ブラックアウトの二日間。

胆振東部地震の犠牲者や被災者の辛苦を思うと、私の二日間は不謹慎に思われるかも知れませんが、ブラックアウトという停電期間に私が味わった思いを書いてみます。 

夜中に激しい揺れで目が開いた時、いつものように妻を守る相手を失ったことを自覚すると、地震の恐ろしさなど微塵も感じていない自分に驚きながらも、娘達は婿殿が昔の私のように奮闘していると思う安心から、ただ揺れに任せて余震の時も身を起こさず、早朝に娘から電話がくるまで過去の災害時に家族を守るために自分が行動していた数々の出来事を思い返し、ただただ揺れに任せてベッドで過ごしておりました。 

守るべき相手がいなくなってからは、緊急時の備えも考慮しなくなっていたので、停電を知ってからも『なるようにしかならない』と開き直っていましたが、取りあえずトイレ用の水を確保するために風呂の水を満杯にしました。 

朝電話で娘に来るように言われたので訪問すると朝食を戴き、孫と遊んでいたら昼食の時間と呼ばれご馳走になり、婿殿に夕食のおにぎりを頂き帰宅するまで孫と遊び呆けておりました。 

婿殿に車のテレビで情報が得られると聞いていたので、蝋燭の火で夕食を済ませ車の中で歯磨きをしながら震源地の被害の悲惨さを知りとても驚きました。 

幸いにも私の所は水道とガスが使用できましたので、冷蔵庫の残り物と婿殿に頂いたおにぎりで、二日間の停電期間の食事は無事過ごせました。 

ただ電気がない夜間の時間は長く感じるもので、店も休業しましたので四歳の孫に二日間遊んで貰えなかったら私の心の中の空虚感は相当なものだっただろうと振り返って思います。

人間の生きる力は、誰かに必要とされ誰かの役に立っているという自尊心によって、かろうじて支えられているもので、日常に持つ金銭欲などは真の生きる力ではない単なる自己顕示欲で、災害や緊急時には人情も含めて人間性が表面化してきます。 

店は休業でしたので食事と睡眠時間以外は四歳の孫と過ごしドライブしながらシリトリしたり公園で遊んだり、込み合うコンビニで孫の欲しがるシールを買った時は店員さんが思わずにっこりしており、緊急時とは思えない二人の楽しい時間を二日間も楽しんだと思っています。 

沢山の新しい公園も二人で発見し、孫も全ての遊具に挑戦し家来の私は補助役でしたが、遊び中に突然『おしっこ』の時は、失礼して草むらでさせると大喜びしておりました。 

公園では多くの子供達がおり、即席の友達同士になり一~二時間近く遊んだ姉妹は、ご両親が医療関係のお仕事で近くの祖父母の家に来ているとのことでしたが、お婆ちゃんが迎えに来ても帰らず私達と遊んでいたのも、不安を抱えている心の気晴らしを欲しているからで、初めての大きな地震の経験は子供に恐怖心という心の葛藤を強いていると思うと、遊びの中で何かと姉妹を褒めずにはいられませんでした。 

最後にお爺ちゃんも来て帰る時の名残惜しそうな様子には、共働き世帯の日常の中で子供が学んでいる忍耐を思い測りながら、子供が親を察している健気さを肌で感じ、私は少しでも長く元気で過ごし孫二人の成長の力になってあげたいと思い、健康に留意した食生活と運動の継続を改めて決心しました。 

二日目の夕方ドライブ中にスーパーの電気が点いていたので入店し、レタスなどを購入すると『ガチャガチャ』したいと言うのでさせて、これでお家に帰ったら今日はお別れだから『泣かないでね!』と念を押すと、自尊心から怒り気味に『泣かないも』と言った後、突然『??お腹すいた、あそこのお肉買って!』と言うので見たら焼き鳥を売っている車があり、遊び呆けた空きっ腹が匂いに誘われたようでした。 

娘と婿殿の分も注文し、焼けるまで又スーパーに入り下着売り場を探検して歩き、帰宅車中でシリトリしていたら『眠いから、話しかけないで』と言われたので、眠らせないように機嫌をとって急いで帰宅し、別れ際に『今日も楽しかったね、ありがとう』というと涙目で渋々納得しておりました。

娘のメールによると、この二日間の孫は夕飯を食べながらコックリしていて熟睡だったようですが、私も歯磨きしながら眠っておりましたので、私と孫にとっては非常時を逆手にとり楽しみに変えた怒涛の二日間だったと思います。 

いつも思うことですが、人は何かを失った時、実は何かを得ているものです。 

最近妻を失った代わりに得たものが三年近くなってボンヤリですが感じるものがあり、今回私は地震と停電で日常を失った代わりに得た、今までにはあり得ない孫との非日常の濃密な時間を過ごせましたし、普段は孫の介入で夫婦の会話がままならない娘達には会話の時間もでき、忙しい婿殿には少し退屈でも休養になったのではないか? と私は思っております。 

この二日間のドライブ中に孫が何度か言った『マー君爺は、あんぽんたんだけど優しいね』の言葉は私の宝物で、想い出しながら寝ると寝付きがよくなりました。 

これは孫の保育園送りを頼まれた時、少し公園で遊んでから別れる時に抱きつき泣くので、一ヶ月程前に保育園に着いた時『マー君爺はあんぽんたんだけど、??ちゃんはお利口さんだから泣かないで頑張ってね』と褒め励ましたのですが、『あんぽんたんって教えて』と言うので、『保育園の先生に聞いてごらん、』と言うと元気良く『うん』と答えた経緯がありました。 

後日、保育園の先生が私に『マー君爺は、あんぽんたんなんですか?』と聞くので、『はい』と言うと嬉しそうににっこり微笑んでおりました。 

最近は孫にこの言葉を言われると『マー君爺は、褒められたら伸びるタイプなので褒めて欲しい~』と頼むのですが、孫はいつも『駄目!』と言って意味深な笑いをして見ます。 

今日はダンボール一杯の食料を届けてくれた人があったり、書留で御見舞いを頂いたり、停電中に孫と高齢一人暮らしのお客様を尋ねたお礼など、孫との絆のように平常時の日常の中と、非常時の大変さの中という表裏に人間としての生きる意味がたくさん詰まっています。 

平常時には人間の欲で、節度を越えた強欲に走る人達を多く見かけますが、その代わりに失ったものは当人だけが忘れた頃に思い知るのですが、その時に強欲で得たものを貢物にしても『覆水盆に帰らず』で、その後悔を一生背負って生きなければならないのは、その人の人間性がもたらした人生の結果だからです。 

平凡な日常時から、お金では売り買いできない他者への思いを自覚し、生きる力の源になる心の絆に繋げたいものです。