情念。

妻の死後一年を経過した頃から、今もここに妻はいると思えるようになり、最近は一日に一度は新井満氏の《千の風になって》を聞いています。 

聞くたびに寂しさで胸は痛むのですが、それでも毎日聞くのは《人間は二度死ぬ》という言葉が胸に沁みているからです。 

一度目は肉体的な死で、二度目は全ての人の記憶から忘れられた時に完全な死を迎えるという趣旨で、その時に何とも言えぬ生の虚しさを味わった記憶があるので、せめて私が生きている間は切なさに耐えても毎日妻を想い暮そうと思ったからです。

しかしその度に一緒に暮した頃の喜びや、支え合った四十二年間の同士を失った悲しみの情念に苛まれるのも確かで、その動揺から平静さを取り戻す難行の毎日の中で、情念には理性で立ち向かうのは無理と思い知りました。 

理性は情念には勝てないと思い知ったのは偶然で、嫌々ながら溜まっていたワイシャツのアイロンがけを始め、皺にならないように集中している最中に突然気が付きました。 

人間の持つ悲しみ・愛憎・嫉妬・恐怖・欲・絶望などの強い感情である情念は、決して理性などでは抑えることができなくて、むしろ逆に理性的に考えるほどその情念の虜になっており、世俗の争いや事件に発展しているように逆効果と思い知りました。 ここから学んだことは囚われた情念を意志の力で振り払うことはできないが、辛い運動や面倒な仕事に取り組むと薄められると思い知らされました。 

若い頃に大きな借財を背負っていた時、トライアスロンのトレーニングを早朝にしていたのと同じで、現在高齢になった私の情念を振り払う克服法として最適なことは、自分の手を使って行う料理やトイレ掃除やアイロンがけ等の少し嫌で面倒な仕事や体操やストレッチ等の運動や行動なのだと納得させられました。 

店にいる時より自宅にいる時の方が、この情念に囚われ易いのは社会と繋がっていないための孤立感で、人は誰しも孤立すると憂鬱な悲観主義に陥るのですが、そんな時ほど未来を考え想像することを止め、今の目の前のことに集中して体を動かすという行動と運動だけが心を健全な状態に戻してくれるようで、その目の前のものをやり遂げた時、逆に楽観主義に転換されていることにも気付かされました。 

その理由は恐らく悲観主義はいつも気分が作用して陥るのですが、楽観主義に持って行くには自分自身の意志による行動の力が必要になるからと思います。 

人間は何も行動しないで考えていると、悪い可能性の方向に迷い込み、未来への期待より恐れを想像して悩むようで、恐怖感を生み出すものは自分自身の想像力なのだと思います。 

しかし皮肉なことに嫌な事柄ほど進んで行うと、結果は心地良くなっているもので、私なども苦労してできた料理が美味しく満足できた時、自分の隠された能力が花開いたような喜びが美味しさと共に込み上げ、妻の写真を眺めて『一度はご馳走したかったよ』と自慢げに写真に話しかけております。  

プロのピアニストが演奏本番前に緊張するのも想像力による恐怖で《もし失敗したら》と考えるからですが、いざ指が動き出したら演奏という現実対応に心が集中するので、恐怖という緊張から胸の中が解放され指の動きは滑らかになっています。 

このように恐怖による緊張(情念)を解放するのも行動を起こす以外なく、もし大きな情念を背負ってしまったら、行動を躊躇したくなるような面倒な事柄に立ち向かう方が良薬で、私の場合はアイロンがけとレシピを見ながら作るのに二時間近くかかる料理とトイレ掃除が最適のようです。 

ひとりになってからは疲労を溜めないように配慮しながら、情念という不機嫌になるものに入り込まれないように、上手く時間の隙間を埋めるように心掛けていますが、取り組み内容は成果が見え確認できるような事柄で、自分自身の心が前向きになれるものが良いと思います。

また行動内容で最も大切なことは、自分の行動に対し自分自身が主導権を持つことが肝要で、過労死などが起こるのも労働時間だけでなく、自分の意志を塞がれた不快な仕事を長時間続けさせられているからで、その結果として重苦しい疲労感で眠りが浅く疲れも取れず、意欲が減退する中で無理をするから体も疲弊し切ってしまうから、若くても突然死に到るのだと思います。 

逆に自らの意志の刻印を残せるような仕事をしている人は、無理をしても満足感と充実感でぐっすりと眠るので、疲れが取れ翌日には体力も回復していると思います。 

人間にとって自分で考え自分の意志で困難な仕事を成し遂げることが最上の喜びで、最悪は支配・命令でやらされている仕事と、嫌な上司の命令や邪魔でいつも自分の仕事が中断されるような環境に置かれていることです。 

人間はやらされることは苦痛で、自らの意志でやることは目的意識で苦痛が少ないという精神構造にできています。 

仕事でもスポーツでも他者と共同で困難な仕事に向かい、ある程度の自由と工夫の裁量を与えられて行うことほど楽しいことはなく、今回のワールドカップサッカー日本代表のように実力以上の結果に繋がるのは、協同の目標への努力や苦悩が快楽になっているからで、この矛盾は結果が予測できない快楽を求め楽しむ傾向が人間の脳に潜在力としてあるからです。 

私も若い時に寂しさや虚しさを快楽でごまかしたことがありますが、所詮快楽が前提の快楽は予想された快楽でしかないので決して満足感は残らず、逆に前より虚しくなったものです。 

同じようなことは抽象的な情念の『幸福』についても言えることで、家や財産をもらってどんなに幸せの条件を整えスタートしても決して幸せは手に入りません。

所詮人からもらった幸せは逃げて行くもので、幸せという感情の情念も、自分達の日常行動で作り上げながら得たという、苦しみや学びを共に乗り越えた実感の記憶が脳に存在することが必要だからと思います。 

ひとつひとつを手に入れる苦しみの経験の中で、日々生まれている葛藤や内省を通じて手に入れた幸せが実感を伴い本物なのは、決して自分自身の記憶を欺くことはできないからです。 

大切なことは毎日の生活で退屈をしないように心掛けることで、世間における意地悪と言われる人達は退屈によって不満になり、その不満による倦怠感から意地悪をしているのです。 

狂気の事件を起こす人達は、この倦怠感による深刻な不幸と、心の中にある純粋な邪悪さを併せ持ってしまった結果です。 

倦怠感の持っている人は不機嫌で礼儀も忘れているので、、必然的に廻りの人達も不機嫌にさせているから、結果としていつも孤立無援の悪循環に陥っているのです。 

倦怠感の原因も実は不機嫌にあるので、大事なことは上機嫌になるように努めることで、上機嫌になれば自然と礼儀をわきまえ、上機嫌な顔や態度で人に接すると幸運もいずれ訪れます。 

忙しいとは心が亡びると書きますが、暇で過ごし倦怠感や寂しさを抱えすぎることも危険なことで、全ては意志の力でバランスを取り楽観主義に繋げ、生産的な行動をとるか? 運動で体を動かすか? 以外に策はないと思います。 

誰でも実態のない幸せを想像していますが、現実は想像したような幸せは決して手に入ったりはしません。 

現実の幸せは毎日行動し実行することでしか手に入れることができない、誰の目にも見えない本人の情念です。 

特に幸せという感情は捉え方次第で、不足や不平を嘆いて際限のない欲望を持つといつも不幸であり、逆に健康でも今自分に残っているものに感謝できたら幸せな気持ちになるように、人間はこの見る角度や捉え方で次第で幸せにも不幸にもなります。 

一般に文学や絵画などを想像したものを表現しているように考えがちですが、絵画も文章も書き始めるという行動を起こしてからイメージが膨らみ、人物・背景・色彩・構成として完成するもので、同じ人間でも二度と同じ絵も文章も書けない(描けない)ことを経験者は知っています。 

幸せとは行動による実質的なもので形作られるので必ず想像とは違っていて、同じ人間同士でも時間軸によって幸せの形も変化しており、ある時点の対応が違っていたら真逆の結果になっていることもあると思います。 

 

また『運』とは運ぶと書くように落ちてくるものではなく、幸運も悪運も本人の人間性が運んでいるものですので、かなりの確率で不幸を避け幸せに近づいて行く方法はあると思います。 

そのために一番避けなければいけないことは、情念に必ず伴う興奮への対処法が肝心で、怒りなどの悪い情念が発生した時には必ず興奮が収まるまで沈黙し我慢することで、できれば意識的にその対象相手と距離を置くように努めることも大切です。 

反対に大切で好きな人が激高し興奮している時は、とりあえず謝罪し相手が冷静になるのをジーッと待つことで、決して反論せずに謝罪を繰り返し興奮が収まるのを待って、相手に内省する時間を与える寛容さを持ち続けることです。 

しかし例外もあり、内省を待つ寛容にも時間的な限度があって、ある一定以上待っても内省が確認できない人は無駄ですので、たとえ夫婦・血縁・友人でも限度を越えて内省がみられず、自我を押し付けてくる人とは、距離を置き離れる決断をすべきです。 

それは近すぎる関係ほど憎しみに転化し深く傷つけ合うことに繋がり易く、必ずお互いにとって不幸な結果を招くからです。 

憎しみの裏側にある甘え構造を持つ内省が生まれない人は、寛容の精神につけ込んでくる構造も併せ持っているので、距離を置くことで摩擦を回避する以外に方法はないと思います。 

日本の殺人事件の半分が親族間ですが、距離を置けば回避できた事件は沢山あったと思います。

何事においても取り返しのつかない事態を招く大きな不幸の訪れは、常に近づき過ぎる摩擦熱のためで、恐れや怒りの情念に興奮が伴った時に起こっています。 

多くは決して良いことに繋がらない情念という炎を、人間は誰しも持って生まれて来ているのですが、その炎の火を炉辺の焚き木のように程よく調整し燃やし続けることが如何に難しいか? 

怒りからの興奮でこの情念の炎が燃え上がった時、冷静に自らを制御できるようになることこそが、人間としての本物の成熟に繋がっているような気がしています。 

その制御ができるようになれば、幸せを他者との比較ではなく、自分自身の尺度で測れるようにもなっています。 

人間はこのように見る角度や捉え方で次第で幸せにも不幸にもなるのですが、自らの怒りなどの情念を広角レンズで分析し、相手の立場や心理と自分を俯瞰した鳥瞰的視野で捉えることを習慣にすると、誰でも意外と興奮を意志の力で抑え、悪い情念をある程度はコントロールできると思います。 

日常の訓練法として良いのは、怒りが強く発生した時ほど低姿勢にへりくだり慇懃無礼に見えるほどに対応する訓練で、最初はまず愛する大切な人(私は妻でした)に対してから練習すると、案外容易に身に付けられると思います。 

これらは私の情念が風前の灯火になり思い知ったことが多く、寂しいひとり身生活の毎日が学びと内省の連続ですが、最近はこの情念こそが人間の人生を左右しているような気がしています。 私の情念処理法を私なりに脳科学的に説明してみると、まず五感を通じて脳に入った情報を好き嫌いや快・不快として判別し、その判断から人それぞれ様々な情動反応するのですが、その好き嫌いを判別をしているのが扁桃体という器官です。 

そして日常の初期の記憶を海馬という器官が司っているのですが、その記憶の経験を本人の好き嫌いという感情で快と不快に振り分ける判断をしているのが扁桃体です。

生物はこの不快なものへの判断を間違うと命にかかわるので、初期の記憶を司る海馬のすぐそばに扁桃体があり、相互に瞬時に現状が安全か? 危険か?を判断し生き残り対応をしています。 

扁桃体を人的に傷つけ異常にした猿の実験をみたのですが、蛇を檻に入れても、恐怖心が失われ近づきを噛まれていました。 

つまり情念の源である扁桃体は悪い作用だけではなく、生物として生き残るための危機回避判断に必須なもので、情念そのものが生き残りに必須なのでは? と思います。 

生き残りに必須な情念の長所と、囚われ過ぎると人生を破滅に導く情念の短所はコインの裏表なので、情念の短所が顔を出してきたら面倒な仕事で前頭葉を活発にしたり、運動によって全身に血液を分散したりすると、扁桃体に集中した血液が移動し悪い情念が薄まり少し解放されるのでは? と私は思っていますが、瞑想や座禅なども同じ効果があると思います。 

一般にご両親や祖父母などに慈愛を受けて育った人達が、先天的にこのような悪い情念の炎に支配されない人が多いのは、自我が尊重され悪い情念の火に点火されずに育ったことが、『三つ子の魂百まで』に繋がっているからではないか? と思いますし、反対に犯罪者などは暴力や支配・命令などで自尊心を傷つけられて育った結果ではないか? と思い到ります。 

悪い情念に悩み苦しんだ時期のある私は、孫の成長過程に垣間見える社会性獲得時の葛藤している姿を静かに見守り、孫の自我を尊重し慈愛で接することで情念に惑わされない健全な生きる力に繋げてあげたいので、愛されたという自己肯定感で満たしてあげたいと心掛けるようにしております。