子育ては子供目線で。

人間の子供は長い依存期間を必要として生まれ、子供目線で見ると誕生から五感で感じるもの全てが初めてのもので恐らく驚きと恐怖の連続です。 

しかし母親の匂いは誕生前にインプットされているので、母乳への反応は自然ですが見るもの聞くもの感じるものは全て五感と連動して脳が安全と認識できるまで不安で緊張していると私は思います。

その不安と緊張を少なくしてあげると情緒が安定した人間として成長できますが、勿論遺伝による先天的な恐怖への反応の強弱もあります。 

脳の好き嫌いや恐怖を感じる偏桃体と呼ばれる場所で恐怖を感じると、防御への戦闘態勢を整えるために興奮物質のアドレナリンを噴出しますので心拍数と血圧が上昇しますが、安全だと認識するとすぐそばの線条体からドーパミンという興奮を沈静させ快楽を感じさせる物質を噴出します。 

恐怖を味わう遊具のジェットコースターが好きな人は恐怖への反応を感じても『この遊具は安全だ』と思える人なので線条体からドーパミンが多量に出てアドレナリンの興奮を沈静させ、その多量のドーパミンが快楽を促進するので楽しいのです。 

一方嫌いな人は安全とは思えない『もしもの事があるのでは』という疑念が強いので、アドレナリンが止まらずドーパミンも出ないので私も大嫌いなのですが、これが遺伝的な要素で決められています。 

子供がどちらの要素を持っているのか? は新しい物や人への反応を観察すると判ります。

子供が同じ絵本を何回でも読んで欲しがることも意味があり、結末が判っている本の方が安心でき情緒が安定するからで、大人でも転勤などで周りの人や状況の変化に対応する時には緊張でストレスがかかるのと同じです。 

寝る前に大好きなお母さんに結末の知っている本を読んでもらうと、心身ともにリラックスして深い眠りに誘われるのです。 

同じ本をと思うのは子供目線になっていないからですが、昔話や絵本やグリム童話などに鬼や狼などの恐いものが出てくるのは、子供に恐怖心というものを知らせる大切さがあるからと私は思っています。 

ナマハゲの慣習や節分の鬼などで子供に恐い思いをさせて、恐怖心を植えつけることが警戒心を養い安全への配慮と育成効果などがあるからで、恐怖心のない子供ほど危険な子供はいないと思います。

サルの脳の好き嫌いや恐怖を感じる偏桃体を取り除いた実験を見ましたが、そのサルの檻の中に蛇を投げ入れると無造作に近づき蛇に噛まれますが、正常なサルは素早く逃げて檻の柵に飛び上がり危険を回避します。

商いでも好調なときに『こんなことは続かないのでは?』と悲観的な恐怖心を持つ人は不調に備えて蓄えますが、恐れを持たずに調子に乗って失敗する人の方が多いと思います。

子供時代に臆病な子供が成長してから大胆な人になっているなどは、最悪を想定して最善の策を緻密に組み立て大胆に見えるようなことをしており、最悪を想定するのは大胆な行為への恐怖心を持っているからです。 

偏桃体を取ったサルのように恐怖心が少ない子供は危険な存在で、成長するにつれ新しい環境に順応する時点で怪我や火傷を負ってから思い知るので、大人になると意外と臆病で従順な人になっているのを多く見て来ました。

幼児期に恐がったらただ抱きしめ癒してあげることで、決して『頑張れ』などと言っては駄目で、恐怖を味わい親からの癒しを授かる繰り返しで学び成長した子供は柳の木のような折れづらいしなやかな強さを身に付けて行きます。 

状況認識が進むとやがて恐怖を自ら克服し立ち上がって『やってみる』と言った時が真の勇気に繋がっており、その時に初めて軽い言葉で『頑張れ』と言ってあげるのです。 

軽い気持ちで言うのは、例え失敗しても親の期待が強くないと思わせるためで、何事も親の期待に応えるためでは結果にこだわりますが自分自身のためなら例え失敗しても原因への内省が行われ試行錯誤は自分の判断で行うからです。 

幼児期のことは何事も遅くても二年もあればできるようになることがほとんどで、その期間を『よそ子と比較して頑張らなくてもいいよ』と親が言ってあげ待つことが、しなやかな強さの子供を育てます。 

時折私は『あなたは恐い人とか、意志の強い人』などと言われますが、私のように後天的に身に付けた見た目が強そうなものは、実は閾値を越えると非常に脆く折れやすい虚勢を張ったもので、昔は妻に今は娘や婿殿に支えられ孫達に癒され、そしてお客様に必要とされる仕事に恵まれて何とか折れずに来たと思っております。

大人はピアノの鍵盤を叩けば音が出ると知っていますが、子供が初めて見た時は驚きながらそうゆうものなのかと認識する繰り返しで世界を広げ成長して行きます。

三歳位までは両親以外の人を警戒しますが、やがて初対面の人でも親の様子を観察して、親が親しそうにしている人と警戒している人を読み取り判断し行動し始めます。 

この頃から子供は『親の欲望を取り込んで』期待に応えようとするのは『親に認めて欲しい』からですが、この行為を子供は無意識に行っていますが心の成長にとっては非常に危険なことです。 

早く自転車に乗れた・幼児で掛け算ができる・早くお使いに行けるなど、とかく親はよその子供より優れていることを望みますが子供の心の成長にとっては危険なことで、本人が望みやりたいと言うまで待つことは親の成熟度と関連しており、待つという我慢ができない親が非常に多いのです。 

学校へ行く頃になると家庭の文化などが微妙に作用し常識として認識する数を増やし成長するのですが、小学校高学年頃から家庭によって違う常識が多数存在することや豊かさの違いなどにも気が付き始め、不足や欠けているものに気が付いた子供は苦悩し煩悶しながら出口を求めもがき苛立ち始めるのが思春期です。 

この思春期の様子が幼児期の対応と呼応していて、親の欲望を取り込まされた子供は自分の方向を見失い、苛立ち家庭内暴力や引き篭もりなどで病んで行きますが、不良になるなどは親への反発現象なので精神的には生きる力を持った健全な方だと私は思っています。 

不良は親への復讐をしたいのですが、生きて行く術をまだ持っていない身なので社会の不特定多数への復讐行為で消化しているのです。 

子供の頃から選択と決断を委ねられた子供は、思春期の悩みも苦しみも自らの選択と決断の結果と思い知っており、決して親の意見を押し付けられない経験知があるので、困ったときは安心して親に相談し選択幅を広げ決断して行きます。 

それでも思春期が暴走しがちなのは、脳科学的に判明しており本能の脳と理性を司る前頭葉の間にある緩衝の脳が未発達なために起こるためだそうです。 

子供は成長過程で、嫌々期から反抗期などを繰り返しながら成長するのですが、幼児期から子供が戸惑っているとき抱いて癒しをあげていると反抗期も軽いのですが、もし反抗期に問題を起こしたら逆にチャンスで怒りを抑え黙って子供のために親が社会への責任をとる背中を見せると、どんな子供も自ら内省し逞しく大人への階段を登り始めます。 

幼児期は新しいものが認知できるまで恐怖でしたが、思春期は逆に新しいものへの好奇心に溢れていますので、子供の背伸びをハラハラしても黙って見守り子供を信じて待ち続ける忍耐の連続が親としての大仕事になります。 

この思春期に親ができなかったことを子供に期待し押し付けて『お前のため』という真綿で首を絞めるようなことを言っている親が多くいますが、これが実は子供達の逃げ場を失わせ精神的に追い詰めることに繋がっています。 

子供が本当は親である『お前のため』だったと気づくのはずーっと後で、その時に気づけないのが引き篭もりや家庭内暴力の子供達です。 

『トンビが鷹を産んだ』という言葉がありますが、我が家では私がずる賢いカラスで妻は血統書など持たない野生の土鳩だから娘には変な期待をせず、健康で楽しいと思える生活を送って欲しいと思うだけでしたので、娘が楽しそうにしている姿を見ている時が一番幸せでした。 

そして学校で認められたり何か優れた部分が見られたりしたら、それは『あなたの努力と才能』の手柄で、何か苦手な悪い所などは親の遺伝子ですと謝罪しました。 

虐待をしている人の決まり文句が『躾だった』ですが、躾とはについたしさと書くように親自身が自分の背中で教えるもので、体罰などはその行為を行う者の弱さの証です。 

昔はなかった引き篭もりや家庭内暴力の子供を生んだのは、誰もが何者になれるという自由がもたらしたことも一因にあります。 

昔は町人の子は町人で武士の子は武士と決まっていて、家督相続は長男で次男や三男は婿養子先が決まらなければ一生日の当たらない実家の片隅で暮すのが常識でした。 

しかし維新後に自由・平等の思想が広まり、戦後の復興は当時大学出などが少なかったインテリが先頭に立って高度成長を迎えました。 

そして一億総中流の時代になり誰もが大学進学を目指したのは一流企業の幹部が一流大学出だったからで、親達はこぞって子供に期待して建前は『お前のため』と、自分達の遺伝子を棚に上げて愛より鞭を振るったから引き篭もりや家庭内暴力が生まれ多発したのです。 

これは何者にもなれるという自由がもたらした災難で、哲学者フロムは『自由からの逃走』という本で何者にもなれるようになって、何になったらいいのだろう? と悩み苦しみ実は自由から逃げているのが現代人と述べています。 

そして戦後活躍したインテリの正直な人は、私達などよりずーっと優秀な人達が戦争でたくさん亡くなっており『私などは劣等生です』と告白しておりました。 

娘が東京の大学に旅立つ前日の夕刻店に降りてきて私に、友人の親のように勉強しろ何しろと言わず何事も自分で選択し決断するように育てられたけど『自由ほど不自由なことはなかった』親の指図があった方が楽だったと思う、私なりに大変だった十八年のこれだけは言っておきたかったそうです。 

この娘の心理も実は自由からの逃走で、その責任を親のせいにできるからです。

勉強や仕事などは結果だけでなく『判らない事が判る・出来ない事ができる』ようになることが喜びで、それが自分のためになるだけでなく誰かのために役に立った時に言い知れぬ喜びで快楽物質ドーパミンが噴出し充実感を味わいます。

子供が勉強や部屋の掃除や歯磨きなど、役割としてすべきと判っていることに躊躇している時には『頑張れ』より『やりたくないなら止めたら、嫌なことは最初の一歩が踏み出せないんだよね』と共感してあげると、答えは子供が判っているので踏み出し易くなりますし、『やれ』と言われてやることは不愉快で身に付かないと私は思っています。 

島国の日本が植民地を逃れたのも、戦後の復興と高度成長も書くと長くなるので省略しますが数え切れないほどの幸運が重なって現在の先進国になっています。

その幸運の代償が自由になったことによる不自由さと、欲望の肥大による格差社会で孤立している人の増加です。

社会の最小単位の家族関係が癒しの場として揺らいでいるのは豊かさと欲望肥大の代償だと思います。 

子供を精神的に病むような育て方をしないで欲しい思いで『子育ては子供目線で』を訴え執拗に書いているのは病気で地獄を見てきた者の老婆心で、家族が精神的・肉体的に健康であることが最優先で、勉強やスポーツに秀でて安定した収入に繋げることなどを優先して育てるともっと大事な心や身体の健康を失ってしまうと私は危惧するからです。 

そして失ったものは『覆水盆に返らず』で、後で後悔しても取り戻せず結局親も子供も長く苦しむことに繋がってしまうと思っているからです。

 娘の中学時代は合唱部・高校は演劇部の目論見がはずれノンポリ・大学の四年間はアカペラ・就職後はサルサと好きな歌や踊りを全力で楽しんできましたが、私と妻はその映像や様子を見て生き生きと楽しそうにしている娘の姿を見ていると本当に幸せな気持ちになったことを想い出します。 

子供にとって一番の願いは両親が仲の良いことで、1997年アカデミー賞のイタリア映画『ライフ・イズ・ビューティフル』は、ユダヤ人の夫が妻を愛し極限の収容所でも子供の恐怖を和らげる為に子供目線のゲーム感覚を装い癒し続け、そのための自己犠牲をコメディタッチで明るく描いた感動的な映画ですが、映画の始まりが子供時代の回想で始まっているのは、幼児期の良い記憶こそが大人になったときの生きる原動力になっているからです。

『長所と欠点は裏表』と言いますが、欠点に目をつむり良い所だけを認め長所を伸ばしてあげると、やがて成長と共に欠点は自ら判っているので自ら修正して行きます。

将棋の駒の歩は無事に相手陣地に辿り着くとト金になるのですが、幼少期の弱い時期(歩)に傷つき癒され無事に乗り切り成長すると、万能に動けるしなやかな強さを身に付けた人(金)になるに似ており、癒し見守り待つと金になる時が訪れます。

強さとは鋼のような肉体や精神ではなく、窮地の時に折れない心を持ち続けることで、そのしなやかさを育むものが穏やかに優しく見守り続ける両親の愛情だと思います。

子育て中の方には哲学者アドラーの児童心理学も判り易く子育ての注意点を解説していますので参考にして下さい。