人間だけの長い老いの時間。

妻の死後ひとり身になってから老いを一段と意識するようになって思うことは、なぜ人間だけが長い老いの時間を与えられたのだろう? と思ったことです。 

生物の一番の使命は子孫を残すことなので、鮭などは産卵して子孫を残したらすぐ死ぬように、生物学的にはこれで完結です。 人間の子供は非常に不完全な状態で生まれてくるので、親の保護の元で非常に長い期間をかけて生存能力を身に付けさせるための教育が必要ですが、昔の元服のように子供が十五~十六歳になれば、哺乳類的にも親の役目は終了のはずで、犬や猫など他の動物にも老化はあっても短いのに、人間だけが長い老いの時間を与えられています。 

人類は今も医学の進歩でより老いの時間を延ばそうとしていますが、動物の本能的な進化過程には神秘的な意味があると考えてみると、この老いの時間が長いことにも意味があると考える方が自然なのでは? と思い到り、その意味を考えていました。 先日は屋根の雨漏りで修理の見積もり、数日後には温水器が壊れ交換したのですが、妻の仏前に行き『もう生きているのは面倒くさい!』と思わず愚痴をこぼしました。 

老いて死を意識して生活していても、生きている間は不便や不自由は困るので、修理し料理をして掃除・洗濯してなど、もう私は妻や娘への役目を終えたのにと考えると、面倒なことだらけの中で今は生きています。 

そんなひとり身の忙しい生活をしていると、お釈迦様が人間の生きる苦しみの大きな四つを『生・老・病・死』と唱えたのは、実は人間にとって辛く苦しい大きさの順番ではないか? と思ってしまいます。 

つまり生きることが一番の苦しみで、次が老いることで、病になり死を迎えることで楽になり完結するような気がします。 

動物は進化の過程で子孫を残すことを優先し、それ以外は進化の過程で淘汰するようになっていたから鮭は産卵後すぐに死を迎え、他の動物なども老いの時間は短く死を迎えるので世代の循環も早く円滑になります。 

人間の長寿に伴う老いの時間の長さには『考える葦』としての意味があるのでは? と思い到り、妻の死後眠れぬ夜は眠ろうとせずにこんな疑問を詮索し暇をつぶしています。 

これと同時に老いてひとり身になるとこれまでの人生を振り返ることが多くなり、妻と過ごした子育ての想い出や行商からここまでなど、私は何を成して? 何を成しえなかったのか? などを反芻し、無意識に人生の総決算を繰り返しています。 

最近は間違いなく歳のせいで、物忘れが増えただけでなく、名前や単語がすぐに出てこなくなり、確実に記憶力と計算力が落ちて来ています。 

このような記憶と計算のような学習によって身に付く能力を『流動性知能』と言っていた人がいました。 

それに対して長い人生経験や知識の蓄積によって生み出されてくる能力を『結晶性知能』と述べていて、判断力・発想力・統率力のような高度な結晶性知能は、頭を使っていれば歳をとっても衰えは遅く、むしろ能力が上がる部分もあると述べていましたが、ひとり身になって仕事と家事を両立して過ごしているとフムフムと納得です。 

そして人生を振り返りながら、夫として父親としてどうであったか? 自分とは何者だったのか? というアイデンティティー(自己同一性)の確認を無意識にしている時間が増えていて、これが死によって完結するまでの老いの長い時間の中で、生誕から死という限られた時間を生きた私のアイデンティティーの再認識作業になっています。 

そんな自分自身の人生と向き合いながら確認できたことは、残り少ない老いの時間を与えられた時間と考え、次世代の婿殿・娘・孫達に妻のできなかった分と考えて少しは役に立ちたいと思うことと、長年のお客様には必要とされ『続けてね』と多くの方達に言って頂くことに心から感謝し、私達家族の生活を支えて頂いたお客様への恩返しのつもりで、残りの時間を精一杯生きることが私自身のアイデンティティーを誰かの心に残すことに繋がっているのではないか? と思うようになりました。 

それは妻を亡くしてから妻という人間の人間性が生きていた時よりもリアルに私に語りかけてくるものが沢山あって、そのリアルに語りかけてくるものが私の生を支える最大の贈り物になっていると自覚させられたからです。 

このような感情というか思想的なものは、考える葦と呼ばれる人間特有のもので、私共の多くのお客様達も『親の歳になって親の気持ちが判った』と後悔や懺悔の言葉を言っている時、精一杯生きたご両親のアイデンティティーを無意識に受け取っていることに繋がっているのです。 

こんな積み重ねで世代を繋ぎ、それぞれがそれぞれのアイデンティティーをプレゼントとして受け取り成長し進化しているのが人間という動物ではないか? と思うようになりました。 

つまり老いの時間が、『自分とは何か?』という人間的なアイデンティティーを問うかけがいのない貴重な時間になっており、『死』を迎えて完結しても、その人の生き方のアイデンティティーは誰かの心に残像として残り、その残像が次世代の長い老いの時間に生前よりリアルに語りかけ、次世代の人達の生を支える愛情や勇気になっているように思うようになりました。 

私は人生において死を意識しない期間はなく、いつも死を前提に生きたのは、死を迎えた時に後悔したくないからです。 

また死を意識して生きると、愛する人や好きな人達の一人ひとりが、かけがいのない唯一無二の存在として感じることができ、精一杯に生きていることに充実感と満足感が感じたからです。 

若い時は所有欲も覇気もありますが、老いを迎えると肉体的な機能も失い始めますが、この所有欲も覇気も希薄になり、代わりに何事においても俯瞰したものの見方をするようになっており、まるで腐る前のミカンの短い成熟の時間のように老いの時間を捉えるようになりました。 

妻と結婚した時、娘が生まれた時、借財を抱えて新店舗を持った時、自分の責任への大きさを自覚し、未来への不安に怯えながらも頑張ってこられたのは守りたい家族がいたからです。 

ひとり身になってからも、人間は誰かに必要とされ、愛する人や好きな人のために生きることからしか勇気を貰えないような気がしており、私にその生きる勇気を与えてくれた好きな人達に、私のありったけを惜しみなく与えられたと実感できたら、いつどこで死を迎えても満足なのでは? と最近は想像しています。 

孤独死を可愛そうと報道されますが、私は想い出が詰まったこの家で死ねるなら孤独死で十分に満足と思っています。 

それは病院や老人施設で看取られる人達の実態を見てきて、人間の生の尊厳について建前と本音の問題を遡上にあげずに議論を避けているように感じているからです。 

認知症の母の施設に行き注視していて見えてきたのは、死を待つ老人を隔離した世間や親族の本音の部分に潜む無関心です。 

これは前のブログで書いた『親孝行は自然の情ではない』も関係していますが、親より子供の方に愛情を感じるのが種の保存として理に叶っているので、遺伝子的に脳にプログラムされているからですが、最近はその感情を認めずに建前論の綺麗事が横行し、次第に偽善に対して麻痺してきているような気がしています。 

私も決して親孝行な息子ではないのですが、愛情の反対は憎しみのように捉えがちですが、憎しみには甘えの愛情に執着した反動が住み着いているので、本当の愛の反対は無関心なのでは? と母の施設に行った帰りに思うようになりました。 

これは私自身のひねくれた性格的な問題もあり、誤解から憎悪や憎しみを買いやすく妻に怒られてばかりでしたが、この憎しみや憎悪を向けてくる人達が求めている甘えを私は理解しても無関心を装ったのは、この人達の甘えに応えるだけの度量をこの人達には私が持てなかったからです。 

認知症になった人達が最後まで認識できる人も、血の繋がりではなく『自分に一番関心を持ってくれた人』で、たとえ子供でも自分に関心を持ってくれなかった人達から認識できなくなるのも、人間が生きる為の本能的な遺伝子の作業ではないか? と最近は感じています。 

長い老い期間を生きることを苦悩の時間に捉えがちなのは、どこかに歳を取ったのだから『こうして欲しい』という甘えがあるからで、その甘えから不満と愚痴ばかりになり、廻りを不愉快にするから関心を持たれなくなるのです。 

死の完結を迎えるまでの長い老いの時間を、老いを理由に甘えずいつも自分に何ができるか? という次世代への贈与を念頭に生きると老いも貴重な時間になると感じています。 

私共のお客様の先達にそのような人達が少なからずおり学びましたが、このような人達の共通点は好き嫌いはあっても、決して人を憎むという甘えの構造がないことで、過去ではなく未来を相互関係で俯瞰して見ておりました。 

逆に自分の思うようにならない相手をいつまでも憎んでいる人達は、決して未来という前を見ずに憎んだ出来事の過去だけを呪っているので、人間として成熟せずに長い老いの時間も呪い続けている可愛そうな人だと思いました。 

この自分で自分にかけた呪いの苦しみは、自分が成熟しないと決して解けないのに不平や不満をまき散らすので、誰からも関心を持たれず寂しい長い老いの時間を過ごすことになります。 

人間の長い老いの時間は人生の決算書を作成する時ですが、甘えを捨てなお前を見て次世代への贈与の思いで生きると、不思議と若い人達に関心を持たれ、自分も楽しく充実してくるのできっと短く感じると思います。 

今日は九十五歳で一人暮らしのそんな素敵なお婆ちゃんが来店し『六十八歳なんて、高野さんは若くていいねー』と明るく言ったので、顔をじーっと見つめ『今に見ておれ!』と叫んだら、にこやかに笑みを浮かべ『誰でも歳をとり、誰でも死ぬんだものねー』と言ってから、これからは若い人を羨むのではなく、心の中で『今にみておれー』と叫ぶことにすると意味深な笑みを浮かべて帰りましたが、このお婆ちゃんは来店が愉しみな人です。 

このように知的な理解力があり、生きる知恵に変換できる人は、たとえ高齢になっても認知症とは無縁です。