人生における絆と倫理観。

妻を亡くしてから数々の精神的な危機を経験して参りましたが、その危機を乗り越えるための支柱になったものは、いつも私自身の心の中の倫理に問い続けた果ての答えでした。 

肉体的にも精神的にも疲れ何もかもが嫌になった時、誰かのためではなく自分自身のことだけを思うとつい投げやりになりがちで、正直生きていること自体が面倒になり妻の写真に向って『生きているのは面倒くさい』と叫んだりしたこともありました。 

危機は突然訪れ軽度と重度がありますが、軽度のときは掃除やアイロンがけなどの生産的なことに集中すると回避されますが、重度のときは娘・婿殿・孫達や長年のお客様それぞれに及ぼす迷惑を思案し、これまでの人生を支えてくれた人達への私自身の責任を果たす義務が残りの人生にもあると自覚することで、たとえ辛く苦しくても倫理的に正しい道を選択しなければいけないと思い直す繰り返しでやってきました。 

過去に生きていることが楽しく充実感に満たされた時もあり、また辛く苦しい時もありましたが、その壁を乗り越えようとするときの意欲の違いをひとり身になって思い知らされ、そこに同士のような存在の妻がいない孤立感があることを実感します。 

他人同士の夫婦が親子や兄弟よりも愛しく思えるまでには、愛情だけでなく葛藤や憎しみや諦めなどの繰り返しも互いにあったのですが、性愛という二人だけの動物的な行為が存在していたことが人間関係を密にしていたのだと最近つくづく思っています。 

ブログなどを書くことも、言葉や文章にすることで自分をみつめ直し自らを励ましている部分もあり、最近は生きることの個人的な美学みたいなものより、老いぼれてからこそ未来の人達を優先し自分自身に責任をとる生き方をしなければいけないという倫理に思い到り『ここで踏ん張らなければ』と自分に言い聞かせます。 

ひとり身になった最初の頃は矮小な世間体とか世俗的なモラルなどが気になり、『どのように振舞うべきか』などと意識したものですが、世間の評価や思惑など気にせずに何事も自然体で今まで通りにと思い定めてから楽になり、次第に仕事と家事に集中できるようになりました。 

しかし何もかもを一人で家事や仕事をしていると、肉体的な疲れや愚痴や本音をぶつける相手がいない積み重ねの毎日の中で、精神的な不安定の危機は突然やって参ります。 

そんな時はどっぷり落ち込んでから、そのつど自分自身の廻りの人達の立場や状況を考え直し、自分との整合性を保つために『自分はどうあるべきなのか』を問い続けてきました。 

妻のいない私自身の新しい生活スタイルを決める中で、他者の立場と自分の置かれた立場に整合性を保つための数々の選択肢の中で、他者と自分のどちらを優先するのか、他者を優先して自分が健康を害したり潰れたりしたらもっと迷惑をかけるのではないかなど、危機におけるその時点の諸問題に対し揺れる私の心の迷いの中で決断する時、なぜかいつも心を横切っていたのは他者へ及ぼす自問自答の倫理的な善悪でした。 

モラルのように世間や他者から抑圧や非難されるような善悪ではない倫理は、自分自身に責任をとるという生き方としての個人的なもので、人それぞれの年代や家族状況や社会的な立場で変化するものと実感しています。 

モラルが社会的な善悪ならば、倫理は個人として自由に選択できる善悪の違いがあるようで、どちらも時代状況や立場によって変化していくとしても、私個人の判断に委ねられている倫理は否応なく私自身に哲学を強いるものでした。 

家族や夫婦の中にいた私と、私ひとりで暮していることの一番の大きな違いは、いつも自分自身のあり方だけに囚われている息苦しさが付き纏っていることです。 

一般的に毎日の生活は真偽とか正誤のようなことより、むしろ曖昧さが多い中で過ごす方が健康的に暮せるので、なるべく意識的に『まっいいか』という部分を増やすように心がけています。

多感な私が思春期頃から悩んだ親との倫理感の違いを理解し消化できるようになったのは、結婚し親になるという経験を通じた喜びと苦労が親を知る手がかりでしたが、認知症の施設にいた母のもとに通い記憶の確かな昔話をたくさん聞いたことで、私が納得できなかった母の歩みの真相を謎解きのように理解できました。 

四月に亡くなった母は湧別町の貧農の生まれで、姉と母は学校には行かせてもらえず畑仕事の毎日だったが、男の弟達は畑仕事より教育が母親の方針で、その後の農地解放などもあり弟達は大学まで行ったと無念そうに度々言っていました。 

父親は早くに亡くなったので、女一人で子供達を養った祖母の倫理観は時代状況を反映しており、世帯主になる男の子への母としての期待と責任だったのでしょう。 

私の父は母とは真逆で、再婚した祖父の長男として甘やかされて育ち、当時は高額な写真学校に行き高額なカメラを買い与えても自立できないので、祖父は父を炭鉱の鉄道勤務をさせ貧農生まれの働き者の母と結婚させたのだと、認知症になってから祖父の思惑を何度も言っていました。 

認知症の施設に逢いに行った時は、『過去の記憶は確かなので』いつも一時間ほど昔話を主にするのですが、驚くような私が初めて知る事実も淡々とたくさん話してくれました。 

私の家は恵まれない育ちの母の方が倫理観は高く、恵まれて育った父の方が倫理観は低いのに権力を振り回していた家庭でした。

私が短大生の頃に、ある出来事で父の理不尽に耐えている母が理解できず『この人は母であることより、女として生きているのでは』と誤解したこともありました。 

いつの時代も女性は男の理不尽に耐えて生きている人達が多いのですが、私も結婚し大人になるにつれて母の人生の様々な状況を知る中で、母が帰る場所を失った中で生きるためにひたすら耐えていたことを知り、唯一の自分自身の楽しみとして生涯を通じて畑仕事をしていた意味が、施設内における二人だけの会話を通じて初めて理解できました。 

母が帰る場所を失った理由は、真偽はともかく息子達に裏切られた思いから祖母が冬の湧別川に入水自殺をしたためで、私が幼児の頃に葬儀で祖母の自宅まで冬の馬ソリに乗った想い出を話すと、その時だったと母が言いました。 

父方の祖父は一代で財を築いた人だけに、駄目な息子に家を買い与え働き者の母を添えましたが、老いてから財も失い伯父と叔母を連れ私達の家へ来てから亡くなりました。 

こんなことを書いたのは、私は人間のそれぞれの人生模様に大きく作用しているものは実はそれぞれの人の心の内なる倫理観と、その選択・決断次第ではないか? と認知症だった母を尋ね向き合いながら長い時間対話してきて実感させられたからです。 

私が幼児の頃の母は、深夜に寝ても早朝の四時頃には山の畑に行っており、帰宅後に子供四人と伯父・叔母の六人分の弁当を作り、全員送り出したあとに文房具の店を夕方まで営みながら祖父と祖母の面倒も看ていましたが、きっと母は畑仕事のような裏切らない努力に救いと喜びを見出していたのだと思います。 

老いても認知症の施設に入るまで畑仕事を唯一の楽しみにしておりましたが、裏切りの多い人間に対しては理解に繋げる努力より妥協を選んで生きた人生だったことを施設内の会話から理解でき、心の内に持つ母の倫理観は正しいのに、なぜか倫理的に正しくない相手にも安易に妥協した人生だったと知り、熟慮して思うのはそれが母の生きる術だったと思いました。 

可愛そうな人生だったと思いながらも、その母の存在によって私が生まれ娘・孫達に繋がっておりますので、私には承服できない部分も多々ありますが、ひたすら耐え忍んだ人生にただ感謝です。 

勿論親や兄弟でも人間の倫理観や価値観は違うのですが、私はこと夫婦においては倫理観を近づける努力を怠るとお互いの幸福感に繋がらないと、結婚生活のある時期に確信してから近づける工夫と努力を妻との生涯に亘って続けてきました。 

その方法は自己の持つ倫理観の妻への強要でもなく、ましてや妻の倫理観への攻撃や忍耐でもなく、違いに対する一瞬の戸惑いのあとに寛容で接する繰り返しと、倫理観が一致した行動や行為への敬意と感謝の言葉でした。 

一般的な倫理の行使は、己を良心的な者とし他者を裏切り者として攻撃しがちで、邪悪な人ほど他者の小さな倫理を責め自分の正当化を計る言動が多いものなので、私は正義を声高に叫ぶ人は怪しい人間といつも疑っています。 

人間は孤立すると、多数の相手には怖気ずき自虐的になり、家庭内のような少数を相手に孤立すると攻撃的になる傾向が強く、DVや虐待をする人間の裏側に潜む心理はこれで、弱者を攻撃してより孤立すると攻撃が倍加する悪循環に陥るので悲惨です。 

連合赤軍の仲間内リンチ殺人も、社会的に孤立し分裂した小組織だったので、追いつめられた人間が選択する身近の者へのイラついた攻撃性がエスカレートした結果で、イジメや虐待と同様に陰惨で残虐な帰結になりがちですので、閉鎖空間では決して恥などと思わず逃げ出す勇気を持つ事が大切な心得です。 

だから決して人を追いつめてはいけないことで、いつも寛容の精神で接し逃げ道を用意し、逃げた時も決して逃げたと責めずに自覚するまで待つことが成長を生み成熟に繋げられます。 

夫婦や親子のような家庭も密室で、お互いの立場から相手を見ると不平・不満はあるのですが、その不平・不満を攻撃するのではなく我が意を察してくれた時『ありがとう』と言う、そして不平・不満を言われたら『ごめんなさい』と言う素直な積み重ねが大切で、あるとき相手の内省を生みだせたらお互いの倫理観が近づいており、お互いを尊重するという絆を築くことに繋がります。 

しかし私はこうは言っても人格がないので、好きな人間に対しては寛容できますが、嫌いな人には嫌悪が露骨に態度に出ていると妻にいつも怒られておりました。 

人間の怒りは内面に隠し持っている負い目や恥と自覚していることを言われ図星な時ほど暴発しやすいのですが、そんな時ほど好きな人には素直に『はい、ごめんなさい』と言うと、この意外な反応が相手の内省につながっており、その繰り返しの毎日が絆を強め互いの倫理観の一致に通じていきます。 

日常の積み重ねで時間をかけ倫理観が一致できると、普段たとえ言葉で逆の表現をしても相手の胸には真意が届くような不思議な阿吽の呼吸の楽しい関係になっております。 

娘が家を出て二人だけの生活になってからは、お互いに言葉では魔逆な表現で会話をして楽しんでおりました。 

こんなことを書いていたら妻との葛藤や楽しかった想い出が浮かんできますが、私もいずれは精神的な危機より肉体的な危機が訪れると思い待っているのですが、生きている間は仕事を続け孫達が小学校に入学するまでは元気で保育園での緊急事態対処のお手伝いや、妻の分もと思い少しは娘や婿殿の力にならねばと考え、手料理の食生活と就寝前のストレッチで延命処置をしております。 

最近は辛い腹筋と腕立て伏せを二セット増やしたのですが、四歳のお姉ちゃんが一歳の妹ができてから三人で遊んでいる時はお姉ちゃんなのですが、二人で出かけ車から降りる時にニッコリ笑って『抱っこ』と言い甘える分別と倫理観に敬意を表しているからです。 こちらは老いぼれて行き孫は成長して行きますので、少しでも期待に応えるべく筋トレを追加した次第です。 

仕事もプライベートも社会や廻りの人達に必要とされることが人間の生き甲斐です。