退院しましたが、営業は20日頃からの予定です。死は眠りと一緒で怖くない。

令和二年一月二日に突然床に崩れ落ち、全身の神経が寸断されギラン・バレー症候群と診断され気が付いた時は人工呼吸器に繋がれており、意識だけはハッキリしていても手足と全身はピクリとも動かない状態で点滴だけの生活が六ヶ月半でした。 

 

ギラン・バレー症候群は、世界中のあらゆる地域で、赤ん坊からお年寄りまで誰でも罹りえる病気です 。日本での平均発症年齢は39歳です。 他の人に感染ることはなく、遺伝もしません。 重症になれば死に至る場合もありますが、軽い症状で済む場合もあります。 食あたりやインフルエンザなどの後、免疫システムに不具合が生じて、13週間後に、両手足に力が入らなくなり、急速に麻痺が全身に広がり、重症になると人工呼吸器が必要になったり、死に至ることもある自己免疫疾患です。 実際に罹る人は少なく(毎年10万人に12人の割合)、まだ良く知られていない難病なので、突然の麻痺に襲われた患者や、家族は、しばしば恐怖や不安に駆られ孤独にさいなまれます。  傷んだ神経や筋肉の回復には、何年もの努力を要し、後遺症がずっと残る場合があります。 一般に予後良好と言われていますが、生活に支障をきたすほどの後遺症が残る患者が2割近くあり、決して予後良好ではありません。

 

指が少し動きナースコールがやっと押せるようになるのに二ヶ月ほどかかり、それまでは寝返りは勿論で声もでない状態で、取り敢えず息をしている死人状態ですが、意識だけはハッキリしている地獄の苦しみなので人口呼吸器を抜いて死にたくても死ねない状態に毎日涙で枕を濡らしておりました。 

痰で苦しくても看護師さんが来て吸引してもらうまで三~四時間待ったことありましたが急性期の病院は忙しいのでただ待つのみでした。 

そんな苦しみの中での唯一の救いだったのは娘と婿殿がアイパッドに入れて届けてくれた、私の大好きなクラッシク・ジャズ・吉田拓郎と井上陽水の音楽でした。

厚生病院の看護師さん達とお医者さん達は私のために朝から就寝までオールリピートで流し続けてくれたご好意でしたが、看護詰所や近くの病室の人にも聞こえる音量を退院まで容認してくれたことが闘病生活の唯一の癒しになったことで今でも感謝の気持ちで一杯です。

私は元気な時から想像力でしたが死は眠りと一緒で一瞬のことで判らないから怖いものではないと思っていましたが、私の想像力は正しかったと実感した毎日でした。 

人間は眠った瞬間は判らないもので、眠りたいのに眠れないのが辛いように死もまた同様に死にたいのに死ねないことの方が死より辛いことを思い知らされたのでした。 

意識がなければ辛くはないのですが、意識だけはハッキリしているので看護師さんが少ない夜の孤立感は恐怖でした。 

赤子のように下の世話になり意思表示もできない苦痛がいつまで続くのか? も判らず、病名は教えられても具体的な説明がされないのは医師にもどれほどで神経が繋がるか? 確実に判断できない病状だったからと後で知りました。 

急性期の厚生病院で点滴だけで六ヶ月半過ごしましたが、リハビリのためにパウロ病院に転院した時も自力で車椅子にも移れない状態の転院でした。 

現在は医療削減のためにリハビリ期間にも制限が有り、骨折や脳障害などのリハビリは九十日・私の病気は長くても百五十日と決まっており、その間に良くならなくても施設か? 自宅へ帰されるか? です。 

ですから骨折や脳障害では一週間を待たずにリハビリ病院に転院するのは筋力の低下や関節の可動域縮小が進むからで、人間の体は使っていないと急速に劣化するもので、お金と同様に筋力と金力は失うのはアッという間ですが、取り戻すのには何十倍もの歳月の苦悩と努力が必要で、何事においても失うことは容易で取り戻すのは容易なことではなく長い忍耐と努力が必要なようです。

私の病気は交通事故みたいなもので一般に若い人達が多く、私のように重度のギラン・バレー症候群の場合で社会復帰するにはリハビリを始めてから一年半くらいかかると知ったのは転院前後でした。 

娘も結婚し妻を見送る約束も果たしたので私には心残りはないので、医療費削減のためにも昔から思っていた希望する人には安楽死を認めて欲しいと今でも思っておりますが、ほぼ拷問に近い痛みのリハビリに耐えたのは留守番電話へのお客様からの注文が続いたことと、娘から携帯に送られてくる孫達からの励ましビデオが勇気を奮い立たせてくれました。 

六カ月半も寝たきりでいた体の筋力低下と収縮だけでなく、関節可動域の縮小幅はリハビリの先生達も驚くほどでしたが、百五十日で元の独り暮らしの生活に戻るという私の希望を叶えるために夏の期間などは汗だくで痛みに耐える私に容赦なく薄情の情けをかけてくれました。 

私の幸運は担当の作業療法士と理学療法士の先生に恵まれたことで、百五十日の期間に私の願いを叶えるべく薄情に徹する厚い情けを続けてくれたことで、なまじっか職業慣れした年輩の人だったら可もなく不可もなく百五十日を消化して車椅子か? 歩行器で過ごすような状態で退院させられていたことは確実だったと思っております。 

退院間近には両足に三キロの重りをつけて六〇段の階段を二往復したり、病院内を走ったりしたり、自宅での生活を想定して掃除機をかけたり調理実習で二時間立ち続ける練習など、リハビリ後半は一人での日常生活実践を想定して出来ないことを洗い出しリハビリメニューを工夫してくれました。 

兎角大人は今の若い者はなどと言いますが、リハビリを受けている今の大人の方が苦痛や努力に文句を言って拒み、まるで魔法をかけるように良くして欲しいという我儘放題がほとんどで、終いには良くならないのは若造だからと陰口を言う困った大人もおりました。 

何事も本人がその気にならないと良くならないのがリハビリで、若い先生達はその手助けをナダメ褒めながら耐え忍んでおりますが、その手助けに文句を言う始末の大人達が多く、私は今の年寄りどもは困ったものだと思っておりました。 

脳がやられた高機能障害や認知症の人達も多く、百五十日間で観察させられた内容は面白映画にして、題名『まだら』として脚本が書けるほど人間の狂気を見る思いでしたので、自分がそうならないようにひたすら苦痛に耐え努力を続ける原動力に置き換えておりました。 

これも想像力でしたが病院はテイのいい刑務所と思っておりましたが、全て刑務官の言うことを聞かないと思うにまかせず、出された食事を食べ・起床就寝も刑務官の指示に従うのが決まりで、守らない者には拘束や注射が待っておりますが、限られた人数で病院生活を管理機能させるためには必要なことと痛感すると共に、このような施設で働く人達の精神的・肉体的な大変さも思い知らされました。 

介護施設での事件や事故などが時折報道されますが、そこで働く人たちの苦悩は報道されないことを思うと『まだら』のような映画やテレビドラマは必要です。 

肉親達に見放され福祉施設に行った人達などを、職業として世話をすることを実践する人の苦悩も一緒に描き、笑いの中にピリリと辛い社会風刺を描写して、見ぬふりをしている高齢化社会の終末実情を一般社会にも知ってもらう時期だとも思った次第です。

嫌なことやものから目をそらし見ぬふりをするようになったのは水洗トイレが出来てから蔓延し出したと思います。

動物は食べて排泄するのですが、昔のトイレは『どんなに綺麗で美しい人でもウンチをする』ことが嫌でも確認させられましたが、水洗トイレが出来てからはウンチをした後に指一本で流した後『澄まして出てこれます』ので、嫌悪感を持つ臭いウンチが指一本で有ったものが無かったものになるようになりました。

偽善や背信行為も証拠がなければ開き直るのが蔓延したのも、

指一本で流せることが習慣として身に付いた事と繋がっているのではないか? と私は思っています。

その時代の常識を疑いもなく受け入れているのが人間社会で、社会の変革は追い詰められて行うのが常ですが、未来を見据えて今の常識を疑うところから始めないと、その犠牲を強いられるのは次世代の今の若者達になってしまいます。 

政治家でもない私が生意気なことを書いておりますが、人間はそれぞれの仕事を通じて社会と繋がっており、その仕事を通じてそれぞれの人間の立場で社会変革に努めもしないで、難問だけを政治家に求める風潮は無責任ではないか? といつも思っています。 

ラクビーのオール・フォア・ワン ワン・フォア・オールは人間社会に必須のことで、誰もがまずは自分の身近な身の回りの人達のために自分の出来ることを多くの人が始めれば、自然と社会は少しずつですが変革に向かって行きます。 

退院前夜にベッドで明日孫達に会えると思い抱きしめようと思ったら突然涙が止まらなくなりましたが、リハビリでパウロ病院に来て初めて泣いたことに気が付き、約十一ヶ月に及ぶ闘病生活が走馬灯のように駆け巡り、最後に『本当に悪運に強い・煮ても焼いても食えないしぶとい男だね』と言った妻の言葉が想い出されました。 

妻の『絶対私を見送ってね』という約束は果たしたのですが、その時妻に約束させたのは『必ず私を迎えにきてね!』の約束でしたが、『その約束をいつ果たしてくれるのか?』これからの私はひたすら心待ちにしております。

  意識が錯綜し混濁している時、鬼や般若が出てくる恐ろしい夢

 をたくさん見ましたが、意識が戻ると『なぜ妻が迎えにきてく

 れないのか?』と考えてしまい、鬼も般若もいいけど妻に『早

 く約束を守って迎えに来い』と心の中で叫んだものでした。 

たくさんの人達のお蔭で何とか自立した生活ができそうですが、これからはその迎えがくるまで精一杯生きる姿を孫達の記憶に刻み込むためにも、仕事にも家事にも頑張って行こうと自らに鞭を入れようと思い定めております。