デカルトの『情念論』

前のブログで私なりの解釈で『情念』について述べましたが、間違っていると困るので哲学者デカルトが書いた『情念論』を読みましたので要約してご報告しておきます。 

流石に哲学者の書いた情念論は細部にわたり、情念の項目数や医学的見地でも、あの頃の時代とは思えない知識量でした。 

まず情念とは精気が脳中央部の小腺を動かす動揺であり、基本的情念は驚き・愛・憎しみ・欲望・喜び・悲しみの六つに大別され、この情念の刺激によって身体を害から守り、益として自らの身体へ意欲を仕向けるようにするために情念は存在していると定義しています。 

順位として一番が驚異(恐れ)で、人間は最初に出会ったものや想像と異なるものに驚き、それが自分にとって益するものか? 害なものか? を知るまでは怖れ警戒し、愛憎のように反対感情が存在しないもの。 

二番目が愛で、或る人や物が我々に対して善き・適するものと判断すると愛する対象になり、悪しき有害と判断すると反対感情の三番目の憎しみの対象になる。 

四番目が欲望で、いまだ持たざる善きものを獲得しようと望むことや、悪しきものを避けようと望むことだが、全て己の未来と関係して起こる情念で、これにも反対感情はありません。 

五番目の喜びは、眼前にある善きものを見ることが我々の心に喜びを起こし、悪しきものを見ることが六番目の悲しみ(嫌悪感)の感情を引き起こす。 

これら六つの情念が複雑に交差して様々な感情表現の細部の言葉となる情念へと波及します。 

例えば或る物の偉大さに驚き尊重することで高邁な精神(雄大・寛大な心)に繋がったり、驚いた対象の矮小さに軽侮したり・傲慢・謙遜や卑屈などの精神に繋がったりして、人それぞれの情念が起こり、次いでその習慣化が起こると述べています。 

複雑に関連している例として、意に叶うものを手に入れたいという欲望は、快から生じる欲望で手に入れると喜びになります。 悪を避けるための欲望は忌避や嫌悪という不快から生じる欲望で、有害なものから離れようとする。 

人間は欲望を持つと精気がみなぎり、感覚も鋭敏になり体も活発になり、適する対象との結合を求める情緒で溢れると、血流がよくなって顔が紅潮し、有害な対象から逃れようとする情緒が溢れると、嫌悪感で血流が悪くなり顔は青ざめる。 

デカルトが驚異(恐れ)を一番にあげている理由を、新奇異様なものに遭遇した時、心をして熟慮に導き、次に精気の運動として筋肉内に移動すると述べていますが、この一連が生存に繋がっているからです。 

幼児ほど経験知が少ないので驚き恐がりますが、この克服法としてその対象への知識獲得と、新奇異様なものを学び記憶して有用に活用するなど、珍奇な出来事への考察力を磨く以外に方法はないと述べたあと、生来新奇異様なものへの驚きが少ない人は無知なのだと切り捨てていますが、一般的には幼児期の恐れを持たない無知な行為を、勇敢と勘違いしている大人が多くいます。 

前に私が情念に興奮が伴うと危険と書いたことに類似していることを、デカルトは理性ではなく感覚による快・不快の情念が最も強烈な情念であり、愛や憎しみに到るときに最も誤りやすいものであると述べていました。 

面白かったのは悲しみの効用で、悲しみは自制と危険を自覚させ人を慎重にする効用がある。 

反対に過度な喜びは、その喜びのために人を軽率無謀にする危険があり、一般的な悲しみを避け喜びを過度に求めることを戒めています。 

愛については、最も種類が多く細分化されるが、大きく二つに分けて、①愛する者のために善きことを願う愛。 ②愛する者を欲して獲得しようとする愛に分けています。 

その他に自分以下の人には情愛、同等の人には友愛、相手を尊ぶ時の献身愛などを細かく述べておりましたが、私が最も尊い愛と思っている自己犠牲的愛については残念ながら書いていませんでした。 

また怒りとは、禍を退ける力を与えてくれるのには役立つが、過度の怒りは判断を乱し、悔いを残すような過ちに繋がると述べており、過度の怒りに走らせているものは、何よりもその人の傲慢の情であり、その最良の薬になるものが高邁の精神であると述べていました。 

デカルトはこの高邁の精神こそが諸情念に対する一般的療法として大切であると締めくくっております。 

情念の働きの何たるかを知り、熟慮と工夫を自己の内部で峻別する鍛錬を積み続けると、天性の短所をも矯正できると鍛錬法を述べています。 

我々の情念が或ることを促し勧める時、それが実行までわずかでも余裕があれば、即座に判断を下すことを慎み、血液中の興奮が十分に鎮まるまで、他の考えで気を紛らわすべきである。 

しかし危険で即決を要する行動を情念が勧めた場合は、その情念と反対の行動をとる強い意志を持たねばならない。 

それは恐怖に襲われた時、抵抗が安全で名誉であると考えたり、せまる危険から思いをそらそうと試みたりする傾向があるからで、多勢に無勢なら堂々と退き避難した方が良いと述べています。 

デカルトの情念論の結びは、『人生の善悪は、全てかかって情念にある』で結んでいて、心には心だけの快楽がありうるが、心と身体の共通の快楽こそ情念の左右するところなので、情念に強く動かされる人が無上の悦びをこの世で味わうことができると情念を肯定しています。 

しかし情念の活用を知らず、運命に恵まれない場合、その人は無上の苦しみを見出すこともありうる。 

知恵が有用であるのは、知恵が情念を完全に支配し、情念を巧みに処理することを教える点にある。 

その結果として、情念の惹き起こす禍も耐えやすいものになる以上に、全ての禍からさえも喜びを引き出すこともできるのである と結んでいますが、そのための最良薬は高邁の精神を身につけることであると繰り返し述べていました。 

私には寛大・寛容という高邁な精神が身に付いていないので、嫌な情念に取りつかれそうな時は、行動や運動で紛らわす以外にないように思っています。

昔読んだデカルトの本で『優柔不断は最大の悪だ』と繰り返し述べていて最後まで説明されていませんでしたが、今回情念論を読んでみて、私なりにやっと繋がったような気持ちがしました。

人は悩み苦しむ情念に苛まれた時、決して解決しない情念でも考え続ける傾向があり、苦しみに取り込まれるのが実情です。

きっとデカルトはこの情念を巧みに処理する知恵に到達できずに苦しんでいることが優柔不断で、同じ所を廻っているような堂々巡りを繰り返して、自分や他者を傷つけている事態を招いていると言っているようです。 

人生は賭けごとの博打のように二者択一であり、どんなに情念に苛まれ悩み苦しんでも解決せず、全ては決断からしか何も生まれないとデカルトは言っているようです。 

保育園に通っている孫は運動会のピストルの音が恐く、過去二年間は先生にしがみつき離れませんでした。 

しかし今年は耳に手を当て我慢して先生と手を繋ぎ耐えていましたが、自分の番の徒競走になり『果たしてどうするか?』と思っていたら、ピストルの音が鳴るまで耳を塞ぎ、鳴り終わった瞬間に走り出していました。 

初めて徒競走を走ったのですが、恐怖のピストルの音の意味を二年間で知り、恐怖の情念に怯え優柔不断の中で葛藤し、学びから決断して走ったのです。 

安全な音と少しずつ認識できた社会性の獲得と共に、恐怖という情念に負けて走らないか? 打ち勝って走る決断をするか? これも二者択一の賭けと一緒です。 

成長と共に孫の心では『何が正しいか?』は判っていたのですが、実は決断できない自分の優柔不断と葛藤し決断したことが自信になります。 

その間黙って見守り続け待つ忍耐が子育てで、親が忍耐した分だけ子供は忍耐強くなっているものです。

彼女が決断し彼女自身で解決したことが未来へ繋がる布石になっており、次のハードルでも葛藤し悩み苦しんでも、全ては決断すること以外に解決がないと身を持って学習したことが意味を持ち大切で、その積み重ねが自分自身の力を信じる自信となり、成長と共に逞しい生きる力になって行きます。 

デカルトが『優柔不断は最大の悪だ』と言った私の解釈が正しいか? は疑問ですが、人間としての成熟のために決断こそが行動へ繋がる善であることは間違いないと思います。 

人間社会の娯楽には賭け事の要素が必ず存在しているのは、この運まかせの勝負事においては誰もが確実に平等であり、全ては個人の決断という挑戦しか残されていない状況に追い込まれた時にこそ、人間は魂の本性を揺さぶられ己の生を実感するからだと思います。 

だから怠惰な倦怠感に囚われている人達ほど博打的な行為に走るのは、決断時に血が沸き騒ぐ人間の生への本性に従っている行為だからで、倦怠感をごまかして逃れているのです。

デカルトの倦怠から抜け出る方法は、倦怠の情念から抜け出す知恵を働かせて正しい決断をする勇気を持つことで、迷いから逃げずに反対の決断をすることこそが、生きている実感を真に味わうことで高邁の精神に繋がると述べています。 

私自身が競馬やパチンコにはまり込んだ時なども、状況的に解決できないという情念に苛まれ、突破する決断の勇気が持てない倦怠感からの逃避だったのだと今は思い到ります。 

『情念論』でデカルトは二百十二項目にわたって述べており、『方法序説』では理性的に考える方法なども書いております。 哲学者・中島義道氏は、実利を伴わない哲学は学問ではないと言って、『知が欠乏しているので知を求める』のがフィロソフィの意味である、お金のような実利のみを求める現代人にとって、もう哲学は無意味なものになったと嘆いていました。 

言葉とお金の発明が人類を驚異的に進化させたのですが、便利な豊かさを手に入れた代わりに、誰もが『もやもやとした不安感に苛まれている』時代になっておりますが、それは物の豊かさに人間の心の豊かさが追い付かず、逆に貧しくなっているからで、自殺・鬱病・過労死・権力者の不正・格差拡大なども人の心が貧しくなっている結果で、こんな今ほど逆に実利を伴わない哲学が必要のような気がしております。

どんなに贅沢な生活をしたり権力を持ったりしても、人は何も持って行けず裸の身ひとつでひとり死んでいくのです。

それなら実践の人・デカルトのように、お金や地位や名誉のようには決して色あせない、『本当にやりたいこと』で人生の決断を積み重ねる心の想い出をもっと大切にしないと、きっと虚しく死を迎えるような気がするのは、私自身に死が間近に迫っているからかな? とも思っています。

こう書いた瞬間、『また負け犬の遠吠えかい』と妻の声が聞こえてきました。