新聞がいらない。

私は病気で入院し寝たきりの半年間はテレビのニュースだけの情報でしたが、リハビリの病院に転院して二ヶ月程してから病院で新聞も読み始めました。

しかし退院後も未だに新聞を取っていないのは、新聞に購読料を支払うほどの情報がないと思ったからです。 

人間には長年の習慣として染み付いた行動というものがあるのですが、私のような年配者の新聞購読にはそのようなものを感じています。

今年の六月に十年程経過したテレビが壊れ新しいテレビが来てからインターネットに繋がりメディアの多様化を実感し、今のテレビの中身はほぼパソコンだと思いました。

妻が元気な頃のテレビは妻の物で、私にチャンネルを選択する権利はほぼ皆無でしたので、地デジ放送のお笑い番組か? 

BSは妻の大好きな野球の日ハム戦か? 巨人戦のみでした。 

それは家庭の城主は妻なので城主の意向に逆らうと波風が立つからで、夫婦でも好みは違い私好みの知的好奇心の番組など妻は大嫌いなので、家では遠慮した方が料理やその他のことを私好みに配慮してくれていましたので、その思いやりと苦労に報いることは妻の楽しみを尊重する事との思いからです。 

人間には誰でも逆鱗に触れると危険な箇所があり、妻の場合は難しいことが嫌いで単純に笑っていることが好きな人でしたので、政治・経済の特集番組などを見たりクラッシク音楽をかけたりしたら、文句は言いませんが明らかに機嫌が悪くなるのです。

『喜怒哀楽』という言葉がありますが、違う文化で育った夫婦の文化の融合を目指すには、相手に喜びを与えるように心掛け相手の怒りを買うような行為を慎み、相手の哀しみに寄り添い楽しみの邪魔をしない毎日の心掛けが大切だからです。 

それを心掛けていると不思議と相手もこちらの喜怒哀楽に同じように対応をしてくれ、やがて阿吽の呼吸になるとお互いに虎の尾を踏まない間合いを保てるようになります。 

そんな心がけのせいか? 娘がいなくなってからの二人だけの生活も平穏で、月二回の定休日もいつも一緒に遊びに行き続けても喧嘩にならず、突然の死を迎える前日も朝から晩まで二人で遊び呆けた良い想い出が今の支えになっています。

そんな妻を見送って少し落ち着いてから食事と歯を磨く時だけテレビを見ていて、BSチャンネルの番組表を見たら私好みの情報番組が沢山あるのを見つけました。 

特にBSNHKの一と三チャンネルには良い番組が多いのを感じ見ているうちに、これはスポンサーや視聴率を意識せずに制作できる安定した受信料という豊富な資金の賜物と思いました。 

BSには国際政治や経済・国内政治や経済の専門番組があり、各部門の専門家が生出演する一時間~二時間の番組や、自然・ヒューマン・サイエンス・芸術などの専門家が出演し解説する番組やドキュメンタリーなどもあり、その取材も数年に渡って行われた秀作があって知的好奇心が刺激され知る喜びに満たされるものが多く、意外にも妻を失った寂しさを和らげてくれる効果を生んでいました。

書物と違い生の感触があるので、発言の様子には偽善的なものも表情に出ますので、情報を咀嚼するには最適な味わい

じられますし、そんな情報源をもとに推理・分析してみる当たり外れの繰り返しで見えてくるものが楽しいのです。

地デジ放送のニュース番組のコメンティーターなどは、番組の意向に沿うコメントをしないと出演できなくなくなっており、ニュースの内容はどのチャンネルでもほぼ同じの退屈さです。

今の新聞はマンネリ化したテレビ報道を活字化したような内容で、真相に迫るような報道が減少し単純な事実のみ報道される上辺の情報になっているような気がします。 

昔の新聞には過去の事件を追跡調査した記事などもあり、時間経過と共に真相が見えてくる報道がありましたが、最近

間と時間をかけた報道記事が減っているのも、新聞社に

資金的な余裕が無くなったからと思います。 

起こった全ての事件の裏には原因があり、その原因も追跡し

ないと起こった物事の真の解決に繋がらないと私は思うのですが、最近は全てのことに手間と時間をかけていない薄っぺらな建前だけの取材報道になった理由は、問題を起こした事務次官と新聞記者が麻雀をしていたように癒着した関係で

取材しているからと思います。 

事件取材で手間を省くと警察と新聞記者の癒着関係も起こるので、その癒着関係が警察の違法捜査や過剰暴力や暴言に目をつぶることにも繋がったりしますし、政治家や官僚からの取材なども癒着する方が手間が省け、軽いスクープのような記事も流してもらえるからです。

スマホも上手に使いこなせば新聞やテレビより早く情報が得られ無料ですし、選択眼さえ持てば確かで深く掘り下げられた情報が手に入ると思います。 

そんな理由で退院後に得ている私の情報源は、世間の上辺だけの情報は地デジ放送のニュースを十五分、世界と日本の情勢や経済はBSの専門チャンネルで入手していますので新聞を取らなくなりました。 

その他に何かに特化した情報が欲しいときはパソコンや新しいテレビで見られるユーチューブで検索して調べ、思想的な興味は図書館ホームページで予約した本で得られますが、その方が新聞やテレビに勝っている情報がほぼ無料でタイムリーに手に入るように思います。

水泳やパークゴルフやピアノなどの技術的なものもユーチューブで検索して見られ、様々な欲しい情報は様々なチャンネルで獲得できます。

新しいテレビでユーチューブのボタンを押し『初心者のピアノ練習法』と入力し検索をすると沢山の練習法の情報が得られ、その中から猫の手のように指先を丸めて左から右にドレミファソまでを左右の手で最低二週間繰り返し練習し、時々左右同時にやる方法でしたが、思い通りにならなかった中指と薬指が二週間を過ぎると動きの効果がはっきり判ります。 

何事も基礎が大事なのですが、ピアノ教室に通ったら高級なお寿司が五回ほど食べられるような情報が手に入り、後はやらされるのではなく自らやることを継続すれば良いのです。 

もし中級まで行けたら『中級ピアノ練習法』と検索し、ハノンなどの情報も得て継続する繰り返しがリハビリと暇つぶしになり、その上に出来なかったことが出来るようになる喜びにも繋がっています。

最初は左右の指を同時に別々に動かすことなど無理と思いましたが、『継続は力』の言葉は年寄りにも当て嵌まり

『さくらさくら』をガイドなしで弾けるようになった時は嬉しくなり、今は『キラキラ星』に挑戦してますが、何より病後はお客様に渡すお釣りの小銭を度々落としていたのが、怪我の功名でピアノを始めて一月後から一度も落としていません。 

私はずーっとユーチューブに偏見を持っていましたが、SNS同様に使い方次第と思い知らされ考え方を改めています。 

いつの時代においても新しい前衛的なものは奇抜で中々

馴染めないものですが、若い人達の心は柔軟なので逆に新しく前衛的で奇抜なものに好奇心を持つのだと思います。 

ビートルズなどもそうでしたがロックもフォークソングも同様で、歌舞伎なども昔は奇抜で新しい前衛的な怪しいものと見なされていましたが、能や狂言に縁のなかった庶民の娯楽として繁栄し現在は伝統芸能になっております。 

人間は自分が育った(特に二十歳位まで)時代の常識から抜けられない事と、思春期前後に目の当たりにした革新的なものから逃れられない習性みたいなものがあるように思います。 

高齢者にとってはテレビや車で、今の若者にとっては携帯電話やパソコンですが、逆に生まれた時から存在していたものには意外と興味が持続しないような気がします。 

私の孫達の世代にとって何が革新的なものになるのか? 判りませんが、やはり奇抜で前衛的な娯楽として楽しめる

ものと思うのですが、きっと高齢者は馴染めず最初は目をそむけるのだと思います。 

新聞はフランスで生まれ世界に広がり伝統的な情報源になりましたが、情報の多様化と高速化の進歩に破れ現在の

五十代以上の人達の高齢化と共に先細り、特に新聞の宅配制度が機能しなくなれば伝統的な紙情報源として細く生き残る運命ではないか? と想像しています。

アメリカは地方紙がほとんどなのですが、この十五年で千八百紙が廃刊に追い込まれており、購読者減少に合わせ広告スポンサーの減少にも歯止めがかからず、日本においても全国紙だけでなく地方紙は危機的な状況に追い込まれているようです。

新聞の衰退によって起こりそうな一番の危機は行政の監視機能が手薄になることで、アメリカでは地方紙廃刊によって行政の監視がなくなったことを幸いに、地方議会が条例で議員の給与を三倍にしていた議会もありました。 

音楽などもレコードからCDまでは販売でしたが、現在はネット配信が主流になりレコードやCDも一部マニアによる伝統化として先細りしています。

芸術や音楽活動なども昔はメディアに取り上げられないと世の中に出られなかったのですが、今は自分で作品をネット上にアップして世間が評価するとメディアが後追いで取材・

出演を依頼することや、事件・事故映像なども一般の人が携帯で撮ったスクープ映像がニュースに使われ、アマチュアがプロを席巻し駆逐しかかっている時代になっております。 

ユーチューブなどは相間に短いCMが入りますが、見た人のカウント数によってスポンサーからユーチューブ主催者に現金が支払われますので、沢山の視聴者を集めるユーチューバーにCMを入れるスポンサーは、たとえばピアノに関心がある人の嗜好をAIで分析し広告投資をしますので無駄のない収益に繋がるというわけです。 

インターネットの普及は様々な業種に変化をもたらし、現在は社会インフラや行政などもコンピューター管理ですので、先の米国の事件のようにハッキングされ石油パイプラインがストップするような事態にもなりました。 

ネット社会の癌細胞への対処もいずれは進むと思うのですが、情報社会の多様化が既存メディアの存亡を危うくしている過渡期だとしても、果たして次のメディアの主流がどのようなものになるのか? やはりユーチューブのように奇抜で怪しい前衛的なものが台頭し、その後すたれて少数が伝統的なものとして生き残る繰り返しなのでは? と想像しております。

新聞で想い出すことでもう時効だから良いと思うので白状しますと、十九年前に娘が就職活動に行き詰っていた時の事を通信販売のお客様への手紙に書いて出していました。

あるお客様のご主人が突然私共に電話があり、大手新聞社の副社長と告げ娘の大学名を聞いてからお誘いがありました。

娘に電話し社会勉強になるからと嫌がるのを説得し、お会いするように勧め本社にて一時間ほど面談しました。

その夜に娘が電話してきて『コネの一言も出ない大人

会話は本当に勉強になった。でもコネは嫌なので断ってね』と告げられました。

その頃新聞社は春と秋の二回入社試験を行っていましたので、秋の入社試験を受けると採用されたと思いますが、私は娘の気持ちを尊重し了解しましたが、『世の中には表と裏が

あり闇の世界もあるよ』と話し、大人の世界を判ってもらっただけで充分でしたので菓子折りと共に丁重にお断りの手紙を送ったことを想い出した次第です。

後日電話があり『頼まれることは多いが、断られたのは初めてです』と言われ恐縮し冷や汗が出たことを想い出します。

その後娘は就活を止めて残りの学生生活を楽しみ帰郷しましたが、何もしていないと社会と繋がれない息苦しさを感じると言いホテルのアルバイトから始め今は社員として働いています。

大手新聞社副社長が招き入れようとしてくれた、傍目には幸運のドアーに思える入口で思い止まった選択が、今の婿殿との出会いに繋がっており、その選択のお蔭で今の孫達に出会えた幸運に繋がっていたと思うと娘の選択には感謝しております。

最初から私はどちらを選んでも娘の決断を尊重するつもりでしたが、金銭的誘惑や社会的地位へのお誘いなど一見幸運のドアーが開いた時の選択と決断は人生の岐路で、利害的なものを優先するか? 信念や人生観を優先するか? です。

どちらの選択が正しいか? の正解はないと私は思っており、やはりこのような選択にもその後の責任が良くも悪くも伴っておりますので、全て本人が選択し決断すべき問題であるのは、その後の人生の幸せや不幸にも繋がっているからです。

大学進学率が急上昇するようになってから、このような場面の選択や決断に関与し過ぎる親が増えていますが、これ

などが子供自身の藤の機会を奪い思考停止に追い込み自立心を削いだことに繋がったことは確かだと思っております。

しかし私は親馬鹿を通り越した馬鹿な親ですので、もし娘が

新聞社に入社し勤務していたら、きっと『新聞がいらない』というブログなど絶対に書かず新聞を取り続けるだろうなと思うと、人間とは本当に勝手な生き物だと思います。

そしてペットボトルのお茶を買う人が増え、お茶の味など判らない人が大多数になっておりますので、他人事の新聞だけでなく『お茶屋さんがいらない』時代もすぐそこまで来て

いると予測しますが、私は死ぬまで細々と続けたい思いです。