変わる日本の食卓。

飽食の時代と言われてからしばらく経過して、現在は崩食の時代になってきたようですが、呆れるような呆食という言葉も生まれるほどに食事が軽んじられ、自分では手間暇のかけないコンビニやスーパーの出来合いやインスタント食品が主流の家庭も多い時代になったようです。

まるで車が走るために入れるガソリンのように、空腹を満たすために食べ物なら何でも良いようで、むしろお金を手に入れるために手間暇をかける方が大切な時代になり、食事のために手間暇をかける時間など馬鹿らしいと思う時代のようです。 

家族が美味しいと喜ぶ顔を見たさに手間暇をかけた時代は貧しかった時代だからできたことで、豊かになってからは食べ物などは手間暇かけずに、お金の予算と時間的な都合でピンからキリまで買う時代にコンビニがしたのかも? と思います。 

お金を節約したい時はスーパーの総菜で、余裕があって贅沢したい時は高級なプロの外食を楽しみ、時間のない時はファーストフードのハンバーガーやコンビニ弁当で済ませるという、実に選択肢の多い飽食・崩食・呆食の時代です。

その結果として普及しているのがサプリメントで、崩食で不足した栄養分は効率よくサプリメントで補う人が増加しているせいか? テレビコマーシャルは健康不安を煽って商品を売り込むものが全盛になっております。 

日本の食卓の変化は家族バラバラの時間に食べる孤食になっていることだけでなく、食べる物もバラバラになっていることが、岩村暢子さん調査の本を読むと判ります。 

ここから団欒が失われていることが見えており、家族内の会話も減少し誰が何を考え何に苦しんでいるかなどが見えなくなるから、子供がイジメに遭っているサインなども見逃しがちで、年間三万人に及ぶ自殺者の予兆も家族ですら察知できないことなども団欒を失ったことが関係していると私は思っています。

貧しかった時代は子供部屋などもなく、ましてやバラバラの

個人の好みのものを食べるような贅沢も許されなかったのですが、そのぶん家族それぞれの痛みや温もりの共感も自然に受容され、『何か変だ』という感覚で伝わり自然に防いでおり、喜びなども共有されることで励みにも繋がっていました。 

物の豊さは温もりや痛みの共有を失っただけでなく、実は豊かさを得るために生産性という効率を求められ、家族全員が個人的に忙しい時代になったので、家族全員が揃うこと自体が難しくなっている変な現象が起こってしまいました。

子供は勉強し良い学校へ・親はより高収入を目指して生産性優先の時間割生活の中で、家族の絆はどこで築いていくのか? 

そのために未来に失うものは家族の絆というかけがえのないものですので、何曜日には家族全員が意識して揃うことを心掛けると決めるなど、最低でも週に一度は家族全員が揃って手作りの同じ物を一緒に食べて会話を持つ快食の時間を半強制的でも持つことが大切です。 

この半強制への思春期の反発などは、子供が成人後に意外とかけがいのない想い出になっているもので、また子供に強制することは親にも責任が発生しており、この半強制の義務と責任を親子がお互いに果たすことが目に見えない効用を生んでいて、無意識的ですが家族それぞれがエゴイスティックな間違った権利の行使に走らないことに必ず繋がっています。 

岩村暢子氏の著書『変わる家族 変わる食卓』・『親の顔が見てみたい!』・『調査』・『普通の家族がいちばん怖いー崩壊する正月、暴走するクリスマス』・『家族の勝手でしょうー写真二百七十四枚で見る食卓の喜劇』のどれか一冊を読めば、現代の家庭の食卓事情の実像が見えてきます。 

上記本の調査は五年~十年かけて行われ、写真の添付もお願いしているのは最近の人は本当のことより、『そう答えることが正解だと感じること』を答えるようになっていることと、回答で『している』と答えたことが『実際にしている』ことと大きな隔たりがあるので写真添付を求め調査しています。 

普通の家族の実態調査ですが、年代が五年違うと大きく変化しており、親の実家ではお客様でいたい・子供中心と主婦の私中心の好き嫌い・うるさい親にならない放任主義・普段は一緒にいられないがノリで繋がれるハレの日だけ家族一緒・喪中よりお受験のほうが大事など、ほんどは無自覚に行っていることですが回答と『実際にしていること』には大きな乖離があるのが常態なのが年々増えているそうです。 

運動会・クリスマス・正月などのイベントなどでは手作りの家庭は稀で、総菜やテイクアウトが主流の時代で、特にクリスマスの電飾に凝る家庭や写真年賀状に凝る家庭ほど、食卓には手間暇をかけない傾向が強くでているのは判る気がします。 

現代は家族が家族である前に、まず個人が優先されるのが当然と親も考えているようで、『家族一緒』は家族全員の都合がない時だけ成立するようになっているそうです。 

家族一緒のために都合をつけるとか、家族の喜ぶ顔見たさに手作りに励むとか、日常は家族の誰かのために自己犠牲的な行為に意義を見出せないで過ごしている人達ほど、テレビやSNSなどでは『???に力をもらった』とか『???の力になれるとうれしい』などの歯の浮くような言葉を述べており、最近はテレビでも慣用句のように飛び交っております。

成人や熟年の引き籠りの人達による事件が最近は多いのですが、この人達の家庭ではきっと家族全員で食卓を囲む団欒などなかったのではないか? と私は推測しています。

もう結婚して二児の母である私の娘のことですが、高校進学が本人の希望で学区外の高校に通い始め一ヶ月半位した時、『学校に行きたくない』とこぼしたことがあります。

普段の様子で判っていましたが『どうして?』と聞くと『友達ができないから楽しくない』というので、『どうしても行きたくなかったら、行かなくていいよ』とさらっと言いました。

思いつめた様子の二~三日後に、『学校を辞めたら、どうなる』と聞くので『働くのさ』と答えると、またしばらくすると高校を辞めて働くとして『学歴で何が違う』と聞くので、『能力が違うから給料も違う』と答えました。

他にも質問は色々あったと思いますが、思案し葛藤している様子を見守っているうちに友達ができ、ノンポリの高校生活をそれなりに楽しんだと思います。

私は子供が本当に『学校に行きたくない』と言ったら、『行きたくないなら行かなくていいけど、食事だけは一緒に同じものを食べる』、この条件さえ飲めばよいと思っていました。

世間体や将来より今現在子供が抱えている問題を優先し、子供の社会的な悩みを受け入れるが家庭では今まで通り過ごしてもらって、将来は親と一緒に悩み考えて答えを出していくことの方が子供の生きる力を削がないと考えていたからです。

私は料理をしない人間の駄目さ加減を責めているのではなく、自己顕示欲には精を出しても、人の目に触れない所では義務と責任の放棄で過ごすという、自分自身を俯瞰した視線を持てないような生活をしていると、やがてそれに伴う責任による不幸の訪れで嘆くことに必ず繋がっていると言いたいだけで、それも承知のうえなら良いのですが義務と責任を果たさない人ほど権利の主張や嘆きで大騒ぎする傾向があるからです。 

人間が本質的に持つ怠惰さについては、無頼派の小説家であった坂口安吾の『堕落論』が的確に言い表していて、《変わり果てた終戦後の世相を眺め、戦火に散った勇士と同じ若者の帰還兵が闇屋になり、健気に夫を見送り亡夫の位牌を弔っていた女にもやがて新しい男ができていく。 それはその人間が変わったのではなく、人間とは元々そうゆうもので、変化したのは世の中の表層だけである》と述べ、堕ちるべき道を正しく落ちきることが大事であり、それには虚飾を捨てあるがままの自分を受け入れる姿勢を言っていますが、現代人はこの堕ちるべき道を正しく落ちきることができていないことが問題なのです。 

このような堕落さは私にもあるので心底納得させられますが、この堕落論には建前と本音を使い分けて世の中を渡る偽善がないので、生前の三島由紀夫なども敬愛する小説家と坂口安吾には讃辞を贈っていました。 

子供は生き抜くためにしたたかで、家庭の食卓の全てを見て育っているので親の本音は実はお見透視で、しかし自分が無事巣立っていくまでは偽善に目をつぶっているだけで気が付いていないのは親だけです。 

食文化という言葉があるように、食べることには人種の文化レベルが反映されており、和食がユネスコ無形文化遺産に登録されましたが、今の日本ではかなりの家庭において和食と呼べるような手をかけたものは滅びております。 

現代社会では建前と本音の乖離は常識で、むしろその使い分けをできない人間のほうが異質扱いですが、このような『ねじれ』が起こった経緯については近いうちに書いてみたいと思います。 虐待などもそうですが家庭の中までは見られないことを良いことに、言っていることとやっていることが違う現代の日本の食卓事情を眺めていると、岩村暢子さんの本の副題である『破滅する日本の食卓』が頷けます。 

人間とは現在を生きており食卓も少しずつ変化しているのは当然で、何事も歴史的に俯瞰して眺めないと変化は自覚できないのですが、問題は建前と本音を使い分ける己の偽善を潔く認めないことで、堕ちるべき道を正しく落ちきっている親なら、子供は反面教師にして成長・成熟に繋げられます。 

人の目に見えない食卓や夫婦関係や親子関係などは、人に話すことと行っていることが違い、社会的に『そう答えることが正解だと感じること』を答える偽善が現代社会の常識になったようで、同様に子供を命がけで守るという動物としての本能も豊かさに溺れて失ってしまったようです。 

動物である人間は、生れ落ちるとオッパイを吸うように食欲から始まり、成長し思春期を迎えると性欲を持ち、成人し大人になると金欲になりますが、老いると思い知りますが金欲を失い、性欲を失って食欲を失ったとき死を迎えるのです。

食べる行為はつまり生きることで、食事こそが健全な身体を作る源で、それが健全な精神に繋がっているから食文化なのです。 その食卓が極端に手間暇を省く簡便さに走り過ぎることは、やはりよく生きることに繋がっていないと私は思っているのです。 共働き世帯の多い時代になりましたので夫婦で協力して励む時代ですが、父や母の手料理で愛情を受け取り『美味しい、まずい』を感じながら成長した子供の身体に宿る精神と、手間暇を惜しんだ出来合いの料理で成長した子供の精神では、ここ一番の時に耐える心のしなやかさに違いが出ると私は思っています。

人間が本質的に持つ怠惰への誘惑を絶つ勇気に繋がるものは、親や伴侶の自己犠牲を伴う贈与を受け取った記憶で、その贈与に応えたいという心が自己を律する勇気を育んでいます。

  衣食足りて礼節を知る・医食同源などの言葉は貧しい時代から存

 在しており、がん患者が癌摘出の手術後に抗癌剤を投与するとき

 なども、高価な点滴(サプリメントの一種)から解放され、食事

 という口から栄養を取れるようにならないと抗癌剤は使わないほ

 どに食べ物からとる栄養が大事なのは、食事こそが身体と心の免

 疫力を上げるものだからです。

そして食べ物が人間の心の滋養としても機能しているのは、食事作りとは食べる人達を思って行う自己犠牲的精神が詰まった行為で、その思いを食事と一緒にギフトとして受け取っているから心の滋養にもなります。 

お茶などもその生産農家の丹精を込める人間性によって味・香り・水色(鮮やかな緑色)に如実に表れており、好きな人と楽しい時間を過ごした余韻に似て、飲んだ後口に甘い心地良い余韻が残り幸せな気持ちにしてくれます。

かけがえのない家族と食事しながら、それぞれの日々の出来事を話す会話を通じて、共に笑い共に泣きながら少しづつ絆が育っているのだと私は思っていますので、食事を粗末に扱わないで欲しいと願っています。