良に惹かれるなどは典型的な

症状なのですが、社会を理解し始める十八歳くらいになると

似た者同士にも親愛の気持ちを持つようにもなります。

子供は親と社会が決めた善悪の中で育つのですが、私は

娘が中学二年生の時に『万引きしてみろ』と告げた事があります。

それは帰宅するなりクラスの不良男子が先生のいない教室で

万引きを自慢し得意になっていると、悪行を非難し私に話す

雰囲気の中正義を振りかざす善人気取りの様子が垣間見え

不愉快だったので、『万引きをしてみろ、ただで物が手に入る』

のだと告げたのです。

娘は怒って『捕まったらどうするのさ』と言ったので、

『捕まったら警察にお父さんがやれと言った』と言えば

私が警察に行くと伝えたら、怒って『馬鹿でないの!』と言って

二階に上がって行ってしまいました。 

そんな会話の一週間後くらいに帰宅するなり『出来なかった』

と言うので『テスト?』と聞いたら、怒って『万引きさ』と言うので

椅子に座らってもらい娘の持つ真の倫理観を褒めてから

娘を試したような私の発言を謝罪しました。 

親や社会が決めた善悪を丸呑みしている倫理などは

真の倫理観ではないと私は思っていて、悪行をやろうと思っても

できない心こそが真の倫理で、社会の善悪なども時代と共に

常に変化しており、昔は非常識だったことが常識になったり

非常識だったことが常識になったりしていることが沢山あると思うと

話し、娘自身の倫理観を信じて生きて欲しいとお願いしました。 

そして万引きを自慢していた不良の気持ちも判ってやって

欲しいと告げ、悪いことをする人間には悪いことをする理由が

必ずあると思うから、つまらない正義を安易に振り回す

のだけは謹んで欲しいとお願いしました。 

その頃私の店に神父さんが来店していて、この話をしたら

聖書には『正義は汚れたパンツ』という言葉があり、

正義は振り上げた瞬間に汚れているという意味だそうで、

真の正義とは日常の何気ない生活の中で

日々実践するものなのですと教えてくれました。 

正義や善は教え強要するようなものではなく、毎日の生活の中で

親が実践する背中を見て感じ取り文化として沁み込んで行く

ようなものだと私は思っております。

ちなみにもし娘が万引きを実行し逮捕されたら、私がやれと言った

ので親の私の責任ですと警察で謝罪する覚悟でした。

親の仕事は子供の行為への責任を取ることで、

子供がもし悪行を犯したら子供を責めたりせずに学校や社会に

謝罪するのが扶養者としての親の義務です。

ピンチはチャンスという言葉がありますが、子供の前で

学校や警察に謝罪する姿を見せて親としての責任を果たす

ことの方が子供への教育的効果があると私は思っています。

親に恥をかかせたと子供に怒りをぶつける行為の裏には、

子供のことより親の立場を優先している心理が潜んでおり、

子供を悪行に走らせた親としての反省がないのです。

悪の文化も性根に沁み込んで行くのですが、思春期頃に

悪行をしていても心の何処かに罪悪感があり

『こんな事をしていては』という思いがある人は、

自分を認めてくれる理解者が現われると必ず厚生できますし、

悪行を知った人の善行には学問では得られない心の機微が

行き渡っておりますので、社会的にも家庭的にも成功者に

なれると私は思っています。 

それは心が綺麗な人ほど意外と傷つきやすく汚れやすい

一面があり、このような人は社会の誰かや伴侶などの恵まれた

理解者に出会うと元の綺麗な心に戻り再生するからです。 

人を動かすには飴と鞭を使い、教育には自由と規制という

相反する矛盾したものを使うのは、人間の心には善と悪

という矛盾した両方が本質的に内在しているからで、

だから性善説と性悪説に決着がつかないのです。 

善と悪のどちらの要素が強い人間になるか? は環境因子が

強いと私は思っていて、善は自分を認め愛してくれる人との

出会いで肥大し、悪は自分を貶め否定する人との出会いで

肥大するのではないか? と思います。 

孫達が来て店で遊ぶ中で二人が大喜びする遊びが

『明日天気になーれ』で長靴を放り投げる遊びです。 

どちらが遠く飛ぶか? 長靴が立つか? 外まで飛ぶか? 

を競うのですが、長靴が立つと携帯で写真を撮ります。

陳列商品や花瓶に当たったりするハチャメチャを許されるのが

楽しいのですが、私は孫達が怪我だけしなければ良いと

思っていて、やがて花瓶や急須などの何かが割れて孫達が

『私に悪いことをした』と思えば止めると思いますし、

そんな時でも私は決して怒らず『爺がいいと言ったのだから

いいんだよ』と言ってあげるつもりです。 

何事もやってみないと迷惑や危険は身に沁み込まないものですし、様々な出来事の中で覚える経験知が他者への配慮や

危機管理意識などに繋がり孫達の成長過程の中で

全て身体化されて行くのです。

親に悪を規制され善を教えられ育つことは基本ですが、

幼児期も思春期も『何をしたらどうなる』などは経験しないと

理解できないことなのです。

 私共のお客様が老いて親の気持ちが判ったと言うのに似て、

 人間は全て経験しないと理解できないのです。 

 人間が本質的に持つ邪悪さの克服のためには、

 人間の持つ本質的な邪悪さをある程度吐き出すことが肝心で、

 その邪悪さも含めて自分を認め愛してくれる人に出会うこと

 自己肯定感に繋がり、こ自己肯定感こそが困難に

 立ち向かう生きる勇気と邪悪さの克服に繋がっています。

 人間とは失敗からの学びが骨身に沁みる大切なもので、

 成功が続くと驕りと傲慢さで大怪我に繋がっていますので、

 邪悪さと金銭的な失敗は人生のなるべく早い時期に

 経験させた方が、傷が浅く済み自己制御できるようになります。

 人間とは自分の欠点や邪悪さも含めた全人格を愛される

 喜びを知ると、やがて愛する人への自己犠牲的な行為に喜びを

 感じますが、その頃には邪悪さは克服されています。

 最後に私の好きなマックス・ウエーバの深い言葉です。

     善は善のみに

     悪は悪のみに続くものではない

     しばしばその逆が真実となる