自由からの逃走。

テニス・卓球・バトミントン・サッカーなどの日本人選手の活躍が続き、テレビ報道も含めて十代の若年層への取材内容や方法を見ていて、若くして栄光を手に入れた人達のこれからの長い人生の未来を心配しています。

人は認められ褒められることは気持ちが良く舞い上がるものですが、現在のマスコミ取材に舞い上がり利用され尽くした後にも人生は続き、勝者もいつかは敗者で引退に繋がることも待ち受けているのですが、当事者はまだその自覚もなく若さゆえの怖いもの知らずだから好結果に繋がっている一面もあります。 

世間を知らないことは一種の武器なので無心で取り組めるのですが、結果が出てチヤホヤされてから敗者になり、別な人が好結果でチヤホヤされている状況を横目で見る経験をして、初めて自分が舞い上がっていた時に他者への配慮があったか? を思い知るのが常です。 

そして今度は欲が出て結果を求める邪念が起こりますので、無心で取り組むことができなくなって悪循環に苦しむ人達もおりますが、マスコミは落ち目になると取材をしないので次第に忘れられた存在になった人達が実は沢山おります。 

マスコミニュケイション発達の一番の弊害は、いつも日和見な大衆に迎合した片寄った情報を追いかける週刊誌的報道になったことで、注目された人が集中的に報道されるのは一般の人達も日和見的に日本人選手を応援している人達がほとんどの結果で、まるで自分が成し遂げたような錯覚も見受けられます。 

テレビを例に取ると、注目選手を持ち上げて視聴率を取り、次にその人が落ちぶれた時にスポットを当て落差までも楽しむという手法で、視聴者が無意識に溜飲を下げていることでもう一度視聴率を取る材料にしているのが実態です。

妻が元気な時、テレビで若い人が注目されている様子を見ると『親は嬉しいだろうね』といつも言っておりましたが、私は逆に『この幸せが、先の不幸に繋がっていないか心配です』と返答して、いつも『このひねくれ者』と怒られておりました。

人間の生まれながらに持つ自己顕示欲は、実は自己肯定感によって自分自身を維持するという自己保存本能が働いているからで、それは子供の世界を注視していると非常によく判ります。

子供の世界こそ人間の深層心理の意識構造を判り易く表面化しており、親や社会などの他者から認められることの喜びや否定されることの悲しみなどが鮮明に現われています。 

しかし大人になるということでは、その喜びを目的化すると自分が苦しく辛くなるということを自覚した所から始めないと、一皮むけた成熟に繋げられない試練が待ち受けています。 

それは自分自身が本当に求めているものと、他者から求められているものとの葛藤を通じて乗り越える末に見えてくる、その違いに気付くことで手に入れる新しい世界です。 

成功には喝采をくれるが挫折で見放すようなマスコミに振り回されるのではなく、自分自身が真に求めているものをどんな時も陰で見守り応援してくれている人を自覚できる余裕にも繋がっており、大器晩成型と呼ばれるような人に備わっているものです。 勉強してよい大学に入って大企業に就職して安定した生活を求めていた時代が終わり、一芸に秀でた者が注目される時代を迎えてから、幼少期から一芸のみに特化して子供を育てる傾向が進んでおりますが、中国や昔の旧東ドイツのような共産圏と同じような現象に私には見えてしまいます。 

今読んでいる本は千九百六十年の安保闘争や六十七年からの第一次・二次羽田闘争などの学生運動を細かく分析した上・下二巻の二千ページからなる本(1968・若者達の叛乱とその背景・小熊英二著)ですが、この学生運動の波に飲み込まれた若者達の時代と社会背景を精密な調査資料をもとに書かれております。 

幼少期に戦後の民主教育で育てられ、自由・平等・平和の反戦教育を沁み込まされ育ちながらも、現実は他人を蹴落とすような受験競争の中でエリートを目指し一流大学合格を目的化した思春期に葛藤を棚上げして過ごしたことが原因の根にあります。 

この時代の一流大学合格はエリートコースでしたが、合格した大学で待っていたのはマイク講義によるマスプロ教育(東大でも一教室五百人)という資本家的な教育が実体でしたので、それまでの努力への空虚さと孤立感の中で自己嫌悪に苛まれ、酒と女と麻雀のノンポリ生活がほとんどの状態でした。

一部が学生運動として過激化した背景は、受けてきた教育理念と大学生活で味わった現実の乖離による虚無感で、いずれ生活のために就職しなければならない社会と政治の偽善に気付く理知的な要素も持っていたために、大人になりきれない反逆の若き血潮を燃やすという行為の中で、国家権力へ通じる大学側への反抗が鬱屈の解放をもたらしたことも事実でした。 

連合赤軍のようなリンチに発展した結末で学生運動は閉幕したのですが、何事も閉鎖的な組織の結末は動物の共食いになるようで、それは労働が伴わない青年期特有の理念と現実との折り合いが上手くつけられないという精神的未成熟の結果です。 

葛藤をノンポリで自堕落に消化するか、葛藤に理念を持ち出して権力との闘争で消化するかの分かれ目は、熟読すると実に些細な偶然も作用しています。 

私などは短大に行ってノンポリで過ごし、親の支配から逃れるために東京への就職という理念などとは無縁の青年期でした。 

このように若者達はいつの時代も、教育制度や時代背景や環境によって人格形成され翻弄され葛藤を繰り返すのですが、大人の方は自分が育った時代背景と環境で人格形成された眼で子供に意見し接しているので、お互いに埋められない価値観の微妙なギャップを生じてしまいます。 

日々変化している時代環境に、大人目線で子供を誘導し子供を成功や立身出世に導くことが果たして子供の幸せに繋がっているのか? と思いながら若い人達の成功の姿を眺めておりますが、成功を大人達の考える金銭的なもので判断するのか? 幼少・青年期の考えがちな精神的ものを考慮し優先するのか? の違いでもありますが、その折り合いの決断は子供自身に委ねるべきと私は思っています。

選択が可能な時期では遅いと考える親もいるのですが、私は親が不安を抱えながらも子供を信頼する忍耐を持ち続ける勇気が必要と思った方で、ただ子供自身が決断する時に多くの選択肢を持っているように育ててあげることだけを考えていました。

何事も子供自身が決断したことには、その決断に伴う責任を自明のこととして認識しますので、その自覚が努力を継続することに繋がっていると思うからで、その努力は親のためでない自分自身のためという自覚もきっと存在しているはずです。

私自身は長い人生の不運も不幸も自己責任と引き受けるところから出発しないと、どんな障壁も乗り越えられないと思っているからこのような考え方になったのだと思います。 

現在の極右台頭やポピュリズムの趨勢には、エーリッヒ・フロムの『自由からの逃走』の内容を思い出してしまいます。 

一般的に人は支配と命令を苦痛に感じ自由な決断と平等の扱いを望みますが、いざ自由な決断を与えられると、その決断に責任が伴うことを初めて自覚させられ戸惑うのが人の常です。 

親子や夫婦で議論を避ける家族は、その議論に伴う責任を無意識に察知しているから回避し続けているのです。 

フロムはこのような目に見えない無意識の人間行動を『自由からの逃走』と表現しておりますが、人間は社会的な場面においても、自由と責任の重荷に耐え切れなくなると、全てを極端な指導者に丸投げする無責任な行為に出ており、この自由から逃走する民衆が増加するとファシズムが台頭するという趣旨でした。 なぜファシズムが台頭するかは、独裁者は常に人の弱みにつけこんで権力を手に入れる特性と才能を人間性として身に付けているからです。 

逆に弱者に優しい人は独裁的には決して振舞えない人間性だから弱者にも優しいのです。 

現在の世界的な極右やポピュリズムの兆候を思うと、今の大人も青年期のような鬱屈と不安に苛まれ不安に陥っているからと思うのですが、その元凶は搾取の進行と格差拡大が目に見えるようになり、他人事とは思えず自分にも忍び寄って来ているような恐怖の実感ではないかと思っています。 

高度成長の時は誰もが楽観的で『そのうち何とかなるだろう』でしたが、搾取と格差が拡大し長く持続すると急に悲観的になり権力に迎合したり忖度したりし始め、無意識に自分自身の持つ自由と責任から逃走を計るのです。

 こんなことを書いていたら二十年前に娘に言われた言葉を想い出

 しました。 

 娘が東京の大学に旅立つ前日の夕方店に降りて来て、お父さんに

 旅立つ前に言っておきたいことがある『勉強しろとか??しろと

 か言わず、自分で選択し自分で決めなさいと言われ育ったが、友

 達の親のように指図される方が楽だったと思う。自由ほど不自由

 なことはかった』と言われました。 

 上手いことを言うと感心しながらも、『これからの四年間の自由

 な生活の練習になったのでは?』と答えましたが、『そんなこと

 は判っている! でもこの決断の大変さだけはお父さんに言って

 おきたかったの!』という言葉に、自由から逃走しなかった娘の

 十八年間の苦悩が私の胸深くに伝わって来ました。 

 今その娘も親になり家族それぞれの選択肢における葛藤を抱える

 人生の中で、家族それぞれの自由に伴う責任を果たし続けること

 を見守ることの難しさを周回遅れで味わっていると思います。

 何気ない日常の中で、家族それぞれが見守り合いながら育み合う

 努力の積み重ねが、家族それぞれの『自由からの逃走』を阻止す

 る未来の力に繋がっていると私は思っています。