等価交換的思考の蔓延。

交番襲撃による犯罪が連続して起こり、類似無差別殺人の犯人像証言は決まり文句のように『挨拶もする、おとなしい人』が多いのですが、人間とは表面的なもので深層は計り知れない闇を抱えて生きているやっかいな動物です。 

誰でも社会的には建前と本音を使い分けて生きているもので、真の危険人物とは過剰に本音を日常的に押さえ込んでおり、その分過剰に建前を飾っている人間なので、その抑圧の反作用としての暴発は『誰でもよかった』という狂気への橋を渡ってしまうような気がします。 

人間とは多面的な生き物で、特に相反する極端な二面的な要素は『天才と狂気は紙一重』のように、非常に危うい表裏の関係性を持っています。 

苦痛と快楽・幸運と不運・愛と残酷なども紙一重の要素を内包しており、丁半博打のようで善と出るか?  悪と出るか? は偶然より実は必然で、社会的に孤立すると邪悪なものが肥大し始め、本人が制御できないほどに肥大した時、社会的な建前の理性を失い狂気を生み出します。 

狼に育てられた子供のように、人間とは社会的な動物で後天的な養育環境が、先天的な要素より大きく人間性に作用する動物で、先天的に持つ才能に後天的環境(特に係わった人間)が過剰な正か? 負か? 極端な形で係わった時、天才や狂気になるような気がしています。 

本当に幸せなのは凡人で、感受性が敏感な人の環境や、人生の中で出会う人が正と負の重要な分岐点になっています。 

そう思う根拠が私自身の中にもあり、私の中の危険な要素を包んでくれた妻との出逢いや、過剰な感受性を受け止め認めてくれた人との出逢いがなかったらと思うと、私自身も狂気の橋を渡っていたのでは? と思うことが度々あったからです。 

そんな出逢いのお陰で、自己を俯瞰して眺めるために数々の本を読みあさり、自我の視点からだけでなく様々な視点から見て考えることを学び、一線を守ってこられたと思っております。 

サディズムという言葉は淫猥にして残酷で背徳的な書物を書いたマルキ・ド・サド侯爵の名前が由来ですが、彼は結婚し息子二人・娘一人を持った後に暴行・毒殺未遂の罪で獄中生活をしている間に多くの書物を書きましたが、あまりに有毒なために当時は禁書になりました。 

しかし没後この書物が日本でも翻訳されるほどに世に出てきた背景には、文化の成熟と共に人間の持つ背徳的なものと、文学的な要素が認められたからです。 

一般によく『無邪気な子供』と言いますが、子供にもちゃんと邪気はあります。 

弱者である子供も生き残るために、本音と建前を本能的に使い分けており、その邪気は自分より弱者か? 邪気を受け入れ容認してくれる人をきちんと峻別して発散しています。 

一般人の前では大人しい知的障害者が、施設では自分より弱者をいじめているということを、施設で働いている人からお聞きした時、初めは驚かされましたが、生来持つ人間の邪気を思い納得したことは鮮明に覚えております。 

邪悪で暴力的な面も、慈愛と優しさに満ちた両面を併せ持つのが人間で、この両面のどちらを抑制し、どちらを肥大させるかは両親や祖父母だけでなく、その人が人生で係わる全ての人との出会いなど、複雑な人間関係が人格形成を織り成しています。 

大切なことは、できれば幼児期に人間の持つ邪悪さを安心して出せる、自我を受け入れ認めてくれる人を両親以外に持つことが最良ではないか? と思っています。 

両親の愛と躾で自己規制や自己管理を学び、慈愛に包まれた人との環境で邪悪さを適度に放出して育つような、バランスの良い養育環境が最良と思います。 

私の娘の場合は遠く離れた妻の実家が受容環境だったので、私が意識的に邪悪さを織り交ぜたことを想い出します。 

娘が中学生の時にクラスの不良男子が万引きを自慢していると、咀嚼なしの丸呑みした正義感に怒りを感じた私は『ただで手に入るのだから、安易に非難しないでやってごらん』と言ったら『捕まったらどうする』と怒るので『お父さんがやれと言った』と警察に言いなさいという問答しました。 

万引きをする同級生への安易な非難で済ませずに、警察官に問い詰められ謝罪する私の姿を娘が目の当たりにする方が、娘の倫理観形成に役立つと思ったからです。

その後『できなかった』と娘が言った時、『あなた自身の中に、悪いことを抑制できる倫理がある証明です』と謝罪しました。

現在の私は四歳の孫と接している時、なるべく邪悪なものを引き出し放出させる受容対象になるように努めていますが、次女の五ヵ月の孫が成長し放出できるまで元気でいて、その役目を果たせるよう日常生活に留意していますが、果たしてどこまで体が持つのか? とりあえず頑張っています。 

毒と薬と言いますが、毒を薄め少量使用しているのが薬の実体で、人間もすべての人がその人なりの毒を持っていますが、自分の持つ毒を自覚できた人間だけが、その毒を薬に変えられるので非常に魅力的な人間に変身できると思います。 

妻が私に『本当に小生意気なひねくれ者ね』や『私の忠犬・番犬でしょう』と言い、私が妻に『お母さんは本当に頭が悪いね』や『お母さんは離し飼いの野良犬です』と言っても、お互いが飼い主である自覚の上で毒を吐き合える受容関係こそが、愛情という甘い餡を少し苦みを効かせた悪口の薄皮で包み込んだ饅頭みたいなものになり、実はお互いに安心して毒を吐き出し合える薬の役目を果たしますので、子供が旅立った熟年の夫婦生活にコクという旨みを出すような潤滑油になっていたのです。 

今後は孫達二人に妻との潤滑油応用編を楽しみにしており、相手が間違いや失敗した時に揶揄するように『お母さん素敵!』や、妻の言動に嫌悪感を覚えた時の『嫌いになりそうだから、やめて!』などの反語的な対応で、孫達二人の持って生まれた毒を少しずつ薄めて行って薬にしたいと思っています。 

人間社会は比較と競争の連続で、特に若い時はその結果に一喜一憂しがちですが、自分のやりたいことを確実にやってのけるような稀有な人になれない人がほとんどですので、そんな時に負け惜しみの偽善を演じないで、等身大の自分を認め曝け出す勇気も孫達には身に付けて欲しいと願っています。 

現実の社会生活には矛盾や逆説が内包しており、無道徳なことを書く著作者が実生活では道徳的な振る舞いだったり、道徳的な言動の多い人が陰で無道徳なことをしていたりなど、多面的で複雑な実態など見えないのが人間です。 

人間の悪徳な概念が自然の衝動として残虐性だけに向かう時、意外と理性的な認識で行っている獣性が人間の中にはあると、

サド侯爵は牢獄の中で認識し創作活動に励んだそうです。 

何事にも反動があり、牢獄の禁欲生活が淫猥な性の解放の創作という気晴らしに向かわせたようで、貞淑な妻との精神的な繋がりを維持し、妻も牢内の夫に献身的に尽くしたノーマルな夫婦生活だったそうです。 

しかし公爵夫人は夫の出獄と同時に離婚を望み、すぐに修道院に入ってしまったことは謎のままです。 

人間の持つ謎と不可解さは、人生を織り成す縦糸と横糸の種類や色などの組み合わせと、時代状況や人間関係にも翻弄されていますので人間の持つ謎は人間の数だけあります。 

一般に見受けられる不良少年や少女などは、不良行為で邪気を発散しているので、危機の時期を乗り越えると安心です。 

不良行為は『承認欲求』の発散で、逆に承認欲求を抑圧している人の方が確実に危険人物です。

 人間の邪気を抑制し自愛と慈愛を育てるものは、自分が健康で存

 在していることを切に望まれている感覚である『承認の愛』を受

 け取ることや、社会や誰かに必要とされる体験で自己肯定感を

 確認できることが一番の薬になります。

 男の子に多い引き篭もりなどは自己抑圧と承認不足で、このタイ

 プの無差別殺人は抑圧された自己顕示欲の暴発で、健全な形で 

 邪気が放出できていない心の不均衡が、孤立によって増幅された

 自己否定への反撃行動なので、歪んだ『誰でもよかった』という

 社会への報復に繋がります。

 女の子の場合の心の歪みは援助交際のような『セックスとお金の

 等価交換』行為などや、最近多いお金持ちの社長と結婚して離婚

 などの『結婚と地位の等価交換』などに表出します。

 これは間違った資本主義の『等価交換』思想が文化として一般に

 沁み込み過ぎた弊害で、恋愛や結婚にまで無意識に働いているよ

 うで、愛とセックスをセットで考える男女の減少が根底にある

 からと思っています。

 援助交際などは無意識ですがまるごと資本主義的な思考で、セッ

 クスでお金を稼ぐことも労働と捉えている錯覚で、その錯覚 

 は愛とセックスは別物と考えていることにも繋がっています。 

  贅沢な奢侈や快楽を得る為の労働と愛情との境界が曖昧になっ

 た心の歪みは、いずれ若さという根拠のない自信が損なわれ出す

 と、漠たる不安に苛まれ自尊心も自我も崩壊し始めます。

 人間は誰でも労働との等価交換でお金を得て、実は自尊心を維持

 しているのですが、その労働の中身を知る自分自身は決して騙せ

 ないことを必ず思い知らされる時が訪れます。

 人間は自分の果たした労働の内容が、自分の自尊心に誇りを持

 てる等価交換であることだけに充実感を持つように実はできて

 おり、その等価交換として選択した対象そのものがその人の人

 間であって、その人間性はその人の心の中の邪悪さと慈愛の割

 合決っているとも思っています。

 有名大学の学生による集団強姦事件なども、知識と人間性も等価

 交換的に評価している社会風潮が影響しており、そのような社会

 評価に傲慢になり、何をやっても許されるように錯覚させた遠因

 もあると考えています。

 私の推察ですが、もし邪悪さの放出と自覚の機会が適度に行わ

 て、健全な形で『承認欲求』が満たされ成長すれば、『愛情とお

 金は等価交換できない』という思考はごく自然に沁み込むもの

 と信じております。

 愛情には等価交換的な思考は一切なく、無償で一方的に授けたく

 なるものであり、その無償行為を果たすために逆に勇気が湧き出

 てくるもので、愛情こそが人間に強さを与えてくれます。

 搾取からは傲慢が、贈与からは勇気や強さが生まれます。

 何気ない日常の出来事や事件の中に、資本主義の金銭万能主義が

 現代人の心を浸食し、全ての人間関係が商取引のような等価交換

 的思考になり、資本主義的豊かさ拡大の副作用汚染として、現

 代人の精神を根腐れさせていような気がしています。