エディプスコンプレックス。

三才の孫は女の子らしい好みがはっきり出ていて、恐がりですし洋服などの好みやネックレス・イアリング等への感心も強く、テープで貼り付けるマニキュアをスーパーの店員さんに張ってもらってからは『キラキラ』と言って目を輝かせ大喜びです。 

保育園に行くと先生に見せ、前日の楽しかった出来事も一方的に話しているようで、その様子を先生から聞いて、私は学校へ行くまでのある程度自由が規正される前に、この子の根本的な欲望への衝動をある程度消化させてあげたいと心掛け配慮しています。それは思想家で誰か? 忘れましたが『人間存在の根本動機、それは見栄だ!』を読んだ時、心から納得させられたからです。 入学後に規正されるのは、嫉妬など他者への配慮が必要な摩擦回避で、入学までの三年間の保育園の集団生活で社会性を獲得し、見栄にも慎みを心掛けることができるようになるようになる為に、生まれながらの女性としての根本的な欲望を満たした記憶が潜在意識にあるとないでは大きく違うと思うからです。 

しかし一般的には何事においても大人は『まだ早い』と欲望を抑圧しがちですが、これが後の人生に引きずる結果を生みます。 例としてはテレビと車で、私達以上の世代にとってマッカーサーがパイプをくわえて車に乗る姿は長い憧れだったので、高齢になっても車への執着はいまだに続いていますが、生まれた時から車があった若い世代の人達の車離れがそれを象徴しています。 

テレビなども驚きの電化製品でしたので、高齢者の方達は未だに見ていなくてもテレビはつけっぱなしです。 

これ程に羨望への飢えが長いと、一度手に入れてもより以上の物へ憧れで、心を満たすという消化が難しいものです。 

今の若者達にとっては、画期的なそれが携帯電話やパソコンやそれらを使ったゲームですが、果たしてそれらが生まれた時に存在した孫の世代は何になるのか? にも思いを馳せます。 

もうひとつは孫のような自然な女性的な目覚めもなるべく早く消化させてあげて、なるべく抑圧の期間を短くしてあげ、精神的な飢えを早めに消化させてあげると、子供を分裂病的な引き裂き状態追い込むことを避けることに繋がり、自我の現実適応もなんなく成し遂げると思っています。 

上坂冬子さんが述べていたのですが、特に団塊の世代の子育てを例に『十代の頃は処女や童貞を当然のこととして望み、就学後はひたすら勉強させ良い会社に就職することを望み、その後突然色気づいて結婚することを望むという、この頃の親の子供への理想像は勝手過ぎる』という言葉が、この引き裂き現象を的確に表現しています。 

孫が女の子らしいものを好む所から、もう性の目覚めは始まっていて、何処から生まれたか? 男の子には何故チンチンがあるのか? 何故違うか? などの疑問と共に成長する自然を無視し、的確な答えをせずに蓋をしといて、適齢期に突然彼氏や結婚相手はいないの? と同じ人間に対し年代によって正反対の言葉を親の都合で浴びせられる引き裂かれたような戸惑いの連続は、間違いなく人格形成に大きな影響を及ぼします。 

そのような思いをした三十代以上・未婚・子供なしの女子を負け犬と表現した酒井順子さんの本を読むと、この引き裂き状態の苦悩過程がよく読み取れます。 

自虐的に書きながらも開き直れる経験と年齢になって理解した、結婚した後も結婚前と同じ泥沼があり、もっとひどい泥沼に嵌まって離婚した友人達もあるなど、隣の芝生が理想と見えていたが、現実はどっちに行っても同じだけの苦しみや悲しみがあると理解するのは、未婚女性も三十代後半になった頃です。 

子供の成長と共に自然に湧きあがる性的な疑問を、はぐらかさずに的確に夫婦関係を例にして子供に話し聞かせることが、精神的な引き裂き状態と分裂病を回避することになり、一番重要な説明への苦悩が親自身を成長させることに繋がっているからです。 

何事においても抑圧はいずれ爆発に繋がるのですが、それまで蓋をされた性への目覚めによる好奇心が、営利目的の週刊誌やアダルトサイトで得ると、間違った過激な情報の氾濫を常識と錯覚することにも繋がっており、出逢い系サイトで知り合い起こる事件に発展していることは多くの報道で判ると思います。 

団塊世代の頃は今ほど簡易に情報が得られなかったのですが、現代は好奇心への誘導情報は営利目的で過剰なほど氾濫している危険な社会になっています。 

成長経過と共に沸き起こる疑問に親が正直に答える勇気が、子供の段階的な性的知識獲得に繋がり、いずれ思春期に恋に憧れ、恋をしても憧れと現実の違いからの泥沼回避を学ぶために、幼児期から段階的疑問に答え、子供が性的にも段階を踏んで成長するように配慮し、親自身がごまかしの心地良い状態を求める癖から早期に脱皮し、子供の成長と共に親も一緒に悩み成長する義務と責任を背負う覚悟が必要です。 

親が子供の疑問に真摯に向き合うと、子供も自分の疑問に真摯に答えてくれた親への責任が発生し、手軽な情報で手軽な考えを手に入れる危険回避に繋がります。 

子供が伴侶を得て有意義な人生を形作るためには、他の学問と同様に性的な知識や人を愛する技術も学び磨く準備段階が必要であり、それが失敗や破綻を少なくすると思います。 

何事においても心地良い状態を作り上げるには学びと努力が必要で、そのための思考と努力なしで心地良い人生はないのです。 精神的な引き裂き状態が反動を生む例としてネパールの一妻多夫制度があり、普段の男は飼いならされた動物のように無気力な母系社会の中で、夫である男は妻に対して異常に嫉妬深く・狡猾で無口なのに、男同士になると驚くほど饒舌になるそうです。 

ゲイの人なども幼児期が関係している人が多く、女の子が欲しかった母親が、期待に反して生まれた男の子に反動で女の子のような可愛い服ばかり着せ女性化させたり、その時に我慢した抑圧の反動で内面が凶暴化したりするなど、生来のものを環境で矯正することが心に与える力は人生を左右するほど強大で、これほどに人間の精神とは複雑なものです。 

子供の人生を豊かにする大きな要素は、生来その子供が遺伝子的に持っているものを親に尊重され、親の希望に沿わせるような矯正行為なしで育てられることが、結果としてベストではなくてもベターな場合が多いと思います。 

親の希望を取り込んで好かれようとするのが幼児期の子供の常ですが、その全ての反動は思春期の抑えようのないエネルギー噴出時に、制御を失った自爆テロのように爆発します。 

幼児期に遺伝子的な自我を許容範囲で容認しておくと、社会性獲得過程を経て本人の自覚と意思で矯正するか? しないか? を葛藤し決断を迫られますが、親も一緒に葛藤し見守っていると、子供に伝わっていて自分の選択と決断に責任を持ちます。 とかく団塊世代の親の多くは、女の子にもキャリアーウーマンを望みがちで、その後またすぐに結婚・出産で女としての幸せを望むという、子供自身の感情を無視した引き裂き状態にしていることに気付いていない人達が多い特別な世代と思います。 

それは何事も思いのままになった高度成長とバブル時代の中で成長し、ほとんどが専業主婦が当然だった特殊世代の延長線上で、子育てに関与する時間が十分過ぎたという、精神的な病理に遠因があるのでは? という気がします。 

もうひとつこの世代だけの病理ではないのですが、摂食障害や自傷行為の子供達特有の生きづらさを抱えた原因に、母親が毎日のように幼い娘に繰り返し語る夫への失望や愚痴があり、その夫への復讐としての反動の教育ママぶりは、娘を人質にとった夫への陰湿なリベンジのようで、これも戦後特有の現象と思います。

このような人達は結婚できない娘を責めながらも、反面自分の老後の世話も強要する傾向もあり、ここでも親のご都合主義に振り回され、精神的引き裂き状態に苛まれ苦悩します。 

しかしこのような問題の根幹原因は高度成長という経済発展至上命令による父親不在が根にあり、その上に専業主婦家庭増加という社会構造がもたらした結果でもあります。 

心理学者のフロイトが言ったエディプスコンプレックスとは、子供が生きていく支えの両親に対し無意識の深層で母親を手に入れようとし、父親には強い対抗心を持つという、相反する矛盾した心理状態の抑圧を言っています。 

この矛盾を葛藤し乗り越え克服して、初めて意識と無意識の境界が明白になり、現実的な自我を子供が形成するのですが、ここで対抗する存在の父親が不在だったことが団塊世代の子供達に大きく影響を与えたのは否めない気がします。 

このエディプスコンプレックスの未解決が多くの精神病発症に関係しているのですが、自我の現実適応がなんなくできる正常な子供は、このエディプスコンプレックスを嬉々として乗り越えるそうですが、幼児期から結婚まで苦悩し続け、妻の母性の手を借りてやっと乗り越えた私などには羨ましい限りです。 

結婚後明け透けな私の性格の中に、偏執的なこだわりやお客様や目上の人にも小生意気でひねくれた対応に、妻は眉をひそめながらも『好きにしていいんだよ! それがあなたの悪い所であるけれど、いい所でもあるんだから』と満面の笑みで言ってくれた受容が、私の内省を促すことに繋がっていました。 

今も辛く苦しい時や寂しさに襲われた時、いつも妻の写真に向かい無意識に語りかけ、受容された記憶で立ち上がっています。 人生における喜びは親子でも共有できますが、辛さや苦しさだけは機微まで理解し合った夫婦でなければ共有できないような気がいつもしております。 

ひとり身の生活二年間は自分の人生を振り返る連続でしたが、妻と結婚する前夜『明日から妻が一番大切で、母さんは二番目になったから』と言って母を泣かせ、生まれた娘には『世界で二番目に大切な??ちゃん』と言い続けた事は、自問自答しても間違っていなかったと思っています。 

妻を見送る約束を果たし、今娘は私より大切な婿殿と孫に恵まれたので、私の夫と父親の役目は果たせたと思います。 

先日は長年の気の合うお客様が亡くなり(前月に元気に来店)、長生きした者が味わう寂しさを思い知り、就寝時には白夜をリピートで流し、その方との想い出を辿りながら、我が身の死を迎えるまで今後も襲うだろう寂しさへの覚悟を迫られ、私と同じ身の上として残されたご主人の身を案じ、お二人の娘さん達の家庭に迷惑をかけないようにと願いご主人の健闘を祈っております。 

人間は親も時代も選択できずに生まれてくるのが宿命で、私のようにエディプスコンプレックスを抱えるのも宿命なので、このような人生の宿命や難問や危機は種類が違うだけで、誰でも等しく全て人の人生に存在しています。 

よく生きるために大切なことは、何事においても何とか取り返せることには惜しまずに努力を続け、取り返しのつかないことは忘れて前を見ることで、努力も最初に一歩踏み出す勇気と、少しの我慢を少しづつ引き延ばして継続することで、大概のことは二時間も我慢すれば好転できると思います。 

ひとりになって寂しい我慢も同様で、料理や掃除・洗濯で忙しくして紛らわし、眠れぬ夜も妻と過ごした想い出巡りです。

四十六年前の妻と交際中のことを振り返っていたら、吉田拓郎の『花酔曲』をデート後いつも聞いていたことを想い出しました。

妻と別れ池袋から東村山の寮まで一時間弱で帰宅してから、深夜運転の緊張を解き眠りを誘うために、デートの余韻を味わいながら妻を思い『花酔曲』を何度も聞いてから寝ていました。

レコードは擦り切れ処分していたので、当時の録音を捜しダウンロードしてリピートで流しながら寝ていた数日後、三度目の妻が夢に出てきて、寂しいから全て早く整理して来るように言われたので俳句にしてみました。

       春近し終活せよと夢の妻