全ては過不足なく出来ている。

ひとり身の生活になり醒めた眼で社会を俯瞰して眺めていると、自然も人間の営みである人生も『過不足なくできている』と思う此の頃です。 

一般的に人は他人にあって自分にないものにはすぐ気が付くのですが、自分にあり他人にないものへの感謝は忘れがちです。

若い時は誰でも何者かになりたがるのですが、例えば女優になりたい人は現在輝いている女優を夢見て努力をしても、夢を手に入れた代わりに失うものを想像できないから努力できます。 

例えば女優の三田佳子さんはずっと第一線で活躍してきたのですが、次男の度重なる覚せい剤使用に苦み続けております。

これは私の想像力ですが、結婚し子供ができた時から女優業でも第一線で忙しく過ごすには、朝早くから深夜まで泊まり込みの地方ロケなどの仕事などもあり、子供を家政婦さんに頼み仕事に行っていたと思います。 

しかし事情をまだ理解できない子供心は、幼稚園くらいから母性への飢えを毎日味わい、いつも他の園児は母親が迎えにくるという自分にないものへの葛藤を抱えて成長していたと思います。 

親の目線と子供の目線では見ている場所が違うのは何処の家庭も一緒ですが、夫婦も親子も日常生活の中には努力だけでは埋められない時間的な制約が特に仕事にはあり、家族間の相互理解の難しさという災いのほとんどの原因になります。 

女優をとるか? 母をとるか? では得るものと失うものが真逆になるのですが、例えとして親指は長さを失ったから力が強く、中指は長さを得た代わりに強さを失ったように、何かを得ると何かを失うようにできている宿命が実は日常生活の中にも存在していると私は思っています。 

昔の『髪結いの亭主』という言葉は、妻が稼ぎ夫が依存する姿を揶揄していますが、夫婦どちらも自己実現を果たし仲良く暮すことが如何に難しいか? をも意味しており、まして子供を生んでから共働きで子供を過不足なく健全な身体と精神に育て上げることは至難の業だから、子育て支援は必須と私は思っています。 

少なくとも子供が社会性を獲得するまでは、母と父のどちらかから庇護を受けるという親の肌の温もりを体感しないと、人間としての精神の基盤みたいなものが子供の心に形成されないような気がしています。 

昔八百屋のおばさんが子供を背負って店頭で奮闘していたのですが、背負われている子供の満足そうな顔を今でも想い出すのは、母の温もりが肌を通じて伝わっていたからです。 

お金や欲しいものを買ってやるからと言い聞かせて親から離れるより、ただ親のそばで温もりが欲しいのが幼児期の本能的な欲求で、例え叱られてもこの本能が満たされることが重要で、大切なことは子供の立場と価値観に寄り添うことが子供の未来に確実に繋がっていると認識することです。 

この幼児期の欲求が満たされないで育つと、人格形成に致命的な欠陥を及ぼすように人間の精神はプログラミングされているような気がしておりますので、もし迷った時は取戻しの効く金銭より親の温もりの方を優先すべきです。 

最近やっと子育て支援が認識され始めましたが、デフレから共働き世帯が増加している現状を思うと、社会の財産である子供の将来と共働き世帯の平和維持と安定のために、高齢者支援より子育て世帯支援をもっと充実する方が最重要課題です。 

親からの愛情を充分にもらった子供は時期が来ると簡単に自立して行きますが、『親から子供としての愛をまだ充分にもらってない』という本能的な甘え不足の子供は、親を困らす形による依存の繰り返しや非行などや、パラサイトや引き篭もりなどで自立していかないのも本能的なものです。 

また大人になってからでも、人間は自己実現の達成感だけでは生きられない社会性としての弱さが備わっており、心の奥底で自分をかけがえのない存在として認めてくれる人をいつも求め続けており、その確認ができたとき幸せな気持ちに包まれます。 

幼児期からの夢を実現した芸能人達が『普通の人間になりたい』と解散や引退を希望するのは、きっと手に入れたものの代わりに失ったものを実感したからです。 

先日見た映画でジャズピアニストを目指す男と女優を目指す女性が恋に落ち、二人が共に社会的に成功したときに愛し合っているゆえに別れざる得なくなって終わりました。 

『割れ鍋にとじ蓋』という言葉がありますが、この逆にお互いが社会的成功を果した時、忙しさの中で時間的なズレが生まれてしまい努力では埋められない隙間風が入り込んだ結果です。 

自己実現という行為の中には、それに伴う社会的な責任が発生するので、家族や家庭の都合が犠牲になることも必然なのです。 

お客様で『うちの亭主は稼ぎが良くないが、私のことが大好きと言ってくれ、高野さんがよく言う忠犬みたいよ!』と言った人がおり本当に幸せそうです。 

その方に私は『稼ぎがよくなったら、偉そうになり忠犬でなくなるよ!』と答えたら、『なんとなく判る気がする』と言うので『どっちがいい』と言うと『この歳になると、今の方がいい』と答えたので二人で大笑いをしました。 

これなどはある年齢にならないと理解できない境地で、長い人生で酸いも甘いも味わってから思い知らされた、お金では手に入れられない貴重なものです。 

反対に社会的に自己実現できずに苦しみ、鬱屈を抱え続けている人に多いのが家庭内暴力やモラハラの夫で、このタイプは社会においては非常に大人しい一見内気に見えるような人です。 

これは社会的に得られないものへの不満や苛立ちを、家庭の中で王様のように振舞い暴力で君臨することで無自覚に消化している行為ですが、やってしまってから非常に優しくなるのは、本当は弱い人間なので依存している対象を失う恐れの自覚からくる偽善の優しさなので注意が必要です。 

精神的な弱さを暴力や家族を卑下する言葉で、自分を強者と錯覚することでバランスをとる野蛮な行為です。 

知性と理性は別なもので、人間は鬱屈すると上位の者に徹頭徹尾卑屈になり、下位の者には徹頭徹尾傲慢に振舞うことが多く、傲慢さは言葉による暴力も伴うのでパワハラやモラハラや虐待にも表出する理性喪失の行為で知性とは別のものです。 

現代社会の虐待増加の背景には、三十~四十代の子供を持つ親がバブル崩壊以後のデフレによって社会的な成功体験のない人が多いのも一因で、最近の劣悪・強権的な労働環境に鬱屈を充満させられている精神的抑圧の中で、下位の者の些細な逆なで行為への過剰反応で発散・消化する反動でもあり、最初は無意識ですがストレス解消効果でエスカレートし犯罪になるまで続きます。 

権力が上位の者から受けた抑圧を下位の者に発散する原因は自分の弱さですが、認めたくないので上位の者に卑屈になる人ほど下位の者に尊大・傲慢になるという表裏一体のものです。 

戦争体験者の本を読んだ時『人間はつまらない理由でも簡単に獣になる』という言葉がありましたが、解決には労働環境の改善と企業利益の労働者分配率を法制化するような、労働者の権利を社会正義として確立すべき時期ではないかと思います。 

逆に高度成長で成功体験を味わった親世代の問題は、自分の成功体験を子供に投影し求め過ぎたことで、期待の重圧で引き篭もりや危険な分裂病の子供達を増加させてしまったことです。 

この世代の子供達に多いのが親と同じ職業に就いている子供達で、まるでこの線路の上を歩くと無難な人生と親から教えられ忠実のように見えますが、本当に自分自身で選択し決断してない人は人生の何処かでアイデンティー・クライシスが訪れます。 

またこの時代だけに多く存在した専業主婦は、妻が働かなくても生活できるほどに夫に収入があった一億総中流時代だったからで、その後大学進学率上昇で少しずつ主婦のパートが増え、バブル崩壊後のデフレ環境からは派遣社員制度もでき、格差が拡大して行き共働き世帯が増加しました。 

『過不足なくできている』ということは『過ぎたるは及ばざるが如し』にも通じており、知識や体力やお金なども不足し過ぎることも多過ぎることもやはり災いの基に繋がっています。 

ネット通販も含む今の消費行動を見ていても、便利で安くて良い物を購入できる背景には、例えばフランス人にデザインさせたものがファクスで届き、日本から労働力の安い国にファクスとメールで指示し、自社のロゴ入りで製造させ迅速な物流を生かし売れた分だけ補充するという、最小在庫で経営し利益を最大化する科学技術進歩の結果です。 

しかしその弊害も生まれていて、企画・デザイン・製造管理以外は大多数の低賃金の単純労働者だけで運営できることで、結果として若年労働雇用者の多くが低賃金単純労働になり、若年労働者の低賃金と失業率が上昇する不安定に繋がっており、この循環が理解できない人達には、安く手に入るメリットは見えても時間差で訪れるデメリットが見えていないだけです。

格差が広がり底辺が豊かになっていない証に、千九百九十五年の生活保護受給は八十八万人でしたが、二千十一年には倍増の二百万人になっており、現在は約二百十七万人にもなっており、高齢者が半数ですが子持ち世帯も増加しております。 

また一億総中流の時代は好景気な上に高齢者が少なかったので社会保障費負担が格段に少なく、高齢者が多い現在の現役労働者の社会保障費の負担増は可処分所得の減少にも繋がり、その上に年金受給年齢の引き上げ不安では未婚や少子化も当然です。 

賃金統計調査不正なども俯瞰して多面的に時代背景を精査していないと真実は見えず、いつも権力者や経営者に都合のよい数字に粉飾され騙されがちです。

福沢諭吉が『一身独立して一国をなす』と言ったのは、日本人のひとり一人が個として自立していない村社会的な生き方を嘆いた言葉ですが、今も日本が米国の属国状態なのにも似ています。 

それは日頃から個人の良心に従って判断・行動し、その結果に責任を持つという自由さの中で人格形成する家庭環境が日本では少ないためで、人間とは与えられた自由の中で迷い葛藤し決断した時、初めてそれに伴う自分の責任を自覚するようにできているからです。 

太平洋戦争の敗戦時も責任は軍部なのか天皇なのかもあいまいなままであり、戦争で飢えと暴力が支配した軍隊で友を失った経験をして生き残った知識人の中には、なぜ天皇は自害しないのかと落胆・非難した人が数多くおりました。

国体論による天皇の子として戦争に駆り出され、命令した天皇の責任は問われず自害もしないことへの当然の不満でした。 

敗戦の結果が出ても責任が明確できない国は、戦争に突き進んだ決定も実は権力に迎合したムード的なものだったのです。 

敗戦後は進駐軍に迎合し、マスコミも含め手の平を返す国情は変わっておらず、戦争に駆り出され生き残った人達は敗走の中で獣化した人間の姿を見たり、友を見捨てたりした悔恨が戦争への嫌悪感でしたが、このような心情も今は風化しています。

 これには建国と愛国心が関係しており、日本は歴史的に藩への忠

 誠が愛国心だった封建的な文化が長かった弊害で、日本人には建

 国意識による真の愛国心が育っていない精神的な未成熟状態であ

 り、福沢諭吉の言った『一身独立して一国をなす』がまだに国民

 一般にまで浸透していなかった必然の結果と思います。 

 現在の日本の状況も歴史的に俯瞰して捉えると『過不足なくでき

 ている』背景があり、高度成長やバブルという宴の後始末の時期

 が今も続いているのです。 

 こう言うとバブルと縁のなかった世代から不満が出そうですが、

 生物とは生まれるときには親も時代も選択の余地がなく生まれ

 るのが宿命で、戦争の時代に生まれ若くして死んで逝った人達も

 宿命で、むしろ平和な時代の現代においてどう生きるかは努力次

 第で変えられるはずなのに、不足のものを並べ不満を述べている

 人達が多いような気がしています。 

 私の人生を振り返ってみても『過不足なくできている』と思える

 のは、行商時代の辛苦があったから今の固定のお客との信頼関係

 があり、妻と娘の家庭において団欒の平和があった裏に、私の親

 族(特に父)や兄弟による辛苦があり、そのことで私を責めずに

 黙って耐えてくれた妻を失ってから、その妻の思いやりに甘え

 ていた私には悔恨の心情が沸き続けております。 

 全てがコインの裏表のように明暗が過不足なく誰の人生にも存在

 していると思います。