好きなことが学びの入口。

新年明けましておめでとうございます。

コロナウイルスとの戦いは三年目を迎えますが、私も

病気発症から三年目で少しづつですができることも増え、

孫達とも遊べるようになり最近は度々私の店にも来て

楽しいひと時を過ごしておりますが、様々な遊びを

工夫し過ごす中で二人が大好きな事は一体何なのか? 

いつもを注視しています。 

まだただ遊ぶことが大好きなのですが、いずれ成長と共に

『これをしていると大変でも楽しく充実感を感じる』

というものに出会いますが、二人とも出来なかったことが

できるようになる事が増えるにつれ、対人関係も増加し

精神的に複雑化した考える力を身に付け、本人達も

気づかないうち物事と対人関係を俯瞰して見る

複雑な考え方を自然に身に付けています。

子供でも無意識に友人との相対評価で自己の位置を確認し、

優越感や敗北感の中で調子に乗ったり負けまいと努力

したりする葛藤を通じて成長しているのですが、

その成長は急速で心も身体もあらゆることに対して

複雑化が進んでいるのが二人と遊んでいると判ります。 

親は学校で評価される勉強を優先しがちですが、子供は

成長と共に遊びが変化して行き、その中から自分が本当に

楽しいと思えるものや自己実現できそうなものに出会い、

目標ができると学びは自然と加速します。 

孫のお姉ちゃんは苦労していた自転車が昨年乗れる

ようになり達成感と共に一段と自信を深めましたが、

お父さんが子供の挑戦を見守り手助けしたことが、

お姉ちゃんの成長に一番大切な自己肯定感の獲得に

繋がり私から見てその後劇的に変化しています。

新しい不安なことへの挑戦をいつも両親が見守って

くれているという確信が自信を生み、以後何事にも

慎重だったお姉ちゃんが以前に増して積極的に

なっているのが私には感じられ、逞しく成長し始めて

いるのが判り私の生きる喜びにも繋がっております。 

子供は様々なことに興味を持ちながら、実は自分が一番

楽しいことを捜し続けているのだと私は思っており、 

野球・将棋・ダンスが好きだけでなく電車や虫や魚が

好きなど人間は実に個性的に生まれて来ています。

その好きなことを親に否定されず見守られ育まれた

子供は、その親から授かった自己肯定感を心の支えに

苦難に立ち向かい、人生の危機にも挫けず頑張る底力

繋がっているのだと私は確信しています。 

一般に人は欠点に目が行きますが、子供の長所を伸ばして

あげれば欠点はやがて自分で気が付き修正するもので、

欠点は指摘するのではなく黙って見守り、子供自身が

自分の欠点に気が付くように導くことが大切で、

親のその忍耐による見守りは必ず子供に通じ自らの

意志で欠点を修正する成熟へと繋げて行きます。 

子供は親に責められることに一番傷き、褒められること

一番嬉しいことなので、どんなことでも子供が何か

達成できたら褒めてあげることです。 

大人でも昇格したり好きな人に何か? 褒められたり

したら嬉しいのは、『自分が承認された』と感じる

心からの喜び繋がってるからで、この承認こそが

子供が親に求めているものだからです。 

子供は様々な新しい環境に不安を感じながらも一つ

ひとつを乗り越えることで自信を深め成長するのですが、

その挑戦への原動力は親から授かる日々の承認と

子供が持つ疑問に建前ではなく本音で正直に答えて

あげることが心の複雑化を促進します。 

昔娘が中学生の時に『なんで将来に意味のなさそうな

勉強までするの?』と聞いたので、義務教育において

広く浅く勉強したことが未来のいつか何処かで

必ず役に立つからですと野村監督を例に話しました。 

野球選手になるのに数学は必要ないが、野球の才能で

長嶋選手に劣っていた野村さんが、データーという

数学的な発想で相手の行動を予測し成績を良くし、

才能の不足を補うことが出来たのも義務教育で算数を

勉強していたからだと思うと説明しました。 

義務教育で広く浅く、高校・大学に進むにつれて少しずつ

狭く深く勉強するのですが、学問はテストで良い点数

を取るためのものではなく、生きて行く上での

生き残る手段として必要になるものだからです。 

人生とは先の見えないジャングルの中を進んで行く

ようなもので、立ちはだかる沢山の危機や障壁を

乗り越えて進まなければなりません。 

ジャングルではナイフや紐や棒など生き残るために

様々な道具と知恵が必要ですので、強度のある棒や

硬い石など将来役に立ちそうな物をなるべく多く、

『いつか何かの役に立つかな?』と籠に入れ持ち歩き

身に付けている者が生き残る確立を高くします。 

義務教育の勉強は、この生き残るための大切な道具で

工夫し変換すると知恵に繋がっており、その良い例

として面白い人を深夜テレビで見ました。 

途中からなので名前など詳細は判らないのですが、子供の

頃から昆虫が好きで世界中の昆虫を本で見ているうちに

実際に見たくなり、一生懸命働き世界中の昆虫を見に

行っているうちに英会話の必要に迫られ、

勉強し六十歳位になって英語で論文を書くほどになり

学会にも発表したそうです。 

学生時代は全く英語を勉強をしなかったそうですが、

昆虫に夢中になってより詳しく知るために英語の勉強が

必要になったのですが、好きなことのための英語の

勉強は全く苦痛ではなく楽しかったそうです。 

昆虫学者はテストで良い点数を取るための英語は嫌い

だったのですが、自分の好きな昆虫を知る目的のために

英語が手段として必要に迫られた時、その好きな目的

向けてする英語の勉強は楽しかったそうです。 

一般的には好きなことも金銭的な成果という結果に

繋がらないと認めない傾向が強いのですが、私は普通に

暮している中で趣味として山が好きとか、音楽・ダンスが

好きとかでも人生を豊かにして良いと思っています。 

先日も孫達が来て『隠れんぼ』をしようと言うので、

押入れの前に椅子を置いてあげたら『もういいよ』と中々

言ってくれないので、隠れる場所を工夫しているのだろう

と思い待っていたら、布団をぐちゃぐちゃにして

とんでもない所に隠れており本当に楽しそうでした。 

私は後片付けの大変さより、あの楽しそうな顔を見ている

だけで幸せな気持ちになり、次回お姉ちゃんは一番上

の狭い棚の上に隠れて見つけられず、下の孫は暗く恐い

からと私の枕元の卓上電気を持って入っておりました。 

人生にはこの楽しいという気持ちが大切で、

どんなに辛いことでも自分の弱さでも乗り越える

強さに変えてくれるものが楽しさだと思います。 

私が思う親や祖父母の役割は子供の

この『生きる力を育むこと』だと思っていますが、

その原動力になるものこそが楽しさで、

その楽しさを授けてくれる祖父母や親からの承認を

日々受け取っている子供は逞しく成長して行きます。 

人間にとっては楽しいと思えるこの好きなことが、

人生という未開のジャングルを逞しく生き抜く原動力

になるもので、いつ・何処で・何の役に立つのか? 

判らない知識や技能を義務教育の中で広く浅く学び、

また遊びという行為の中で他者の気持ちを学びながら、

将来に備えているのだと私は思っています。 

成長に連れ出来ることや知識が増えて、行動範囲も

広がる中で視野も広がり好きなことや好きなものの

選択肢も広がり、十八歳頃には不安ながらも少しずつ

方向性が見え定まって参ります。 

テストで良い点数を取るための学びより、

好奇心が刺激された好きなことから波及する学び

方が重要で、楽しさは心の潤滑油として癒しにも繋がり

人生を豊かにするだけでなく心を成熟へと導きます。 

兄弟・姉妹の学びで親が配慮しないといけないことは、

最初の子供には学びの点でハンディがあることです。 

それは下の子には常に姉や兄がいて身近で手本を見て

いますので、お姉ちゃんが出来ることは自分も出来る

と思い込んでするので良い結果が出易いのです。 

逆に最初の子供は全ての行為が初めてという不安の中で

挑戦するので良い結果が出にくいのです。 

保育園や幼稚園で同学年の子供が出来ることに刺激を受け、『もしかしたら自分もできるかな?』と挑戦しますが、

兄弟・姉妹のように身近ではないため不安を抱えて挑戦

するので良い結果が出にくく、好循環に繋げるには

弟や妹より時間を要する傾向があるからです。 

だから最初の子供には意識的に見守りと励ましと

承認が多く必要で、できた時は意識的に過剰なほど

褒めてあげて自信を持たせる配慮必要です。

親の方も初めての子供は戸惑いながらの対処ですが、

下の子供には親としての経験知から自らも成長して 

下の子供に接しているので好循環を生み易いのです。 

下の子供は言葉も行動も全てが身近に手本があるので、

上の子供ほど不安を意識せずに挑戦することが多いため、

身の程知らずで怪我や事故に繋がる危険がある配慮

上の子供より必要になると思います。 

プロのスポーツ選手で活躍している人達に真ん中や

末っ子が多いのは、小さい頃から姉や兄ができることを

自分も出来ると思い込んで挑戦するので、早く自信を

持つことに繋がり成長も自信獲得も早いのです。 

大リーグで話題の大谷翔平選手も確か?末っ子で、

現在社会人野球選手の兄の刺激を受けて育った恩恵

才能と結び付いた結果で、もし野球をしていた兄が

いなかったら今の大谷翔平選手は存在しなかったと

私は思っています。

大谷選手は肘の手術や膝の怪我などの期間も前を見て、

ピッチングマシンで打席に立ち球の見極めの練習と、

スイングフォーム改造に伴い下半身の強化トレーニング

しており、コントロールを身に付ける為に重さの

違う球を壁の同じ場所に投げる練習を独自に考案し、

肘に負担をかけない投球フォームに改善するなど、

復帰までの苦境の中でも出来る最大限のことをしていた

のですが、その好きな野球で出来なかった事が

できるようになる努力が楽しいからと言ってました。

このような論理的な工夫と努力は子供の頃の父との

野球交換日誌を通じて物事を俯瞰して捉える

複雑化した思考を父親から学び今でも息子の

出場映像をテレビで見られない愛情深い母親から

授かった自己肯定感があるからと思います。 

また子供の栄光に乗かってマスコミにあまり登場しない

両親の人間性が大谷翔平選手の努力と謙虚さの人間性

にも繋がっており、栄光に溺れず常に兄の存在にも

感謝し続けて欲しいと私は願っております。

下の子供で駄目な子は、兄や姉の良い所の真似をしないで

『俺・私だってやればできる』と身近な兄や姉を軽視し

いる傾向が強い子供で、このような子供には厳しく

『やってから言いなさい』と告げる戒めが必要です。 

資本主義社会では高い収入を得ることが目的化していますが、お金も『いつか何かの役に立つかな?』と

無駄使いをしないで籠の中に入れておき、生きるための

大切な手段ではあっても目的ではないと悟ることです。 

 学問も技術も人の協力を得られる人間性も、

 人生を生き抜く大切なツールで、柔軟な思考多くの

 選択肢を身に付けることが生き残る確率を上げるのですが、

 最終的には自分自身が楽しいと思えることや大切な人の

 ために働き、その楽しいことや大切な人のためにお金を

 消費することが人生を豊かにすると私は思っています。

 家庭を持ったら愛する家族のために働き消費することが、

 実は自分が家族の役に立ち必要とされている充実感

 繋がり、それらが自らの存在意義になっているのでは?

 と私自身は思っています。

 若者の自殺の増加が続いていますが、それは

 楽しみもなく死んだように生きている』からで、

 生きるということを理性的に考えることを追及し過ぎる

 と人の心は必ず病んでしまうものなのです。

 大谷選手のように逆境の時こそ楽しさを求めて、

 その好きな事の進化を論理的に考え今できること

 に努めるとが心の健康維持に繋がっているのです。

 娘が小学三年生の時に『なんの為に生きているの?』

 と聞かれたとき私は『生きている事に意味なんてない』

 ひたすら楽しく幸せになるために生きればいい!

 と一時間ほど話したことを想い出しました。

 年末三十一日は娘の家でご馳走になり泊まってきた

 のですが、眠ろうとしたらいつもお母さんと寝ている

 お姉ちゃんがやって来て『爺と一緒に寝たい』と

 やってきたので、久々に手枕で朝まで一緒に寝た

 夢心地の時間でした。

 思うに任せて書いているブログは、元々は通信販売の

 お客様に添付しているものなのですが、死ぬまでの

 私の暇つぶしの仕事ができるうちは続けたい

 思っていますので、読んで頂いている方達にも

 暇つぶしになれば幸いです。

 皆様にとって今年も良い年でありますよう願いながら

 拙いブログを今年も暇つぶしに続けて参りますので、

 本年も宜しくお願い申し上げます。

 追伸

 正月の二日も婿殿の手料理で夕食を御馳走になり、

 帰宅し歯を磨きながら録画した映画を見たら、

 このブログの内容そのものの感動的な映画でした。

 インドの『きっと、うまーくいーく』という題名の

 映画で、始まって三十分位は消去して寝ようと思った

 のですが、主人公ランチョーが登場してから突然

 面白くなり共感し涙が幾度も流れました。

 気が付いたら深夜二時半になっており、三時間の映画

 で内容はインドの名門大学生がハチャメチャな行動を

 繰り返しながら、お金や地位を求めることよりも

 好きな事や好きな人のために生きることを選択する

 物語を描いていました。

 様々な場面の言葉と選択は現代の風潮への痛烈な批判が

 垣間見え、大人社会の常識と闘い自らの好きなことを

 成し遂げるまでの物語で、彼らの合言葉は『人生が

 手に余る時は、唇を丸め口笛を吹いてこう言え、

 きっとうまーくいーく』です。

 私には子育ての極意を映画にしている感じられ、

 子供の好きなことを親が全力で支える事こそ子供の

 人生を豊かにし、子供にも『生まれてきて良かった』

 思ってもらえることを再認識した映画で、孫達の未来も

 そんな人生を過ごして欲しいと願いながら眠りました。