不安と生き辛さの根源。

 

いつの時代においても人間は不安や虚しさを感じ生き辛さを抱えて生きているものですが、その根源にあるものは『人間は誰しも必ず死ぬという自明のことに不安と虚しさを感じている』からで、どんなにお金持ちでも、どんなに身体を鍛え健康な食生活を心掛けても死は回避できないという虚しさからくる不安です。

しかし身体の衰えなどまだ自覚していない若者達も先行きへの不安から虚しさを覚える現状は、社会との繋がりが実感できない人間関係の希薄さや雇用関係の不安定さ、家族・兄弟や親類関係も含めた絆の希薄化などが要因で、鬱病・自殺・自傷行為・登校拒否・イジメ・引き篭もりなどが多発している誘引原因もそれらによる虚しさと不安が根底にあると思います。

このような人達の背景に少なからずあったのは、親の言うと通りにやって来たのに約束された結果がでない無力感や、信じていた人に裏切られたなどの失望感からの無気力だったり、裏切られた怒りから暴力的になったり、人との繋がりを実感できない喪失感から薬物に手を出したりするのも自己アイデンティティーを見失った結果ですが、本質的には何事においても自分自身で選択・決断しなかったことを親や社会のせいにしている甘えの部分もあります。 

しかしこのような人達を追い込んだ原因についてはあまり語られておらず、自己責任論から怠け者の駄目な人間というレッテルを大人達が貼っており、フリーターやニートなども同様に見ている傾向があり、働かない・学校に行かない行為を社会の敗残者と見なす視線にも大きな原因があります。 

このような見方をしがちな私達の世代は、高度成長と終身雇用に守られた右肩上がりの経験則を子供達にも当てはめて責めましたが、高度成長と終身雇用の時代はたかだか三十年間くらいしか続かなかったわけで、日本の歴史の中でいまだかってなく、これからも恐らく起こりえない特別な時代背景を当然として現代の子供達に押し付けた考え方だったと私は思っています。 

このような親の考えを内面化して育った子供が一度失敗すると『自分は弱い駄目な人間だ!』というような自分自身の価値そのものを否定することに繋がりやすく、生まれながらに持つ根拠のない自信が崩れ生きる意欲を奪ったと思います。 

これは有名大学に入る、よい職業に就く、高給を得て安定した生活をするなどでしか人間の価値を認める基準が持てないという狭い規範に押し込められた窮屈な状態だったと思います。 

ほとんどの人間は自分の生きてきた経験と記憶を規範にして他者や子供を見ていますが、子供達の時代にはバブルが崩壊し派遣法が製造業にも解禁され非正規社員が増大しており、誰もが正社員になれた親の時代と同じのものを求められた犠牲者でもあります。 

現代社会の閉塞感は、収入や学歴のような狭い価値基準にしか自己肯定感を見出せない思考の蔓延が原因でもあり、それが生き辛さや不安の増大という閉塞感に繋がっていると思います。 

常識や不幸なども時代と共に変化しており、戦争や飢餓や貧しさが不幸の時代もあれば、豊かだが格差への不安や不幸で自分の存在が確認できない現代特有の苦しみもあり、何者にもなれる自由な時代になったことも一因です。 

昔は百姓の子供は百姓になり、武士の子供は武士になることを自明のこととしていた身分制の時代で、現代人のように何者になろうか? などという悩みや不安は全くなく、職業選択や自己実現のための悩みや苦悩に襲われることはありませんでした。 

このような問題は身分制から開放され機会の平等が訪れ、貨幣経済社会になってから起こったことで、何者にもなれる自由を手に入れたことが選択への不安や役に立つか判らない学業の努力を積み重ねることなどを伴い、これらがいつも未知の将来への不安を増幅しており最終的には『自分とはなに者か?』という不安とストレスに繋がってしまっているのです。 

その上に資本主義社会ではお金を手に入れることを使命として強迫されておりそのお金への使命を果している大きさで人間の価値を判断するようになってしまったために、大多数の人間は更に生き辛くなり不安を抱え込んでしまいました。 

学校による公的教育制度ができる前までは、子供は当然のように労働力として利用されておりましたが、その時の子供達は勉強をしたがっておりました。 

義務教育制度は子供に学校へ行く義務があるのではなく、親が子供を労働力に使うのではなく子供達を学校に通わせ教育を受けさせる義務が親にあると定めたものですが、そうなると子供が勉強しなくなるという皮肉が起こりました。 

機会の平等社会が実現すると、みんなと同じでないと差別やイジメを受けるという不安の中で、他人に差をつけて評価されたいという矛盾した願望も起こり、他者と繋がるという連帯を求める意識とエゴイズムの矛盾にも苦しみ始めました。 

建前はみんなと同じで本音はみんなに差をつけて評価されたい、それでは人間の根源的な喜びを生む連帯が満たされない不安から、偽善の解消手段として擬似的なナショナリズムに走る選択を無意識にしている昨今は不安を複雑にし増幅しています。 

それはスポーツ観戦などに顕著で、例えばサッカー・ワールドカップで日本チームを応援している時は、この建前と本音から解放され日本チームの勝利を願う疑似的な一体感と連帯の快楽を味わうのですが、このようなナショナリズム陶酔に陥る先にはファシズムに通じる危険も潜んでいます。 

この擬似的な一体感の快楽を伴うナショナリズムとポピュリズムは表裏一体なのですが、自己弁護として人間は自分の都合に合わせたもっともらしい論理を作り上げる狡猾な生き物なので、注意を払っていないと気が付いた時には危機に巻き込まれています。 

現代では日本人は単一民族と神話のように思っているのが常識ですが、大日本帝国としてアジア進出した日韓併合の頃には、日本と朝鮮は祖先が同じという『日鮮同祖論』が知識人の主流で、日本人全体もそう思っており天皇家朝鮮渡来説なども唱えられた混合民族説が常識の時代でした。 

理由はアジア侵略に好都合だったからで、多様な民族の優秀な部分を引き継いだ日本人が、祖先の同じ朝鮮や台湾などを侵略しているのではなく、アジア諸国をヨーロッパ列強の植民地化から救っており、優秀な日本人に同化させているという詭弁として混合民族説を唱え、占領した朝鮮人達には徴兵などの義務を与えても権利を剥奪し利用していたのは、知識人達が権力を持っていた日本軍上層部に忖度し迎合していたからです。 

敗戦以後は一転して単一民族神話を作り上げ、今度はアメリカに迎合し冷戦構造の一躍を担ってきましたが、アメリカも冷戦構造における日本を東アジアへの自国拠点として都合よく育てるためサンフランシスコ講和条約によって、日本が東京裁判を認める引き換えにアジア侵略国への日本の戦後賠償金をアメリカの力で免除させた経緯があり、韓国・北朝鮮が未だに戦後賠償問題を言っているのはこんな背景があったからです。 

明治政府は黒船来航から西欧列強への恐れと不安に怯え単一民族思考で富国強兵を進めていましたが、ロシアのバルチック艦隊に勝利した頃から混合民族思想に転換し始め、朝鮮・台湾・中国侵略を進める正当化策として混合民族説を使い出しました。 

弱者になると不安に怯え、強者になると傲慢になる人間の典型パターンですが、傲慢に振舞っているときも欧米列強への不安はいつも片隅に持っていたので、いずれ迎える破綻を恐れ短期決戦で優位なうちに和平に持ち込むという筋書きで真珠湾攻撃奇襲に出ましたが和平のタイミングを失った結果の敗戦でした。 

西欧社会の植民地化や現在の移民受け入れも、日本軍が行っていたことと同様ですが、現在の日本の状態は移民を受け入れていない代わりに派遣法で非正規社員を増やし、まるで身分制の時代のように自国民を差別しているようなものです。 

昔の身分制社会の不自由さにも虚しさや不安が伴いますが、身分制が解消された現代は自由を手に入れた中での不安と虚しさなので底が深いから精神病や自殺が増えているのです。 

そして現代を覆う最大の不安の原因は、高度成長時代に作られ機能していた政治・経済・雇用・教育・家族など全てのシステムが反対の少子高齢化の現代に不適合の機能不全状態が原因で、平成の三十一年間を経ていまだに新しい時代に適合したシステムを見出せない中で、強者だけが有利な派遣法や新自由主義による格差拡大だけが進行し続けていることによる不安です。 

冷戦終結頃から始まった工業化から情報化へ、人口増加から少子高齢化の人口減少社会の到来、終身雇用から雇用の不安定化、核家族の一段の孤立化など、経済成長終焉に対応する新しい社会の枠組みが見出せない不安と苛立ちが国民を覆っています。 

情報化が欲望を肥大させ、欲望と表裏一体の不安と虚しさが肥大する悪循環を転換させる新しい社会システムが見出せない空気が世界を覆う中で心配なことは、この不安と孤立感から逃れる手段として自国優先のナショナリズムが台頭していることです。 

戦争の歴史を振り返っても、自国優先のナショナリズムから戦争が始まっていたように、国民の不安を一時的に解消する手段として手っ取り早いナショナリズムは不安な心を一時的に癒す効果を持つ危険な思想で、内部の問題を外部の問題にすり替えるものです。 

世界的な極右の台頭やトランプ大統領の出現やイギリスのEU離脱なども、この一過性の癒しのナショナリズム現象です。 

しかしこの不安解消の根本的な癒しに繋がるものは排除ではなく共生と自覚できない理由は、家族と地域社会崩壊による絆の喪失が大きく関係しており、個人の不安が家族や地域社会を乗り超えて、いきなり国家という実態の漠然としたものに求める思考回路には、家族や地域社会や組織の人間関係の弱さが原因としてあります。 

人間は個人としては弱いものですが、不思議と愛する人のためには強くなれるもので、そのような時には不安への怯えより勇気を持って努力し始めるのですが、現代人はこの家族との絆や家族への帰属意識が希薄になっているから不安や虚しさのやり場がなく、無意識ですがいきなり国家が出てきて短絡的なナショナリズムで自分自身を癒しごまかしているのが実態と思います。 

オリンピックやスポーツ観戦による自国応援のナショナリズム熱狂のうちはよいですが、ナショナリズ以外に癒してくれる場所がない不安と虚しさを抱えた人達が増えると、自国優先の排他主義に陥る危機が訪れ摩擦から戦争に繋がるのが一番の心配です。

実際に冷戦終結以後の方が局地的な戦争が増えています。

人間は人間によってしか癒されない動物であることの自覚を持つことで、個人・家族・地域社会・国家へと次第に大きくなって行くことが確実な安定に繋がっていると思います。 

人間は少しでも不安を解消したいので拡大や成長を求め安心したいのは理解できるのですが、やはり『急がば回れ』で足元の家族や地域社会の絆が優先で、身近な人を愛せない人間ほど正体不明の『愛国心』を語るのは戦争中に多く見た姿で、愛国心を声高に叫ぶ人間ほど実は自国民を非難し死へ追いやったことは歴史が証明しており、国家を崩壊の危機に導くことに繋がっております。

雇用不安や格差拡大や人間関係の希薄化などは地に足をつけて一人ひとりが考え努力することで、ケネディ大統領が就任演説で述べたように『国が何をしてくれるかではなく、自分が国に何ができるかを考えなさい』の言葉のように、家族・地域社会・組織・国家に自分に何ができるか? は国境線を守る兵士のように身の回りのことから一人ひとりができることを始めることで、アベノミクスなどの政治のみに依存することや、いきなりナショナリズムに行く最近の傾向はエゴイズムやファシズムに通じる危険な行為で、次世代の子供達や若者の未来を脅かすことに何処かで繋がっています。

私自身は死ぬことが虚しさと不安の源泉なら生きているだけで良いのではないか? と妻を失ってからいつも思っており、私自身は死への不安よりできる限り娘達家族の役に立つことと、少しずつ減少して行く固定客の皆様へのご迷惑を最小限にするために健康に留意し営業を続け、娘達に看護や介護で手を煩わせないで妻のように突然死を迎えたいと願うだけで、唯一の不安はその真逆の事態に陥ることです。

深沢七郎氏の短編小説『楢山節考』は、山深い貧しい部落の因習に従って年老いた母を背板に乗せ真冬の楢山に捨てる棄老伝説の小説化ですが、限りある食料の中で村を維持するため新しい命を優先し老人が犠牲になった民間伝承の取材がきっかけだったそうです。

未来の人達を優先することが人類の基本で、死は不安でも虚しさでもなく未来の人達への社会奉仕ではないかと私は思っています。