読書の効用は遅効的。

最近鹿島茂氏の『背中の黒猫』を読んでいて驚いたのですが、その年の調査で一年間に一冊も本を読まない人が三千万人いると書いてあり、驚いて出版した初版年を見たら2001年でした。

出版不況を思うと現在はもっと多いのだろうなと思いながら、何か日本の未来に嫌な予感みたいなものを感じ、しばし読書を中断して孫が大人になった時に思いを馳せただ祈るだけでした。

ひとり身の生活になってから三食を手料理で忙しくするのは、妻のいない寂しさを紛らわすためですが、もうひとつ貴重な時間を費やすのに読書があります。 

音楽は聞きながら手を動かすことができますが、読書は並行して何事もできませんので、もっぱら三度の歯磨きの時間を主にして読んでいますが、知的好奇心を刺激する本に出会うと寝る時間を削っても読んでしまいます。 

選択基準は過去に好きだった人の本を中心に、江別情報図書館でその方の本を検索して在庫する全てを順番に読破するのですが、時々は読んだ本の中で参照された興味深い本に脱線することも楽しみのひとつです。 

常時四冊ほどは置いていないと何故か? 不安で、先日お客様に『忙しいのに何故そんなにしてまで本を読むの?』と聞かれ、『何もしない時間を埋めないと寂しいから』と答えたのですが、説明が長くなるので止めたもうひとつの理由があります。 

それは長い人生において即効的に効果のあるものと、とんでもない時間差で役立つような遅効的に効果あるものに分かており、特に読書のような先達の経験的な知識や、自分には自覚できなかった新感覚を味わえる知識や、感覚的には自覚できていても言葉にできなかった知識などが得られ、読書という行為で多くの未知の著者との有意義な対話も経験できる、その学び自体が楽しい気持ちにさせてくれるからです。 

読書の効用は遅効的な場面で不意に頭に浮かぶ未来に役立つことがほとんどで、金銭的や精神的な窮地の時の身の処し方や、絶好調で調子に乗って傲慢になっている我が身の自覚を促すような、破綻や破滅の前兆時に突然思い浮かび、人生の針路におけるアクセルとブレーキを視差し促してくれ、知恵や教養的な身の処し方を教え導く役目を果たしてくれるからです。 

それともうひとつは未知の知らない事を知る喜びは無上のもので、私にとっては死を迎えるまで異文化や未知への興味を満たしてくれる読書は、妻がいなくなった残り少ない人生の一番楽しい暇つぶしになっております。 

読書と同様に遅効的効果のある最大のものは学校教育で、大人になるまで何の役に立つのか? 全く不明のものですが、その教育レベルが国力と比例するように、様々な分野の発展や想像力という未来に確実に繋がっております。 

子供や学生時代に興味を持つ本能的な性的好奇心と共に両輪の役目を果たすのが知的好奇心で、この知的好奇心で様々な分野の本を読んでおくと、以後の人生の想像力発揮や発展など、ここ一番における忍耐力にも繋がっており、人生のジグソーパズルの穴を埋めるパーツとして役立つ重要なものであることは確かです。 

特に社会人になる前に無駄だと思えるような分野ほど、大人になってから役に立つのではないか? と私は思っていて、雑学も含めて知識とは料理の香辛料のような役目を果たし、その人の人生を豊かでコクのあるものにしてくれると思っています。 

それに本を書いた人達は人生の先達者が多く、その人達の人生において遅効的に受け取り確認したものが沢山含まれており、知識だけでなく知恵の分野なども数多く内包しており、未経験な未来の指針や幸せを手繰り寄せる偉大な参考書でもあります。 

食事が体の健康を保つための栄養摂取とすれば、本を読むという行為は心の栄養摂取というサプリメント的な役目です。 

しかし最近は同じ情報なら必要な時に必要な分だけテレビを見たりネットで検索したりすれば良いと反論されそうですが、人間の脳の記憶回路とネットワークは複雑にできており、情報収集は同じでも結果的には記憶力や想像力や爆発力や発展力に違いが出るから不思議です。 

例として最近のお医者は電子カルテが主流ですが、これが曲者で担当医にとっては手書きカルテの方が患者の顔と疾病の一致度がより高く、電子カルテは記憶力が格段に落ちるそうです。 

つまり知り得た知識が、脳の記憶回路に残る確率が紙より格段に低いということですが、紙の活字と電子機器の活字に違いがあるのではなく、書くと言う行為と本を読むという行為の方が論理回路が複雑になるので、その複雑な繋がりを理解しようとして脳が活性化した状態で記憶しているからだと思います。 

英単語なども単語ひとつひとつで記憶するより、覚えようとする単語を組み合わせてひとつの文章を作成しながら覚えると格段に記憶し易くなります。 

最近子供の勉強参考書に『うんこ漢字練習帳』というのがありますが、これも子供が反応し易いうんこという言葉を入れて漢字の熟語が作られているので、子供達は『うんこ』という言葉を楽しみながら、文章化された全体像で記憶するから脳が活性化して記憶効果が高まり、学習結果が高まり良い結果を生む善循環に繋がり現在ではあらゆる学科に工夫して転用され、かなりの販売部数になっております。 

最近の高校や大学教育では就職率という企業社会で即戦力になるように、即効性のある学問に絞った無駄のない教育方針が主になっており、その結果思想や哲学のような教養課程は排除されている傾向が強くなっておりますが、これが想像力や発想力を弱めて国際競争力の低下に繋がっている原因です。

もうひとつ日本の将来的不安の大きな問題に繋がる権力者の不祥事も、力が正義という結果主義がもたらしたもので、他者を思うという思想が皆無だからと思います。 

人間は心を主体に持った複雑な動物で、効率を追求し過ぎるとなぜか嫌気を催し、無意味で無駄なものの方が楽しいと感じる傾向があり、この楽しいという無駄が心の余裕を生み、発想の転換や創造力や発展性を生み出すという、心・技・体で言うと心を一番に優先すると体全体が活性化する生き物なのです。 

亡くなった作曲家の中村八大さんが本に書いていたのですが、作曲家になろうと決めた時、一般教養を勉強するために大学にもう一度通い出したと述べていましたが、効率より一見無駄に思えるものが人生の土台となると考えたからで、その土台がしっかりしていないと全ては砂上の楼閣で、人生の後半以後に築き上げたものを一瞬で失う人は、この実利を支える人間としての土台である思想の基礎作りを若い時に怠っていたからです。

大器晩成型のような人は本業とは対極にある知識分野への興味も余裕も持っているので、他人を楽しくする遊び心や趣味にも繋がっていて、その結果として他者から学ぶ機会にも多く恵まれる好循環を自然に生んでいます。 

無駄なものを排除するのではなく、興味あれば無駄なものも吸収しておくことほど役に立つものはなく、その無駄を受け入れる心の余裕みたいなものは人間としての器の広がりにも繋がり、仕事だけでなく家庭や友人などの人間関係なども良好になる学びの機会も増えて、人生を豊かにすることに貢献しているものです。 

効率重視は近道を捜し選択するのですが、スポーツでも仕事でも遠廻りの道を選択した方が結果的には近道に繋がります。 

スポーツなどでも、たとえ近道で結果が出たとしても基本ができてなければ持続できせんので、元の基本に戻る土台作りに逆戻りなのに、近道を選択する人は結果だけに走るから、いずれ悩み苦しみ焦ることで追いつめられています。

即効的効果の最たるものが賄賂や権力ですが、どちらもお金と権力を失うと効果を失ってしまいますが、人格的な要素の誠実や寛容や勤勉などは遅効的な効果ですので、非常に時間をかけて他者へ働きかけていた結果ですので永続的に効果が持続しており、その遅効的効果が大器晩成の人間を作り上げているのです。

ただ芸術などの五感分野では歴史的に偉大な人達ほど、現世では認められていない傾向が多いのは、斬新で偉大な想像力を発揮した人は、その時代の権威の嫉妬を買い『出る杭は打たれる』という憂き目に遭う悲劇を生んでしまいます。 

印象派絵画のマネやモネやルノワールなども当時のフランスで『精神異常者』と罵倒された無名画家だったそうで、取引価格は今の貨幣価値で十五万程度が限界だったのですが、彼らの死後アメリカ人の絵画コレクターが発見し『印象派画家』として認知されてから高額化し現在に至っているそうです。 

しかし絵画も文学も心の根本動機は描きたい(書きたい)という自己顕示欲を満たすものですので、認められない無念さを越えて自己表現を貫いた真の心から表出作品は、死後というあまりに遅効的ではありますが歴史的に残っているのだと思います。 

このような現象はいつの時代どの分野においても存在しており、権威や権力とは自分を脅かす存在には特に敏感で、権威や権力に迎合しない新興勢力には批判と排除を徹底して行います。 何事においても歴史が証明するように、真理は遅効的にしか訪れないと覚悟して現世を生きる以外なく、私には印象派の人達は現世で認められなくても迎合せずに、己の信じる自己顕示欲を絵画や文学という形に残し、生を真っ当した自己満足の人生だったのでは? と思います。 

現在は携帯やパソコンの普及によって、限られた一日の時間がこのような機器に浸食され、歩きスマホどころか運転中も多く、たまに電車に乗ると多くの人が携帯を覗く姿に慣れていない私には異様な光景で、今だけを見つめないで現在と地続きの未来に遅効的に役立つ大切な読書もして欲しいと思います。 

人間は生来怠け者にできていますが、日常の良い行為は全て習慣化する技術を身に付ける以外になく、その習慣化した行為こそがその人自身を磨くことに繋がっており、その結果はその人の身の回りの人達の幸不幸にも波及しています。

人間が成熟するためには、自分自身の知的枠組みをいつも破壊する勇気がないと広げたり深めたりできないのです。 

幼児が三歳までに獲得する知識が膨大なのは、知的枠組みを柔軟な心で破壊し続け、新しいものを吸収し続ける謙虚さで、本当は人間に生まれながらに備わっているからです。 

幼児と一緒に遊びながら積み木を積み上げると、完成したものには執着せずにすぐ壊し、すぐにまた作ろうと誘います。

折角作ったものを破壊するという行為が、新しいものを想像するという学びに繋がっているのですが、学びをやめた人達はそこに居着いている方が楽なので拒否しますが、それでは広がったり深まったりして行かないと思います。

生まれながらに持った吸収し続ける謙虚さを大人になるにつれて失う人達が多くなるのは、娯楽や快楽や怠慢もあるでしょうが、一番は学校教育という中で点数という即効的な結果を求められて育ったものが骨身にまで染み込んでしまったからで、現在の成績優秀と言われる人達の偽善・欺瞞はその成れの果てです。

読書の楽しみは、今の自分自身の狭い知的枠組みを乗り越えるために今の自分を破壊し続ける勇気から始まり、次に自分が納得できる新しい知識や知恵を受け入れる謙虚さが必要で、その謙虚さが心の広がりや深まりを強化して行くので、少しずつですが人間としての成熟に繋がっているのでは? と思っています。 

私自身は煩悩と葛藤の毎日ですので、自分の知的枠組みを破壊し続けても成熟には程遠いと実感するのですが、六十八年間を振り返ってみても歳を重ねるごとの煩悩と葛藤の連続で、その難解な答えを求める放浪の旅が読書という感じです。