非常事態の対処法。

長期入院後の新生活は期待と不安の中でのスタートでしたが、新しい日常生活はアレ?の連続で、これもできないのか? ということを素直に受け入れることの連続です。

全ては現状を受け入れて立ち向かうことが肝要で、その状態を悲観的に捉えずに新しい習慣にして乗り越えて行く以外には解決策はないと覚悟を決めました。 

出来ない課題をひとつずつ乗り越えた時に自信がつき、この方法が正しかったと思える確信に変わると思っております。 

私の退院日は十一月十三日の金曜日で、冬に向かってコロナ感染患者が激増している時でしたが、日にちも身体も環境も最悪からのスタートですが、最悪な状態や環境も受け入れて最善の方策を選択するという思考方法を見つけなければ解決策は他者への依存だけになります。 

しかし私に決して恐怖感がないわけではなく、コロナウイルス感染への恐怖感に溺れると冷静な判断ができなくなると思っているので、どうすれば感染リスクを減らせるか? という客観的判断を伴った怖れを持つという冷静な恐怖心を持つことが求められると思っています。 

動物が持つ恐怖心は自分自身の生命維持装置みたいなもので、餌や食料にする対象はいつも自分より弱者を選択しており、自分より強者には怖れを覚え逃げるか? 隠れるか? を本能的に選択するようプログラムされているのだと思います。 

コロナウイルス感染リスクを無視してマスクをしないなどは、自分の廻りに感染者がいないから日常と何も変わっていないと自己判断し、まるで感染を恐れない勇気と勘違いしているのです。 自分の廻りは正常な時と何も変化がないことを判断基準にして非常時を過ごす人は、全ての面において生き残る確率が下がってお、仕事や家庭や友人・知人などの関係においてもリスクが必ず増しています。 

一流の冒険家やアスリートなども恐怖心の強い人が多く、一流の冒険家は最悪の状況を想定して最善の策を講じて行動に移し、一流のアスリートは怪我を恐れて身体へのメンテナンスとトレーニングに日々励むのも恐怖心から出ています。 

こんな例をあげてまで言いたいことはコロナ渦という非常時に、正常時と同じ感覚で生活している人は生き残る確率が確実に下がる愚か者で、プログラミングされた生存本能が正常に機能していない人なのだと言いたいのです。 

真の勇気を持っている人は自分の経験と身の回りの人達だけ判断せずに、過去も含めた他者の経験や行動から自分自身の進むべき方向を見つけ出すという複眼的な視点で判断しており、その上で過剰に反応しないので日常には余裕が垣間見えます。 

最近の傾向として過剰に反応する人と、鈍感なことを勇気と勘違いしている人の二極化が進んでいるようで、過剰反応は他者に惑わされて自己を見失っており、鈍感を勇気と勘違いしている人は独善的な自分に気付かないという、複眼的な視点が欠けた成熟していない未熟な人だと私は思っています。 

私は一年近くも病院生活でテレビ報道だけでコロナ渦を見ていましたが、厚生病院にいた時は下の階でコロナウイルス感染者が出て、その時の対応を目の当たりにした時も自己保身への過剰反応を感じさせられました。 

私の喉元には人工呼吸器の穴が開いていましたが、コロナウイルス感染リスクがあるから塞ぐ手術はできないの一点張りで、そのリスクは私なのか? 手術する医者なのか? 最後まで答えてくれませんでした。 

転院の時もその穴にカニュウレという器具を付けたままで、二週間ごとにその器具を付け替えるのですが、風呂などでこの穴からばい菌が入ると肺炎になるリスクは私が背負うだけです。 

幸運にもリハビリの病院で就寝中にこの器具が外れ見つからないうちに肉が盛り上がり器具が挿入できなくなり自然に塞がったのですが、二日後見つかった時は挿入できないほどの自然再生力のお蔭で塞がりました。 

非常事態に翻弄され正常に機能できなくなる現象は組織的に動いている場所に起こりやすく、戦争などで沢山の犠牲者がでた時なども以後に検証すると正にこれです。 

非常時という危機に冷静になるのは難しいのですが、大切なのはこの危機に他者への視点があればマスクはするもので、自分の行動にも他者への視点があれば抑制が働くのではないか? と思います。 

コロナ関連のテレビ報道を見過ぎると、一人暮らしの高齢の方などは不安から鬱病になりやすいのでコロナ関連の番組を見過ぎないことです。 

コロナの過剰な情報に触れると洗脳され不安になるのは、サブリミナル効果という広告宣伝やプロパガンダの時に使う手法に繋がっているからで、人間を操る心理学手法でもありますので意識的にバランス感覚を持つことが肝要です。

高齢者は見ていなくてもテレビをつけており、現在のテレビは同じことの繰り返しですので正にサブリミナル効果に繋がり、コロナで外出を控えていると社会との繋がりも希薄になるので鬱から認知症へと進行してしまいます。 

私は朝の三十分ほどコロナ関連の情報を収集し、後は音楽とテレビは映画やホンノリできる番組を捜し平静さを保ち冷静さの維持に努めています。

コロナという渦に巻きまれないで冷静に判断する例として、天下分け目の関ヶ原の戦い前に徳川家康が取った行動が参考になると思います。

家康は本当の敵と味方を判断するために、権謀渦巻く大名が集まる大阪城を去り当時は田舎の江戸に去りました。

渦の中にいるとその渦に巻き込まれ冷静に判断できないので、渦から離れ本当の敵と味方の判断に最悪と最善を想定し何度もシュミレイションしたそうで、現在のクーリングオフ制度などはこれに当たると思います。

非常事態の時は正確な情報を集めてから、過剰な情報が渦巻く環境から離れ俯瞰して眺めてから冷静な判断を行うべきなのです。

私の現在の身体も非常時で、特に膝から下に痺れが残っており足首から先の足の感覚は熱い冷たいが判らないほど痺れが残っていますので格段の注意が必要です。 

この病気の特徴で、脳から遠い部分ほど神経が繋がるのに時間がかかる病気だそうで、果たしてどれ位で繋がるのか? は医師にも判断がつかないそうです。 

雪が降り始めたら転ばないか? という不安がありますが、怖れて動かなければ筋力も関節稼動域も改善されないので、考えられ予防策を取りながら前に進む他に道はないのです。 

先日も一番危険が伴うほうじ茶を炒って粉を取って詰める作業をしたのですが、作業療法士の先生とシュミレイションしたことが本当に役立ちました。 

しかし一度目は予想もしていなかった出来ないことが沢山あったので、お茶の量を半分にしてブレンドしたり、お茶を詰める機械の高い所に上がる時は踏み台を置き這うように慎重に上がったりなど、二時間で出来た仕事に四時間ほどかかりましたが非常時を受け入れ思案し工夫しながらやりました。 

非常時の状態に悲観的になっても何も解決しないので、今の自分の状態を受け入れて先生に教えられた朝晩の自主トレを四十分ほど続けて二度目の挑戦をしたら出来ることが増えており、努力は必ず報われることを実感しました。 

まだ正座をしても十センチほど空いており、胡坐は後ろにひっくり返りそうですが決めた音楽をかけて終わるまで痛みを辛抱して続けています。 

後半は上半身の筋肉も落ちているので、腕立て伏せと腹筋をしているのですが、継続していると確実に回数が多くできるようになっており、ほうじ茶作業の二度目に高い所へ上げられた成果として出来ることが少し増えました。 

人生において平常時は有難みを感じないことが、非常時になって不便を味わい不安を増幅させ落ち込みがちですが、状況を冷静に判断し受け入れ立ち上がらないと平常時の状態には戻れないのはコロナとの戦いも同じなのでは? と思っています。 

不安に怯え嘆き苦しんでいても何も解決には向わないので、ひとり一人が今出来ることを積み上げて行く以外にコロナ対策はないのです。 

自主トレリハビリ時に辛い時は、六歳になったお姉ちゃんをまた抱っこできるようにと思い描き鞭を打っていますが、朝のリハビリは嫌でベッドで三十分ほどウダウダしながらやっておりますが昨日は約二時間寝過ごし、目覚まし時計の電子音も覚えておらず娘に相談したら凄い音の時計を持ってきてくれました。

店を開けて仕事や接客で動くこともリハビリになっており、週に一度来てくれるリハビリの先生も間接の稼動域も良くなっていると言ってくれますが調子に乗らないように心掛けます。 

誰の身にも起こる人生の非常時を不運のままに終わらせるのか? 不運を乗り越え幸運に導くか? には二つの分かれ道のどちらを選択するのか? が決めています。 

悲運をただ嘆き楽な道を選ぶか? 不運を受け入れてやるべき当たり前の事をコツコツとことん頑張ってみるか? のどちらを選択するか? が別れ道です。

自分を信じ非常時に負けない気迫と努力を重ねていると、やがて幸運が必ず訪れますので辛い時ほど頑張るのです。

辛い時に頑張って成し遂げると、今までの自分が見えていなかった新しい世界が開けております。 

運は落ちてくるものでなく自らの努力で運ぶものだから『運』と書くのです。 

まだ体力的に戻っていないせいか? 夕方にはヘロヘロですが、

娘と婿殿が作った美味しい夕食のおかずを届けてくれますので、今は身体の非常事態と思い好意に甘えて自分の身体を回復させることが報いることと言い聞かせて、その時間を休養と睡眠時間とリハビリ自主トレに反映させています。

リハビリ病院にいた時に痛感したのは、食事と睡眠を充実させることも大切なリハビリになっているということでしたが、夕餉の用意と後片付け時間が格段に省かれるので、肉体的にも精神的にも本当に助けられています。

これからは雪の上で転ばないようにと先生にも娘達にも注意されていますが、要介護二の非常時の身体ということをいつも念頭に入れ毎日を過ごしたいと思っています。