人格形成と本当の強さとは。

私は四人兄弟の次男坊ですが、この生まれた順が性格や人間性にも影響していますが、他にも時代背景や親の夫婦関係の良し悪しや裕福か?貧困家庭か? などもあり、それらの環境をどのように捉える性格なのか? 爺婆が同居しているか? どのような爺婆なのか? 等々が複合的に作用して、ひとり一人の人間性が形成されている複雑さがあります。 

兄弟でも普段お菓子などを取り上げる兄もいれば、優しく自分の分を分けてくれる兄もおりますが、年長者にいじめられている時に優しい兄は気付かないふりをし、体を張って助けてくれるのが意外とお菓子を取り上げる兄だったりします。 

これほどに人は局面によって様々な様相を見せ、表面的な優しさもあれば、心の深部に持つ優しさを照れから覆い隠し、普段は逆の愛情表現をする者もいます。 

好きな女の子に照れから意地悪をする悪ガキもいれば、私のように何も言えなくなる小心者もいれば、自信たっぷりに優しく言い寄れる者もおり、ベストはなくてもベターな関係になれる組み合わせは、お互いが表面ではなく心の深部を阿吽で理解できる組み合わせで、男女だけでなく同性でも相性がいい組み合わせと言えます。 一般に最初の子供は親に甘やかされるせいか? 鷹揚ですが、二番目の子は私のような狡猾さを身につけるのも環境で、三番目が出来ると挟まれた二番目はひがみ根性も生まれ易くなり、下の子ほど兄が出来ることは自分もできると思い込んで育つので、何でも真似をしてやりたがる早熟です。 

この早熟環境がスポーツ選手の一流に末っ子が多い理由かな? と私が思う所以です。 つまりいつも身近に目標があり、他人とは違う身近な家族なので俺も私もできると安易に思い込みやすいからです。 

人が何か難関に向かう時、必ずできると思って事に向かうのと、不安を持って事に当たるのでは結果に大きな違いをもたらすのは、邪念が集中力を奪い、錯覚でもできるという信念が実力以上の集中力を生むからです。 

邪念から結果が悪いと、焦りからより良い結果を求める邪念を生み出し悪循環に入りがちですが、結果がいい方は『俺はまだ出来る』と思い込み、努力を苦にしない善循環に入り易くなりますので好結果に繋がります。 

スポーツの場合は脳の運動機能をつかさどる小脳の機能が発達していないと駄目なので、これは遺伝が大きいので半分は親から授かっています。 

しかし人間の人生においては後天的なものが大変重要な要素で、普段寝起きを共にして化学反応を起こさせ切磋琢磨させる環境を人為的に作ったものが、西洋のエリート大学の全寮制です。 

これは人間の発達時期に異質なもの(触媒)と接触させて刺激を与え、その異質な触媒の刺激を受け、自らの意思で自己改革を行う化学変化に持ち込むことが後天的な教育に一番よい方法だからです。 化学反応は異質な物質を混ぜ合わせた方が予想外の物質製造に繋がりますが、暴発や爆発の危険も伴うので、寮生活には厳しい規則と厳格な管理者を置くことが必須です。 

家庭においては子供達を一面だけで判定せず、多面的にそれぞれを評価できる厳格な愛情深い父親がいないと、善循環を手に入れた子供が調子に乗り、傲慢になって駄目になる未来が待っていたり、他の子供達もひがみから駄目になったりする危険もあります。 

とかく親は子供の一部分を過大評価しがちですが、私は欠点ほど長所に変わると強力な武器になると思っています。 

臆病な子をみると、この臆病さを持ったまま挑戦し続け善循環を手に入れたら鬼に金棒になると思うのは、生来の恐れの強さから細心の注意を払いながら、長所を生かし欠点を補う方法を模索し繰り返し挑戦を続けると、失敗からも学びながら成功を手に入れるので真の自信に繋がります。 

まだ怖れを知らない子供を勇敢と安易に評価することほど危険なことはなく、こんな子ほど挫折すると逃避しがちな弱い人間になるのは、自分の弱さを自覚できない強さは脆いからです。 

勇敢なのではなく、ただ無知で無謀なだけの愚かさと思います。 最近は幼児期から親がプロの一流選手にするような教育が見受けられますが、私は親が注意深く見守って子供の好きなことを伸ばしてあげることこそが子供の幸せな人生に繋がると確信しています。 虫でも魚でも音楽でも踊りでも、『好きこそものの上手なれ』で、好きなことへの努力は苦痛ではなく快楽で、心が幸せなので努力していること自体が楽しくなっています。 

フランスの思想家シャルル・フーリエは人間には八百十通りの快楽(情念)がある、その個人の情念を全て解放するという『快楽原則』を唱えました。 

その内容は『人間の快楽を求める力は何ものも破壊するほど強いから、各個性が求める快楽を引き出し育て社会を築くと、効果的で効率的な良い社会になる』というものでした。 

フロイトは反対の『現実原則』の支配を重要としましたが、現実を考慮に入れて快楽原則に従った方が効果的と私は思っています。 現代人は他者からどう見られるか? を意識した職業や企業選びが多く、これは自分の為ではなく世間の方を意識した迎合なので、いずれ行き詰った時には大きな危機を迎えます。 

反対に快楽に忠実に職業選択を行えば、好きなことの努力で収入に繋げているので、危機も自己責任の意識から無我夢中で乗り越えることに繋がり、迎合より幸せな人生に近づくと思います。 

運転が好きなら個人タクシーやバスの運転手・海で遊ぶのが好きならサーファーのプロなど、自分で好きなことが判らない人は自らの特性を入力して人口知能(面接選考などは主観が入らない、こちらの方が正解のような気がします)が提示してくれるなどをしても良いと思うのは、最後の決断は人間がすれば良いからです。 

生きている目的が幸せになることなら、一般的な人はお金だけど、自分は何か? と考えるべきで、私は極力嫌な人との接触を避けて生計を維持し、手間をかけ努力しても美味しいものを食べ、隙間の時間も知的好奇心を満たす読書や映像と好きな運動を楽しみ、妻のように日常から一瞬で死へ旅立つ快楽三昧が願いなので、まるで快楽原則そのものです。 

大人になればお金は生活と自己実現の大切な必要条件ですが、現代人はお金が幸せの十分条件と思い込んでいるようですが、実はお金で買えない共感や達成感や自己犠牲的な愛情に燃えている時の方が、脳にドーパミンという快楽物質が出ていて、その人の心は幸せな気持ちになっています。 

私のようなたそがれ時の年頃を迎えると、自分がどう生きたか? を必ず思い知らされるもので、たとえ『下手の横好き』でもとりあえず生活できて、俺(私)は後悔のない人生を歩んできたと思えることが一番大切なことと思い知ります。 

とかく親は子供が生活に困らないようにと先取りしがちですが、どう生きるか? は子供の人生ですので子供に選択権があるのです。 社会で認められることは誰でも喜びですが、その認められることを追い求め過ぎると、追いつめられて行くことに繋がっています。 その時代にマッチしたお金になる才能を持つことは偶発で、そこに照準を絞って努力することも選択ですが、果たして人生の終盤に本当に満足して『ああ楽しい人生だった』と思えるのだろうか? と私は思ってしまいます。 

社会的に認められることは確かに快楽ですが、それを目的にすると自分自身の人生が自分のものでなくなる危機をいずれ迎えます。 いつも認められることを求めて、自分自身が振り回され苦悩し、自分で自分自身を追い込んでいる人達をたくさん見て参りました。 私は川端康成がもしノーベル賞を貰わなかったら自殺しなかったのではないか? と思っています。 

全てはそのステージに座った人しか味わえない苦悩があり、三島由紀夫への書簡から推測すると、本当に受賞する価値は三島由紀夫にあり、自分は文学賞が東洋から選ぶ順序と、日本なら三島由紀夫だが年齢が若く次の機会もあるからが考慮されたなど、文学者の豊かな想像力の狭間で苦悩した結果の自殺で、だから受賞後に名誉は重荷で邪魔でむしろ私を萎縮させると述べていたのです。 

三島由紀夫の割腹自殺は川端康成がノーベル賞受賞の二年後で、その愛弟子三島由紀夫自殺の二年後に川端康成は自殺しています。 川端は寝たきりの祖父の下の世話を十五歳の頃にしていたので、老いと共に自分自身も強い恐れを持った事もあったと思います。 もし三島由紀夫がノーベル賞を受賞していたら、二人共自殺しなかったのでは? と思うのは、三島由紀夫は自己顕示欲が異常に強く、川端康成は異常に弱い、『割れ鍋に綴じ蓋』の稀な師弟関係だったからで、三島が受賞していたら川端康成は心から喜んでいたと思います。 

どちらの性格も育った環境が大きく影を落としていて、特に三島由紀夫の幼少期の養育環境は異常で、その異常環境の欠点が鋭敏な感受性という長所を育て上げたのだと思いますが、二人はリストとワーグナーのような真の天才同士の関係に似て、三島が受賞しても川端康成は凡人が持つような嫉妬を決してせず、真に心から喜んだリストのような天才だったと思います。 

人間は認められたい! 選ばれたい! が根底にあり、いつも他者と比較して自分自身の価値観を推し量る生き物で、それが若い時の生への原動力にもなるのですが、いずれ加齢と共に衰えから若い人達にその座を譲る時が必ず訪れます。 

その時に『心から自分らしく生きられたな』と思えることが、その後の人生を支えてくれるような気がします。 

親が好きなことを選択させ見守ってくれたら、子供はその結果責任をしっかり背負って生きて行くものです。 

だから子育てをしている人達には、親や今の社会的な価値観を子供に押し付けないように心がけ育て、それぞれの良さや好きなものを親だけは認めてあげて欲しいと願ってしまいます。 

人は家も親も順番も性別も選べずに生まれ落ちているのですが、それぞれが誇れるような個性や、本人も持て余し困るような個性などを持っていることも選択できずに生まれて来ているのです。 

誰もが成長過程で人を羨み、自分を卑下する葛藤を繰り返し成長するのですが、その葛藤に苦しんでいる時に親だけはいつも自分を認め見守ってくれたという記憶と実感の確信は、お金では手に入れられない一生の人生を支える精神的な支柱になる強靭なものになっていると信じています。 

持って生まれた個性を親に尊重されて育った幸せな少数の人は、意外と他者に嫉妬させない赤裸々な不思議さも合わせ持ち、飄々と浮世をしたたかに生き抜きます。 

三島由紀夫や川端康成のように跳ねる人は自分の中の嫌なものや生い立ちから目をそらさずに見続け、知性という刃によって修正し続ける忍耐強さを才能として持っていますが、この強さが『諸刃の剣』として自殺を招く脆さも併せ持っており、この根深いところにある脆さはあるがままの自分を親に受け入れられて育った、という母性・父性への確信が、土台の所で揺らいでいるからです。 

私も同じ脆さを持っていますが、妻が母性で包んでくれ維持できたのは、吉本隆明風に言うと妻が私の想像力を取り込むという『対幻想』を日常的にしてくれ、気が付いたらふたり一緒の『共同幻想』になっていた妻の母性的な譲歩のお蔭でした。 

夫婦という人間関係において、危機を迎え破綻するのは、お互いが自分勝手な妄想を膨らませて非難し合う、『自己幻想』のぶつかり合いの結果です。 

今の私が根っこにある脆さと葛藤する時の消化法は、いつも亡くなった妻の写真との日常会話による仮想対幻想です。 

無差別殺人や猟奇的事件やDVや虐待が増加している現代の背景にあるものは、お互いの想像力を交差させて具体的な人間関係を築く対幻想ができないアダルトチルドレンの増加が原因で、ひたすら自己愛だけを追求して他者の領域を侵したり傷つけたりする未成熟な人間増加の結果なのです。 

このような人間を増加させた原因はテレビ・映像・雑誌による生身の人間がいない妄想世界の過激化があり、過激化すればするほどに儲かるという消費資本主義社会と、その影響を真に受けて育った人達の自分勝手な性愛資本主義の蔓延が根本にあると思います。 

『三つ子の魂百まで』と言いますが、危機に強い人間の強さの源泉になるものは、両親による愛が伴う厳しさと共に、私は真に愛されたという生への確信で、この確信こそが人間の一生を支えてくれる揺るぎない土台になると私は思っています。