0.35秒前の決断。

従来の考え方による人間の意思決定は、脳が歩く指令を出し、次に自分の意志で足を踏み出そうとするから足が動くと考えられていましたが、最新の脳科学による人間の意思決定のメカニズムの実験結果では、脳が歩く指令を発する0.35秒前に指令信号が発生していたことが判り脳科学者の間で大論争になりました。 

では0.35秒前に出た指令信号は果たして何処から出たのか? が問題になり、それは心や精神という存在なのか? 科学的には認めがたい『禅』のような精神論的なものが本当に存在するのか? 非常に面白い結果でした。 

妻が良く言っていた変なことに好奇心が強い私はこのような実験の番組を捜して見たり本で読んだりしていましたが、これに似た実験はかなり前にNHK・BSの深夜番組で見ており、その時はフロイトが言っていた『意識の世界を支配しているのは無意識の世界である』を想起しました。 

この実験はカリフォルニア大学のリベット博士が行ったものですが、大阪大学の北澤茂教授の本に書いていたのは他の実験でも同様の結果が出ているそうで、教授は『意思決定は意識に上がる前に無意識で決定されてから、意識領域に上がる』と考えるのが自然と述べていました。 

つまり決断が無意識で行われ、意識はその後の自分の置かれた状況を判断しどのように行動するか? を思考するチェック機能として働いていると考えると0.35秒前の説明がつくと述べていました。 

人間が意識する前に脳が決断に向けて活動していて、人間の『自分の意志で行動している』と思っていることは幻想である可能性が高いという結論でした。 

私は不特定多数の人達が来店する仕事をしていて、この結果に納得させられる出来事を沢山経験して参りました。 

ひとつの例ですが年末にあるサークルを主催している先生が、沢山の生徒さんからの注文をまとめてくれ遠路取りにきてくれた時でした。 

手提げ袋四個にいっぱいになる量で金額は七万でお釣りを渡してから、話し込んでいて『高野さん、もう行くは』と言ったので、お互いに二袋ずつ手に持ち車に向かい自動ドアーが開いた時に来店した客がありました。 

私は心の中で『やばい』と思いながらも、その方の車に積み込み『くれぐれも気をつけて』と見送り急ぎ店内に戻りましたが、実は七万円は開けっ放しのレジ上に置きっぱなしだったのです。 

とりあえずお待たせしたことを謝罪し一万円札を確かめると六枚しかないのですが何も言わず注文を聞き渡すと、お茶を一本だけ買いすぐに帰りました。 

私が『やばい』と思ったのは、この客は固定客ではなく二~三度来店していたのですが、一本のお茶を買うのに何かと難癖をつけるので『お茶はよそでも売っているので気に入らなければ私共でなくて他でご購入を』と勧めておりましたが、要するに低姿勢にかまって欲しく威張りたいのです。 

そんな客は沢山おりますが、この時この客は気持ち悪いほどおとなしく『これちょうだい』と言い渡すと、逃げるように帰り二度と来店しませんでした。 

私が何も言わなかったのは、置きっぱなしにして出来心を起こさせた私の落ち度と、お金には印がなく全部なくなっていれば問い詰められますが、一枚だけだと数え間違いでしょうと言われれば、押し問答で終わりだからです。 

私は一万円で学習したと諦めましたが、この人の立場になって考えると、取ることは悪いことだと判っていても手が出る咄嗟の決断が0.35秒前の無意識領域で行われ、全て取ったらばれるという状況判断が意識領域で行われていたのです。 

私共はほぼ固定客の方達で、お釣りは四十二年間新券で渡しておりましたが、よもやま話をしながらのやりとりで私が五千円なのに一万円と勘違いしお釣りを多く渡したり、新券なので千円札が一枚多かったりして返金に来店した人が大勢おります。 

この違いこそが0.35秒前の決断をしている無意識領域の中身にあるのですが、では無意識領域の一体何が違うのか? が問題になります。 

人間の無意識領域には生まれてから今まで全ての人生経験が詰まっていて、それが慈愛や優しさに多く触れ育った人もいれば、虐待や体罰やネグレクトを受けて育ち嫌なものが無意識領域にたくさん詰まっている人もいるのです。 

この違いが咄嗟の時の0.35秒前の無意識領域の決断を促してしまう悲しさがあるのでは? と私は思っています。 

人間性とか人格という言葉で表されるものは、この0.35秒前の無意識領域の力が働いて行われ瞬時の言葉や行動を決めているのだと思います。 

誰でも多くの人間関係の中で生きていると、人によって『どうしてあんなことをする(言う)のか?』と感じる人がおりますが、これこそが無意識領域の0.35秒前の決断の作用によるものと思われ、意識領域のブレーキが働かない人達なのです。 

また脳における忍耐力とその相互・相関関係についての実験番組もNHK・BSで見た内容が面白く、確か五~六歳児位だったと思いますがその子の好物を目の前に置き三分か? 五分位我慢できたら倍の量を与えると告げ、その場を離れる実験でした。 

その実験結果を基にその五年後・十年後・十五年後と追跡調査をした結果、我慢できて倍の量を獲得した子供達は学業成績が良く、社会人として働いてからも社会的な地位が高く知的労働の仕事についている人達だったそうです。 

好物を食べたいという欲求に対し、決断が早い子は情動が優位に働き食べてしまうせっかちな性格であり、決断の遅い子はその間に我慢すれば倍の量がもらえるという利害を計算する思考回路が働くので我慢強くなることができたのではないか? と述べていました。 

この番組は忍耐力があった子供達の養育環境については調査していないのが少し残念でしたが、その後だけでなくその前についても調査すると面白いな! と思っても、プライバシーの領域に踏み込み過ぎて反感を受け問題になるからだと思います。 

ダーウィンの進化論では、動物の行動は生まれながらに得た遺伝的なものと言っていましたが、脳科学の進歩が人間の場合は遺伝と養育環境とその人の人生における一期一会などの相関関係についても解明して欲しいのが私の気持ちです。 

私は人間の場合は遺伝子と環境と意志(忍耐力)の相関関係による複合的なものだと思っていますが、たとえせっかちな性格の人でも良い方向に導き悪弊を変えることができると私は思っていて、その大きな要素になるものは『自分を認めてくれる人との出逢い』なのでは? と思っています。 

私が若い頃は無意識領域の洗浄をしてくれるような大人達が多くいて、まず良い所を褒めてくれ『お前のここを直すともっと良くなる』と悪い所を自覚させ、優しく導き見守り励ましてくれる大人達との出逢いが私には沢山ありました。 

格差が進んだ現代の大人達にはそんな心の余裕がなく、若者達を利用し搾取するだけでなく訓練や指導という名目で実は弱者をイジメて優越感を味わうという心の貧しい大人が増えているような気がしています。 

最近の若い自衛官の自殺率は一般社会の二倍で防衛省では対策に苦慮しておりますが、消防や警察などの縦社会でも多く、最近では先輩教師による若い先生へのイジメなどが教育者の学校内で繰り返し行われているほど大人社会が病んでいます。 

人間の脳は肉食を始めてから肥大し始め、道具を使い動物としての頂点に達し文明や文化を創造してきたのですが、脳科学の進歩と共に人格や人間性の良し悪しなどの謎も解明され、知的な人だけど人間性が悪い人、知的な人ではないが人間性の良い人なども判ると面白いなと思うのですが、そんな様々な好奇心が次々と湧いて来る私に『お子ちゃまだから』と妻が笑いながら容認してくれていたことを想い出します。 

教養なども知識量が多いことではなく、『0.35秒前の決断後に、意識の脳が何を選択しどのような行為に及ぶか? 自分の選択と行為を倫理的な基準に照らし判断する能力』を持つことが教養と呼べるもので、この倫理的な基準がない人達のことを『反知性主義』と言います。 

この反知性主義の人達は学問で得た知識を己の利益優先に悪用しておりますが、これは実利優先教育の弊害で最近は経営者や指導者層にサイコパスというエゴが極度に肥大した精神病の人達が多いことも判ってきています。 

自分の決断がどのような広がりで他者に影響を及ぼすのか? その影響の広がりがどのような帰結をもたらすのか? を推し量ることは洞察力と呼ばれるものですが、そんなことを微塵も考えない反知性主義のサイコパスは自分の思い通りにならないと苛立ち手を煩わしやがってと考えているそうです。 

自己を振り返り見つめ直し葛藤を繰り返して身に付けた知性こそが教養と呼ぶに相応しいものだと思うのですが、サイコパスには葛藤などなく己の自我こそが最優先の人間なのです。 

こんな人間の方が成功者になる世の中になったのは効率優先主義と、拝金主義の蔓延が原因で『お金を持っている人をあがめる』近年の風潮が根幹にあるのでは? と私は思っています。 

最小の努力で最大の成果を上げるという効率優先の社会教育の結果でもあり、常に効率を求めて0.35秒前の無意識領域で倫理を無視した決断が行われている精神病です。

コロナ禍で格差が拡大していますが、本当に学ぶべきことは競争から共生の世界への変化を促すことで、それは自分がコロナ感染を恐れるだけでなく、他者への感染配慮や医療従事者への負担など他者への思いやりを持つことです。 

急性期の病院で寝たきりの時に下の階でコロナ患者が出て、ひとり身の優秀な看護師さんが二ヵ月ほど行き、私が転院する少し前に戻ってきた時に『精神が病んで行くのがわかった』と話していましたが、優秀な人だったので乗り越え帰ってきました。 

誰もが様々な場面で行う無意識領域の決断が邪悪だったら、状況判断をする意識領域でブレーキを踏む訓練を続け、お金という収入や利害だけでなく倫理的な基準に照らし合わせて選択し、他者との共生の中で得られる心の豊かさに繋げるように心掛け続ければ、やがて0.35秒前の無意識領域の邪悪な決断も少しずつ洗浄され綺麗になってくる‼ と私自身の経験を振り返って思っており、そんな大人の増加を願っております。

ここでブログを終えるつもりでしたが、日曜日に保育園年長のお姉ちゃんが一人で私の夕食のおかずを届けに来てくれました。

多分距離的には500メートル位ですが初めてのお使いです。

聞くと、お父さんに一人で『マー君爺に届けに行くか?』と問われ『行く』と言って来たそうですが、着いた時に少し息が荒かったのは初めての不安から走って来たのでしょう。

この決断も親と一緒に行き来した経験が無意識領域にあるので、一人は初めてでも六歳までの沢山の経験0.35秒前の決断に繋がっています。

テレビで時々見る子供を泣かせてまで行かせることに私が違和感を覚えるのは、子供達は成長の中で絶えず同級生との相対評価を意識し葛藤し無理をし努力しながら成長しているのです。

子供が成長過程で傷ついた時、羽を休め傷を癒してくれる場所が親の所と確信できる子供は逞しく生きて行きますので、無理強いは癒される場所を奪いよくないと思っています。

自殺した若い自衛官達の親は寝耳に水と言っていますが、普段から『頑張れ』と言われ育つと弱音を吐きに行けないのです。

幼児期から『ここにはあなたへの愛がある』を実感して育った子供は困った時や弱音を吐きたい時、迷わず両親を思い浮かべ会いに来ますし、そのように見守ってきた両親なら必ず困窮を読み取り『辛い時は頑張らないで』と傷を癒すと思います。

幼児期から両親に十分依存できた子供は時期が来ると見事に旅立って行くのですが、パラサイトや引き籠りの子供達は『まだ親らしい愛をもらっていない』という不足感が旅立ちをためらわせるのは、新しい場所で傷ついた時に癒してくれる場所が親の所と確信できない不安があるからです。

そして幼児期から選択権を与えられ決断する訓練をすれば、結果についての自己判定は必ず行うので良い学びになります。

人間の『やらされたこと』と『やったこと』の学びには天と地ほどの差があり、自分の意志で『やったこと』は確実に身に付き、そんな繰り返しが0.35秒前の決断で二度と来店できないような間違いを犯さないことにも繋がっています。

やがてお姉ちゃんも廻りを見渡せるような視野でお使いができるようになりますが、一見臆病に思えるほど新しいことに慎重なお姉ちゃんの性格を考え、急がずに子供の成長を待ち続けた適切なお父さんの判断だったと思い到ります。

という字の立木の横で守っているお父さんの適切な状況判断にこれからも孫達が背中を押され、少しずつですが大人への階段を登り、やがて自分自身で適切な選択と決断ができるように成長して行って欲しいとひたすら願っております。