死は社会奉仕。

私は幼少期から『いわれなき不安』に襲われ死の淵を覗き込むような死への願望がずーっとありました。

その原因が父を伺うような不安げな母の姿に有ったと理解できたのは、成人して父の行為や行動を理解したく心理学の本を読み漁り父が分裂病だったのだと理解できた時で、それからは父を可哀想な人だと思っていました。

父のパワハラや暴力が私に向かうことより、母の不安な様子が私を不安にさせていた部分があったからで、そのいわれなき不安は父の帰宅前の黄昏時に特に強く感じ何故か涙が止まらくなったことを想い出し腑に落ちました。

そのような不安が消えなくなったのに気が付いたのは、妻と結婚して数年後でしたが、それは妻が感情の起伏が少なく穏やかな性格で私が精神的に不安定な時でも、何も言わず腫物にさわるように黙って見守っていてくれたからと気がついたのは結婚十年後くらいだったと思います。

特に娘ができてからは成人させ責任を果たすまでは元気でいなければ思うようになり、仕事にも生活にも張りが出て充実感の毎日で幸せを意識できる生活を過ごしましたが、それでもいつも何処かで自分の『死』を意識して生きてきました。 

それは死を意識することが後悔のないように生きようと考え良く生きることに繋がっていると思っていたからですが、もし妻がこのような性格の人でなかったなら、『いわれなき不安』を引きずり私の精神はきっと病んでいたと思います。 

それほど死に興味があるので死に関する本や番組を見つけると読み見てきましたが、そもそも寿命がどのように決定されているのか? など最新科学の知見を知ると、生きている意味や意義にも繋がり日常の生活習慣を律することにも繋がっていました。 

不老不死は人間の究極の願いのようですが、私は『死は社会奉仕』として必要と思っていて、社会や親族に貢献ができない身体になったら社会補償費削減と次世代のためにも死を望んでいるので安楽死の法制化を願っています。

アップルCEOだったスティーブジョブスは癌で余命一年と宣告された時の講演で『死は生命最大の発明』と述べていましたが、その真意は『古き者を消し去り、新しき者に道をゆずるために死は必要不可』と述べ生命あるものの最大の発明と言っていたのです。

事件や事故で死ぬことは別として、人の寿命を決定しているものは染色体末端部にキャップの蓋のように存在しているテロメアが関係していることが判っていて、このテロメアの長さが短くなるほど細胞分裂が鈍化して老化が進みやがて死が訪れます。 

人間は細胞分裂を繰り返し古い細胞を新しい細胞に置き換えて命を維持しているのですが、この細胞分裂を正常にコントロールしているのがテロメアで、加齢と共にまるで回数券のように減少して行きますが、テルロアが短くなるほど細胞分裂が不活発になり老化が進行するそうです。 

このテロメアの長さに関係している物質がテロメアーゼ酵素というものですが、同じ年齢でも若く見える人や長寿の人達はテロメアが同年代の人達より長く、個人差があるのは遺伝的なものと生活習慣が関与していて、何事にも悲観的に考える人のテロメアが短いのはストレスが大きく関与しており、ストレスがテロメアーゼ酵素の分泌量を減少させテロメアの修復が阻害されているからと考えられているそうです。 

しかし人間の細胞の中でテロメアが短くならずに細胞分裂が活発な不死細胞の場所が一箇所だけあり、それが生殖細胞である男の精巣と女性の卵巣細胞だそうです。 

なぜ生殖細胞だけが不死細胞なのか? は生物は子孫を残すということを最大の目的としているからで、鮭が産卵を終えると死を迎えるように、人間に近いサルやチンパンジーやゴリラも死を迎える直前まで子供を作っても、生殖を終えるとテロメアの回数券切れを起こしてすぐに死を迎えます。 

しかし人間は五十歳頃までには生理が止まるのですがテロメアは残っており、人間だけは子孫を残し終わった以後三十年以上生きる人が沢山おります。 

この不思議が解明されておらず、仮説として最も有力なのが子供や孫の世話を手伝い子孫の繁栄に協力するためではないか? とのことです。 

生き残り数が少ない動物が沢山の卵を産むようにできていますが、人間は一人を生み長い依存期間が必要ですのでこの仮説に私は大賛成で、高齢者の役割としても意味を見出せると思っています。 

科学技術が進み人工的にテロメアを長くできるようになっているそうですが、この処置をすると何故か? 細胞が癌化するようになり、癌細胞は不死細胞なのでテロメアを長くすると癌によって死亡してしまうそうです。 

また臨死体験をした人達の調査では、約半数の人達が恐れなどより幸福感を味わったそうで、きっと脳の快楽物質であるエンドルフィンが死の直前に噴出されるのではないか? と調査した学者さんが述べており、エンドルフィンは脳内麻薬とも呼ばれモルヒネの6.5倍の効用があるそうで死は恐くないと思っている私には朗報でした。 

生物の宿命である死の解明には多くの謎が残されていますが、子孫の繁栄を願うのが生きている目的であり、子育てが大変な時代の現代に高齢者がなるべく負担をかけずに若者の手助けを余生の役割として過ごすことにも私は賛成です。 

そして『死は社会奉仕』であるためにも子孫になるべく迷惑や負担をかけずに死を迎える方策についてもこれからの科学技術が役に立って欲しいとも願っています。 

相田みつを氏の『飯を食って息をついていたら、いつの間にか日が暮れて、気が付いたら墓場の中』という言葉があるのですが、こんな死に方を迎えた人を三人知っています。 

どなたも自分自身に厳しく他者には優しかった人達で、私はこのように生きるとお腹が満たされた幸福感の中で安寧な死を迎えられるのか? と感じ、もしかしたら『神様』は存在するのではないか? と信心のない私でも思いました。 

現代医学の死の定義は①自発呼吸の停止 ②心拍の停止 ③瞳孔が開く の三条件が揃ったときですが、イランでこの後に息を吹き返した例もあり完全ではなく、この三条件は死の仮の定義とのことです。 

その他に医学的な定義で『脳死』がありますが、これは意識の有無を生死の線引きにしたもので、新鮮な臓器移植のために創ったご都合主義の新定義です。 

一般に死を宣告された人達は次の順序を経てホスピスで過ごすそうで、否認したくなり孤立・なぜ自分がと根拠を求め怒り・何かしらの方策で回避を試み・絶望し抑鬱状態になり・最後に受容に到達するそうです。 

死をスティーブジョブスのように考えられるのは、創業者なのにアップルを追放された地獄を味わい、今度はアップルの危機に呼び戻され奇跡の再生を主導した経験の中で天国も地獄も見てきたからだと思います。 

生きている間に創業時の夢の中で人との協力や温もりを充分に味わいながらも、夢を実現すると利害関係のもつれで多勢に無勢で追放されて、人間の良い部分も邪悪な部分も味わい尽くした中で、死に直面した人と同じような孤立・怒り・回避・抑鬱・受容の経験を強いられました。

 こんな経験があって死を達観した境地で捉え、受け入れられ

 たのではないか? と私は想像しています。 

 死は意味もなく訪れるから、日々生きることの中にこそ意

 味があると思いますが、そこには温もりだけでなく孤立・怒

 り・回避・抑鬱・受容も人生の中にあるのは当然のことで、

 そのような経験の中で味わう葛藤の多寡が人間としての成熟

 と相関しているような気がしています。 

 名前は忘れましたがフランスの哲学者が死を『三人称の死―

 知らない人の死、二人称の死―身近な人の死、一人称の死

 ―自分の死』と表現していたのを読んだとき、普段何気なく

 触れている人の死の人称表現に改めて気付かされたことを思

 い出します。 

 人は知らない人の死を『そうなんだ』位にしか思っていない

 のに、身近な人の死である伴侶や子供などの死には打ちの

  れるほどの苦悩を味わいます。 

 しかしスティーブジョブスは自分の死が最大の発明だと思え

 るほど受容できたのは、生きることの方が死より辛く厳しい

 ことだと悟り、最後に死によって解放されると思ったから

 ではないか? とも私は想像しています。 

 学術的にはあらゆる面で次世代の方が優勢的に遺伝してい

 から文明が進化しており、年長者が唯一勝るものがあると

 すれば長い人生経験による生きる上での知恵くらいですので

 子供や孫が直面する新しい事態への不安を軽減する助言

 円滑な人間関係を創り上げ維持するための智恵をさりげな

 く授けることだと思っています。 

 やがて訪れる私の死は孫達にとっては二人称の死ですので、

 私の死に立ち会って『一生懸命生きた優しい人』と思って

  らえるように余生を生き、その後の孫達の人生の生きる力

 なればと願いながら頑張ろうと思っています。

 そのためにも病後のリハビリや仕事に打ち込んでいる姿を記

 に残せるように努力し、孫達の人生における苦難の障壁を

 乗り越える努力の時に想い出して欲しいと願っています。

 生きることは苦難の連続ですが、欲望の制御と自分自身の

 分をわきまえた正しい選択の知性を身に付け、健康でささ

 やかな幸せを大切に過ごして欲しいと思っております。

 私はもう生殖と養育の義務も果し妻も見送ったので、余生は  

 『生は社会奉仕』として子孫の繁栄と社会的役割に少しで

 貢献し、やがて迎える死を幸福感に満たされて生命最大の

 発明の『死は社会奉仕』にも貢献したい思いです。

 今はひとり身の生活ですが妻と長く過ごしたこの家にいる

 と、朝『おはよう』から夜『おやすみ』まで毎日妻と会話

 しながら過ごしており、優しいお客様に恵まれ娘達にも良

 くして頂いているのでのような不安に襲われず過ごしてい

 ますので、できればこ家で妻の迎えを受けて死にたいと願

 っています。