永遠のテーマ。

ひとり身になってから一番気をつけていることが『何事においても僻(ひが)まないように心掛ける』ということです。 

妻を亡くしてからは、仕事の他に慣れない家事全般が増え、先日は風邪で三十八度四分の高熱二日・下痢二日・目眩二日・扁桃腺痛四日・咳と痰が一週間続き、雪はねと営業も続けたので怒涛の二週間でしたが、切ないこんな時には甘え根性が顔を出し、妻の写真を見て『大丈夫かい?』という言葉だけでも心が癒されていたことをつくずく思い知らされました。 

ネットでお粥の作り方を調べて大量につくり、毎日がお粥の生活がほぼ一週間続きました。

しかし一番辛かったのは私を必要として心配してくれる人を失ったという現実直視でしたので、半ば意地になって店を営業して社会からまだ必要とされていることを確認しようとている自分がいたことで、我が身の自我に潜む悲しい性みたいなものを思い知らされて虚しくなりました。 

どんなに優秀な人でも社会や組織において誰かが代替できるのは当然のことですが、人間は心の何処かで『自分は家族・社会・組織から必要とされる人間なのだ』と思い込みたいもので、この思い込みが実は大切で心の張りになり人生を支えています。 

歳はとるものなので機能的には低下しますので、未来への不安も抱えてもやり過ごす以外に術はなく、今回は『窮地でも僻まない』を念頭において、何とか乗り切れたと感じております。 

私は様々な年代の様々な立場の人達の人生を見つめてきましたので、いつも我が身の立場と共に相手の立場も考慮して決断することが習慣になってしまい、こんな窮地の時でも甘えたい気持ちに対しては考え過ぎて優柔不断になってしまいます。 

妻が健在の頃には、『あなたのそんな意固地な所が可愛くない部分だよ!』とよく言われましたが、妻にだけは『お願い、優しくして』と甘えられたことが幸せだったと思います。 

こんな近況報告ですが、風邪をひく前にブログに書いてみたいテーマとして嫁と姑のような同性同士の世代間の軋轢は、いったい何が原因で何故永遠のテーマとして存在し続けるのか? を考えていましたが、体調不調時はそんなこともすっかり忘れていた意識朦朧の状態でした。 

第一の大きな原因は自己顕示欲のぶつかり合いではないか? という気がしており、お互いに私が・俺がを捨てられず、何かにつけて自分が相手より優秀で優位な存在であると認めさせようとする情動で、儚く悲しい人間の弱さを象徴する行動です。 

子供でも認められると嬉しく、否定されると不愉快になるのですが、まるで犬のマーキングのように男も女も自分の領域を顕示し拡大を測る習性が、実はお互いを不愉快にしているのです。 特に男親は無意識ですが息子に対して自分を認めさせようとする傾向が強くあり、自分の成功を子供の記憶に残したがるなど、特にスポーツ選手には顕著なので理解できると思います。 

幼児でまだ親の保護が必要と自覚している時はよいのですが、いずれ自立への助走が始まる思春期頃からは、これが逆に子供への抑圧効果になり自立への障害になってしまいます。 

それは自立にはたとえ錯覚でも親を乗り越えたと思えることが必須だからで、できれば早い時期に親を私・俺は乗り越えたと思わせるような出来事が意識として残ると、子供は意外とあっさり自立して行きます。 

つまり自立には親への十分な依存と、成長と共に親の壁を越えたと思える確信らしき矛盾した両方が必要で、実はその確信らしき根拠のない自信が自立には必要で、その若さゆえの特権が未来への不安を突破する力になっております。 

逆説的な例えになりそうですが、子供を支配し続けると子供は親の顔色を覗うようになりますが、この繰り返しで育つと親から認められることをひたすら求める目的になりがちで、結婚してからも親の顔色を覗う人は一見親孝行のように見えますが、実は未だに自立できていない反動現象でもあり、親に認められたいという飢えに起因した行動であれば、まだ親からの認証に依存しているアダルトチルドレンです。 

私の妻は娘が中学生の頃から何かと娘に教えを乞うようにしていたので、女同士による自己顕示欲のぶつかり合いもなく、娘は無自覚にそして自然に母親を乗り越えていたと思います。 

自己顕示欲のぶつかり合いは異性間では意外と希薄で、多くの問題は父と息子や母と娘や嫁と姑や婿と岳父などに起こりがちですが、夫が妻より実母に依存し認めるマザコンタイプだと、妻の姑への嫉妬から離婚問題にまで発展することも多いと思います。 逆に妻がファザコンの場合は婿の岳父への嫉妬を生みやすくなってしまうので、夫婦のどちらかがアダルトチルドレンであると夫婦関係が微妙に軋み、これらが複合的に作用して悪影響を及ぼし世代間の災いにも広がり、これらが遠因となって第二の世代間の権力闘争を生み出します。 

二世帯同居では、台所を取り仕切る者も家庭を取り仕切る者も二人いては統制がとれなくなりますので、舵取りや命令系統の混乱からお互いの自我のぶつかりあいという権力闘争になります。

女性の場合は料理や家事全般の不具合への言いがかりの言動ですが、男同士の場合は収入という稼ぎ高や社会的地位の比較などで無意識に嫉妬したり、優越感の態度がでたりして感情的になって災いを大きくします。 

この無意識が曲者で、対象相手は実は敏感に感じ取っておりますので、この溝が小さなうちに察知し埋める努力を始めないと、お互いが寛容さを失いヒガミやネタミの陰湿な応酬になってしまう修復不能の危機を迎えます。 

世代の違いは見えている景色の違いですが、人間は自分の見えている景色には疑いをもたないので、衝突を繰り返して溝が深まって行きます。 

解決方法はどちらかの譲歩以外にないので、世代が上の方が経験知を生かし譲歩すべきですが、舅や姑が過去の習慣から抜け出し譲歩する切り替えには、人生を俯瞰した叡智と若い人達への寛容の心を持てないと難しいと思います。 

参考になるのは日本の歴史的な慣習で、日本では家督を譲るという軋轢防止の制度が知恵としてありましたが、これは権利と一緒に義務と責任も付随して譲るという妙案でした。 

しかし戦後の年金制度と民法の制定が権利に伴う義務と責任を分断してしまい、近代特有の新しい個人の利己的な倫理観を生み出してしまったようで、これが社会的に孤立した老人達を増加させ、少子化に拍車をかける結果を招いています。 

個人として生き残る困難を結婚という制度で補完し、家族の維持に村を作って相互扶助で補い合い、国家が社会制度で国民の生存を保障する形態の制度疲労が進み、結婚しない人達や離婚の増加などで少子化にも繋がり、現在のような地域社会の相互扶助も崩壊してしまったこれからは、個人の生き残り方策も暗中模索の時代がきたような気がします。 

そして親族間における第三の原因は、親族間では各個人の人格的な優劣の序列が曖昧なことで、あまりに身近過ぎてお互いが実像を認識できず、自我だけが膨張していることです。 

この例として書店経営の方が昔私に言ったことですが、この方の次男は優秀で東大を出て有名大企業の副社長だった時ですが、次男は人間的にも本当に優秀でいつも俺(長男)の仕送りのお陰で今の自分があると言い、彼の妻も私に対して敬意を忘れない。 しかし他の二人は『俺・私だって本気で勉強すれば東大くらい入れる』と言い放ち、いつも私に頼ってきて面倒をみてあげても、すぐ忘れて生意気なことばかり言うどうしようもない奴らなんだ! と私に言った後、何事も口で言うだけの奴と本当に実行した者の間には天と地ほど人間力の差があるのだが、困った凡人ほど生意気な見栄を張って認めない。 

高野さん、兄弟としてただ一緒に育っただけで、自分にも同じ能力がある錯覚している人間がほとんどだ! だから凡人が多い社会では親族間の問題は永遠に続く! と私を諭すように教えてくれました。 

この方は他の妹と弟も親代わりになり仕送りをして高校と大学を卒業させ、自分はその為に望んでいた学業を断念して亡き父の代わりを果たし続けていました。 

いつも私の何気ない会話の中から諸々を察知し、来店時に自分の人生経験を例にあげ、謙虚さこそが真の人間力なのだと具体例を上げて励ましてくれました。

日本の殺人事件の半分が親族間なのは、このような親族間の錯覚が根にあって作用していることも原因にあり、東洋的な家族や親族の閉鎖性が、密室化した息苦しさの中で暴発しているのですが、DVや嫁と姑問題なども根は同じだと思います。 

つまり世代間の軋轢の原因になっているものは人間の業の中にあるのですが、身体的・経済的弱者に追い込まれても尚努力するような成熟した人間でないと、この業を自覚し己を俯瞰して業の枠から少しずつ抜け出して、真の寛容と感謝に辿り着けない難しさがあるからと思います。 

そして人間の物質的豊かさと精神的な豊かさが反比例する現象も、人間の精神構造に根本的な問題があるからで、際限のない豊かさを追い求める現代社会においての心の貧困化対策は今後の大きな課題でもあります。 

この問題の解決には新しい思想が必要なのですが、今の社会の本流からではなくきっと辺境から生まれてくると思います。