遠くを見る。

私共のお客様も高齢化し、最近はお子様が代わりに車で購入に見えるのですが、この方達とお話をしていて子育てもネットで多数派を参考にしているようです。 

先日の方は『三歳と五歳の子供に同じ絵本を読むのが苦痛』と話、『なぜ同じ本で飽きないのか?』と言うのでお答えしたのですが、子育ての最終目標は何なのか? も含めて、私の経験した葛藤や失敗や苦悩の過去を参考にブログで振り返ってみます。 

人間は幸せを求めて生きているのですが、そのためには一番が健康であることで、二番目が自分を愛し大切と思ってくれる人がいるという自己肯定感を持つことで、三番目が自己実現を通じて自分が社会から必要とされていると確認ができると幸福感を実感するように人間はできていると思います。 

大人になると生活の安定を求めお金が目標になりがちですがで、お金はこれら三つを維持するための手段として大切なものですが、皮肉なものでおカネを目的にしていると、そのお金を手に入れた時もっと大切なこの三つを犠牲にして失っている場合が多いもので、その時にはこの三つは取り戻すことができない状況になっているから不思議です。 

そして人間としてこの三つを手に入れるために最優先に必要なものが、この三つによって得ている『情緒の安定』のような気がしております。 

赤子がこの世に生を受けて見るもの経験するもの全てが初めての驚きの連続ですが、その度に情緒は揺さぶられながらも少しずつ理解し受け入れ、社会へ適応するための社会性を身に付けて行くのですが、その子の特性や好き嫌いなどで適応性には個人差が出てきます。 

幼児が同じ絵本を好むのは、結末を知っているから過程を安心して楽しめる余裕が生まれるので、情緒が安定した状態の心地良さを味わえるからです。 

大人でも知らない世界に放り込まれたら、その世界を理解するまで不安から緊張するので五月病や転勤・昇進による鬱病発症が起こるのですが、幼児のうちは毎日がそのような連続なので、一番信頼できる母親に寄り添い同じ絵本で安心を得て、情緒を安定させ眠りたいからです。 

しかしこの安定の中だけに充足していては社会性が身に付かないので、少しずつ新しい世界や知らない他者に触れながら社会の仕組みや、親以外の他者でも年齢や優しい人や意地悪な人や無関心な人など、様々な人がいて社会が構成されていることを理解し受け入れて行きます。 

その環境の変化と過程の中で様々なストレスを受けた緊張感を、両親に甘えられる家庭で緊張をほぐして眠り、明日への勇気に繋げて行くのは大人でも同じと思います。 

この明日への勇気が生きる力になるのですが、この生きる力の源泉が健全な自我だと思います。 

この健全な自我は、ありのままの自分を容認してくれる人がいて育ち、それが両親だった人は幸せの三つの要素に近づくのですが、人間の難解な所は自らの自我への葛藤も経験しないと、自我を抑えコントロールできるようになるという、一皮むけた成長に繋げることができない辛さも味わう必要もあります。 

人間として生きていく上で社会性の獲得が自己を守る鎧のような役目を果たすのですが、情緒が安定していないと『この社会性獲得の過程の中で、挫折してしまいがちで』、その挫折がきっかけで引き篭もりや鬱病や犯罪に繋がるリスクが伴っています。 

一般に自我の強い子の扱いは大変ですが、要領さえつかむと簡単で《決して否定しないで、まず自我を尊重してから家庭や社会には決まりがある》ということを優しく粘り強く説き聞かせお願いすることで、聞き入れてくれた時には抱きしめ『ありがとう』と言う繰り返しを習慣にすることです。 

この繰り返しから子供が学ぶことは、自我を満足させる快楽だけでなく、我が儘な自我を自らの意志で抑え忍耐する勇気を持つことが、両親からの感謝と、喜びをも与えるという自己犠牲的な愛情の存在を無意識的に悟ってもいます。 

利発な子供は親の欲望を取り込んで好まれようとしますが、この行動には無理に自らの自我を抑える傾向が伴っているので、思春期以降の反動行動に特段の注意が必要です。 

逆に幼児期から自我が強く聞き入れない子供の場合の対応では、いずれ成長と共に自我の強さで犯した間違いや失敗の時、親として潔く背負い親として社会へ謝罪する姿をみせ続けることで、間違っても《親に恥をかかせた》などとは決して言わず、できるだけ簡略に《決まりを守れ》と注意だけして、社会への親としての不徳と責任を果たす姿を見せ続けることです。

これを続け子供が親の潔さと愛に気がついた時、子供は大人に近づくと共に飛躍的に成長・変貌する大器晩成型として成熟し、親の方も子育てを通じた人間としての成熟に繋がっております。

この行為ができない親は、子供への愛情より自らの自己顕示欲が強い人で、子供は《親に恥をかかせた》という言葉から親の薄情を知り、成長と共にねじ曲がって攻撃的になります。 

一般に誰でも子供の自慢話は聞いてないのにするのですが、そのような人ほど子供の努力を自らの手柄にしている人が多く、この努力の横取り行為も子供の成長を妨げている場合が多く、この歪みも成長と共に触れ幅が大きく修正は困難になります。 

子供の成長を願うなら、子供の良い所は子供自身の能力と認め、駄目な部分や挫折で苦悩している時は《私達親の駄目な遺伝子のせいかな》と漏らし《ごめんね》と謝った方が効果的で、誰しも冷静に振り返ると必ず思い当たると思います。 

我が家では《トンビが鷹を産む》という諺があるけど、《お母さんは土鳩で私は小賢しいカラス、土鳩とカラスの子にしてはあの子は鷹のようなものです》と妻とよく話したもので、親自身の分をわきまえず子供に多くを望んではいけない! と二人でいつも戒め合っておりました。 

子供が三歳頃からは幼稚園などでも、親は無意識的ですが同じ年頃の子供と比較し自慢合戦が始まりがちですが、この親の犠牲として生贄にされているのが実は子供達なのです。 

親がこの渦に巻き込まれると《子供の良い所が見えなくなり、悪い所ばかりが目に付く》ようになって、自分のことを棚に上げて苛立ち子供に接する日常的な悪循環に陥ります。 

大切なことは子供を俯瞰してながめることで、実は長所と欠点は裏表になっており、親指は短いから力があり、中指は一番長いから力が弱いように、子供の短所は裏返すと長所になっていることを忘れないことです。 

短所を指摘し叱るより、まず長所を褒めてその後に短所の《ここを直すともっと良くなるね》と長所を強調することで、特に最初に長所を褒められると心理学的にも短所を聞き入れる習性が人間にはあるのです。 

そして指摘して矯正するのではなく、子供自らの意志で矯正するように持って行くことで、それには見守り努力している姿を認める機会を逃さないことで、それを親が続けていると子供はほぼ自然に成長して悪い自我を抑制できるようになりますが、この間もあまり言葉にしないで空気で伝わるような阿吽の呼吸が思春期においては特に重要です。 

つまり親として親が成長した分だけしか、子供も成長しないと考えると判かって頂けると思います。 

一般に親の望みは果てしなく、際限のない望みに子供が疲れ果てると子供の心は病むのですが、子供自らの意志で望むことに精を出している場合は、充実感で疲労感も少なく快眠で取り除かれ、努力という苦労が反対の喜びに繋がって行きます。 

いつも黙って見守っていて、行き詰ったり挫折したりした時に相談されたら、黙って見守っていた時の問題点や方法論を述べ《私はこう思う》と優しく助言をして、決断は子供に委ねお尻を押してあげるのが親の仕事です。 

子供はこんな経験を経て、普段口も手も出さずに見守っていてくれた親の包容力を実感すると、感謝と共に勇気が湧き悪い自我を自ら抑制し良い自我を伸ばして行く善循環に自然に行き、自らの自己実現に向け挫折を繰り返しながらも立ち上がって成長していくのに、生まれながらに備わった子供の生きる力を削いでしまっているのが、親による子供への支配と命令と思います。 

親がジーッと見守る忍耐が子供の忍耐を育てているのですが、実は子供だけでなく親としても初経験の子育てへの対応で、親自身も悩み葛藤することが子育てと理解して頂けると思います。 子育ての最終目標は《子供が挫折を乗り越えながら様々な環境に対応し、ひとりでも逞しく生きていける》そんな大人に育ってもらうことです。 

そしてその生きる力には良いものと共に、荒々しいものも持ち合わせていないと、窮地の土壇場で力を発揮する底力のある生きる力につながらない矛盾もありますので、何事においても善悪だけで教え過ぎないことで、悪を泳がせその悪の力を知った上で、自らの意志で悪を抑制し善に力を向けるようになるまで、親としていつも責任を背負う覚悟でジーッと見守り続けます。 

フロイトはエディプス・コンプレックスという父性を、弟子のユングは父性と共に母性という原型の影響も合わせて受けて、子供は無意識と意識の領域にわたる人格を作り上げていると述べていましたが、それと同時に時代という環境の影響も大きく受けて育っておりますので、自分の人生経験だけで短絡的な子育ての正解を求めるのは大変危険なことです。 

母性・父性・時代の環境と、本人子供が能動的な性格か? 受動的な性格か? なども作用しており、私のように自活してからの出逢いで変化する例もあり、人間は複合的な影響が作用して人間性や人格が形成されています。 

誰でも生まれてから現在までの全てが無意識領域に詰まっており、その脳にある個々人の基準で判断し行動しているのです。

歴史的に宗教でも哲学でも人間の悪の問題においては無意識領域にある悪いものを原因に取り上げる傾向がありますが、逆説的に考えると無意識領域に良いものが沢山あるようにしてあげれば、悪の問題は少なくなり、善の思考や行動が多くなると私は考えるようにしていますが、愛する子供だからこそどうしても許せないことには《本気で怒鳴ったり怒ったりしないと駄目》なことも必要なので付け加えておきます。 

成長しやがて青年期を迎えると世代のズレを感じる時もありますが、それも子供が親離れで自己のアイデンティティ確立を目指している時期と思い静かに見守る時です。

やがて中年期になり自分自身が親になった時、親世代の思考論理を取り入れ直すような里帰りの時もいつか必ず訪れます。 

人生の時々の怒りや辛さや寂しさの情念に溺れないで、子育ても全ては世代を繋ぐための喜怒哀楽と俯瞰して楽しむ余裕を持つことが大切なのですが、行き詰まり駄目になりそうになった時は、日常に起こった諸問題という近くを見つめ過ぎないようにし大きくため息をつき何も考えずに空や星や山など《遠くをボーッと見る》といいですよ!