報道と表現の自由はどこまで?

週間文春批判を見ていて、表現の自由はどこまで許されるか? を考える材料として最適なのは、フランスで二千十五年一月に起こった週間風刺新聞シャリル・エブド社襲撃テロ事件が一番良い材料に思われので考えてみます。 

このテロ事件により死者十二人負傷十一人の犠牲者を出しましたが、原因はイスラム教徒が侮辱されたと感じる預言者ムハンマドのわいせつな風刺画を度々掲載したことでした。 

この事件は日本人には理解が難しいフランス独特の文化が起因しており、私が知りたいと思ったきっかけは移住して三十五年を過ぎた妻の甥が弔意に訪れた時に言った『日本の新聞に真実の報道がない』の一言がきっかけでした。 

それ以後フランス在住者や研究者の書いた本を読み、この事件を通じて日本とフランスの文化的違いを痛切に感じました。 

まずシャリル社のスローガンは『馬鹿で意地悪』で、サブタイトルが『無責任新聞』と謳っていますが、一見無秩序だが構成はしっかりしていて、広告は一切とらずイラストと文章だけで、広告主への遠慮や配慮も一切ないので、権力者による弾圧・訴訟は数知れず、放火されて社屋を全焼したり経営的な事情で十年程廃刊に追い込まれたりなど、日本のメディアでは考えられないほどに過激な新聞社です。 

左派・右派・富者・貧者問わず全方位への意地悪をユーモアーで風刺し続ける新聞です。 

表現は不適切でショッキングで挑発的で、通念を覆してくれる公衆衛生への香辛料の役目を果たす、今の日本のメディアに一番欠けてしまったものです。 

風刺画そのものはフランスジャーナリズムの伝統で、時にユーモラスで時に辛辣な内容ですが、移民の多い国の識字率の低さが、風刺画を西洋文化に根付かせた部分もあったようです。 

日本でブラックユーモアーが嫌われるのも文化で、この種の風刺は定期的に触れて文章の文法を理解し、生理的な拒否感が消えないと真に読み取るべき細部が見えてこないので、一般的な人達には生理的な拒否感だけが残ってしまいます。 

日本のように何か?事が起こると『自粛』が習性になると、わずかの譲歩から大きな後退に繋がり、そんな習性だから告発を裏に秘めたブラックユーモアーは日本に根付かないのです。 

風刺画には時の権力と戦った百年ほどの歴史があり、フランスの共和制とも関連していて『一にして不可分』という、人種や宗教に関係なく自立した個人による政治参加は憲法にも『非・脱宗教的で民主的・社会的な共和国である』と述べられています。 

ですから相手の思想や信条や宗教を批判することに問題はなく、相手を侮ることやヘイトスピーチも許されますが、相手そのものを侮辱し中傷することは許されないのがフランスの表現の自由の特徴で、このようなほんの少しの差異ですが、日本人には理解が難しい程に細分化されています。 

風刺は解釈が多様にあることも特徴的で大切なので、解釈する読者の方も自然に鍛えられことに繋がっております。 

週間風刺新聞は二社あってシャリル社は発行部数四万五千部でしたが、襲撃された翌週は四十万部売れたそうで、この四万五千部で経営できるということは、価格がかなり高額でなければ成立しません。 

もう一社の『カナール・アンシェネ社』は当時四十万部の発行部数だったそうで、シャリル社はとにかく過激が売り物です。 

妻の甥も言っていましたが、高額だけど価値のある情報新聞があって、階層社会に合わせた情報誌になっているとのことです。 事件の背景には移民三世がいるほど移民の歴史が長い国で、経済的格差の上に文化的・宗教的違いが際立つ状況で、イスラムからの移民には沁み込んでいないフランス共和国理念に照らした、『宗教を批判することは、絶対の権利』と言って預言者ムハンマドのわいせつな風刺画をたびたび載せ、事件の一週間後にはムハンマドの泣いている風刺画を載せ、テロリストは叩き潰せと啖呵を切ることが表現の自由という、日本人には理解に苦しむほどに文化的に大きく違うことですが、これには宗教戦争で自国民同士が壮絶な殺し合いをした歴史的背景があります。 

経済的・社会的弱者に置かれた移民に対して、宗教という心の内側に土足で踏み込まれたような感覚に配慮せず、諸々の信仰が共存できるプラットホームを作る過程も経ないで、国民の八%を占めるイスラム移民の感情を逆撫でした直截的で扇情的な批判精神です。

テロはフランスの文化的常識を土台にした風刺を優先する伝統と、移民三世でも許容できない『表現の自由』という文化的ギャップが生んだ悲劇です。 

しかしフランスのこの風刺姿勢が権力者も含めたあらゆる物事の真実をあぶりだすことに通じるのも事実で、これが諸刃に剣になりテロに繋がってしまいました。 

日本のマスメディアは広告収入が半分を占めて経営が成り立っていますので、広告主への忖度が異常に働き波風を立てないようにもみ手し、読者へは神経を逆なでしないように迎合した記事と報道が常道で、時の権力への批判を装った忖度にも日本の歴史的・文化的背景がやはり存在しています。 

過激な真実の報道維持には、経営の独立性が維持されていないと出来ず、その経営の独立性を支える顧客なしには存在できないこともシャリル社の歴史が証明しています。 

物事には長所と欠点が裏表になっているのですが、二千一年のニューヨークの九・十一テロに似たこの事件は、移民を受け入れているドイツなどグローバルに人の移動が増して行くこれからの、大きな問題提起になって行くことは間違いありません。 

東京のコンビニの店員や建設・土木業がアジアの人達で機能している日本の現状も踏まえると、いずれ日本でも起こりえる問題になってくると思います。 

フランス人の共和主義者はライシテ(非宗教性)と叫び、弱者の移民達は不寛容と言って非難する間にある大きな溝と共に、移民には近くに富があるのに自分はアクセスできないという強いストレスもあり、その溝を越える手段の教育という機会や学歴もないと判らないという、とてつもない大きな壁があります。 

戦争の歴史は文化の摩擦と言っても過言でないと思いますが、国家の成り立ちの歴史がその国の文化を形成し、脈々とその国の国民感情として伝達されたフランス人の国民性は、経済的な理由でフランスへ行き文化的変貌を迫られる移民の精神的葛藤を通じても、理解することの難しさはテロ実行犯がフランス生まれの移民三世だったことが証明しています。 

フランス共和国の表現の自由である非宗教性を不寛容と非難するか? 勇気と取るか? はそれぞれの育った文化的背景や教養や経済的ポジションなどによって様々でしょうが、日本人が捉える表現の自由と比較・検証することには大きな意味があり、格差が進み人口減少社会を迎える日本の未来への指針になるような気がしております。 

特に国民を啓蒙すべき立場の日本のマスメディアの猛省を促す意味と、異質なものをすぐに排除しがちな国民性に猛省を促す意味でも、シャリル・エブド事件はテロ頻発に内包する文化的背景を象徴する事件であり、表現の自由の節度範囲はその対象相手によって変わってくることも考えさせる事件だったと思います。 

ヨーロッパのように地続きで戦争を繰り返してきた国々の国民性と、ヨーロッパ大陸トルコから貧しいアフリカ大陸が目視できるほどに移民流入が容易なヨーロッパの状況を思うと、日本のように海で囲まれ鎖国できた国民性のままでは、少子化による外国人受け入れは時限爆弾を抱えたような難問になります。 

今話題の週刊文春は日本のシャリル社のようで、文春の政治的スクープ記事が翌日の大手新聞社の一面記事に載るなど、日本の新聞社の怠慢と報道の自由へのリスク回避を象徴しています。 

今のようなマスコミの広告への依存の状況では、ペン(マスコミ)と剣(広告主・権力者)の共犯関係を生み出し、メディアの報道そのものが不平等なものになりつつあります。

言論と表現の自由については思想史家トドロフが述べた『民主主義とは権利が権利を抑制し合わなければならないので、表現の自由は守るべき権利。 しかしそれに限度がなければ正当ではない』が一番適切な言葉で、これは何でもありは極めて危険なので、弱者への配慮と礼節を欠いた表現の自由を戒めたものです。

日本の現状はフランスの正反対で、権力や広告主に過剰な配慮で隠蔽し、表面に出てくると尻馬に乗るようにバッシングする日和見主義の横行ですから、大手新聞の発行部数の減少に歯止め策はなく半減? もしかすると三分の一? になると思います。 

大事なことは多様性で、フランス人の『信者が信じているものは批判しても良いが、信者を中傷することは駄目』という細分化した日本人には理解が難しい部分の理解が必要です。 

その違いを如実に現す例が、今にも殴りあいの喧嘩が始まりそうな議論を続けた後に、何事もなかったかのように一緒に仲良く食事に行き歓談するフランス人の姿だそうです。  

意見の違いによる討論と感情の区別がはっきりしており、日本人のようにジメジメしていないのですが、戸惑い受け入れがたい感情が尾を引く日本人が議論や討論を避ける傾向も文化で、差別に近い区別を受けた移民三世にも理解が無理だったようです。 

この他の点ではドイツ・イタリア・イギリスと比較してもフランス人はあらゆる場面で独特で、たとえ戦争に負けても卑屈にならず、外交では遠慮せず持論を展開するなど、交渉上手なのも含めて特別な人種のようで、戦争に負けた日本がアメリカの属国化している姿と比較してもフランスは対極に存在しています。 

民主主義社会の中で表現の自由が一番広範なのがフランスで、一番矮小なのが日本のような気がしておりますが、今の週刊文春などは日本のマスメディアの現状には絶対必要悪ではないか? と私は思っております。

それはフランスの風刺画のように、その時代の問題点を抉り出す行為は、問題解決への突破口としてどうしても必要だからです。

世界的に広がっているテロの問題については、人口学者の研究成果に書いてあったのですが、歴史的に男の子の人口爆発が起こるとテロと戦争が増えるそうで、今はイランなども出生率二と半減しているように、国情が安定するとどの国も出生率が低下することから推定して、二千百年には世界的な少子化によって世界人口が均衡するので、エネルギーや食料の奪い合いによる今のような世界的な問題がなくなる可能性があり、安定的なところに着地できるのではないか? という意見に光明を見出しています。 

表現の自由の許容範囲は、その国の文化的な成熟度と教育度と歴史的背景が微妙に関連して変化して来たのですが、日常生活における日本的な倫理である『自分が気分を害するようなことは、他者にするな』を表現の自由の規範に適用することは、表現の自由の死を意味してしまいます。 

このような日本的な規範は民族の同質性が確保されていたからできたことで、現在のように地域社会が崩壊すると抑圧された反動からネット上で罵詈雑言の氾濫しているように、今は格差と個別化が進み同質性が失われている証拠で、日本でも在日朝鮮人への差別の歴史とヘイトスピーチなどは現在も絶えないのです。

西欧は民族・宗教の違いによる戦争という殺し合いの歴史の果てに『言論と表現の自由』への哲学を迫られた経緯があります。

それは宗教戦争を繰り返した反省から、政教分離を中心軸にして『自分が自由を望むなら、他者の自由を認める』という思想と信条を基にした表現の自由に到ったのです。

現在の日本全体の閉塞感と孤立感は、社会全体に失われた寛容の精神に起因してますので、成熟した表現の自由に存在する他者の自由を認める自覚こそが必要で、それが自分と他者の共存・共生に繋がる要素も秘めていると思います。