友情と愛情(恋愛)

 六十七年間の過去と残り未知数の未来の人生を俯瞰・客観視して思うことは、人の人生における成長・成熟・退廃・挫折などで成功者になる人も犯罪者になる人も、全てある他者が介在して起こっていて、親や親類などの必然と、書物や友人や夫婦などの偶然の出会いの交差によるものが、人それぞれの人生の色合いを塗り上げているように感じています。 

『健康で健全な人間とは嫌なものである』と言った山本夏彦氏の本意は、健康で健全な人間が日常放つどうしようもない人間の心の中に巣食う獣性を指しています。  

 成功者にはその人の好ましい影響や甘い汁にあずかろうという友人が増え、努力をしても不幸な挫折の人を憐れむ人々は、自分達の優越を確認し楽しんでいるのだ。 

 中にはその時は真に同情し、あまりにも不幸だと考えてくれた人でも、風向きが好転し成功して恵まれると、今度は幸せ過ぎると思うようになる。 

 こうした友人が多数で、成功や幸せを喜んでくれる者だけが真の友人で稀である。 という趣旨の事を述べていますが、真の友人とは幸福な者をも助けようとする真の寛容の精神を持っている人間のことと結んでいました。 

 このことで思い出すのはピアニストとして名誉の絶頂にあったリストが、その当時の全ての人を敵にして戦っていたワーグナーを支持したことです。 

 その後リストがワーグナーに追い越され追い抜かれた時も、ワーグナーの演奏披露会にかけつけた聴衆の前でワーグナーを賞賛したそうです。 

 当時リストは名演奏家としては賞賛されていても、作曲家としては認められていなかった状況に苦悶していましたが、競争相手の勝利には賞賛と栄誉を与えた真の友人だったと読んだことがあったからです。 

 一般的に人は、自分より優れている人を好んで愛せる人は稀で、自分より劣っている人しか愛せない人達が圧倒的に多いから『不肖の弟子』は自分以下の不肖ゆえに可愛いのです。 

 このことで思い出すのは芝居の新国劇で、辰巳柳太郎・島田正吾の二大スターで全盛の頃、二人に憧れて入団した俳優緒方拳が頭角を現し始め、二人を凌ぐ人気の勢いが出始めた直後に退団している内情も嫉妬です。 

 緒方拳の人気が出始めると、名前は忘れましたがスター性のない二番手の『不肖の弟子』を重用し始め、退団するように緒方拳を追い出したのが実情です。  

 新国劇の脚本や演出をしていた池波正太郎がその前後に去ったのも同様の理由で、結局若いスターを育成しなかった新国劇は解散に追い込まれました。 

 親方の可愛い弟子は、親方を凌がない弟子の方が安心だから可愛いだけで、親方以上の力量を持つ者は凌ぐ恐れから嫉妬するのが常人で、今の大企業の不祥事なども自分以上の器量を持つ者を重用する器がなかったことが遠因です。 

 真に優れた経営者とはおべっかを使う人間を遠ざけ、我をも凌ぐ優秀な後継者を認めて、三顧の礼で後を託す謙虚な器量を持つことですが、これも稀です。  

 次に男と女の間に友情は存在するのか? ですが、逆説的に言うと男女間においては、知り合いから発展し友情に近づくと必ず恋愛感情が入り込むので、友情を伴わない愛情に変質するのがほとんどだと思います。 

 しかし私は男女間の友情は意外と恋愛の外にではなく、恋愛の内側に存在しているものが稀にあると思い、恋愛感情から卒業した愛情になった時に、初めて性差を超えた友情になるのではないか? と妻を亡くしてから振り返るたびに思い、そんな時いつも私の人生の戦友であり同士を失ったような寂しさに襲われます。 

 若い時の肉体的な結合からの一体感は一時の快楽による錯覚で、その錯覚から醒めた日常の中に自由で軽やかに共感できるものが存在することが男女間の友情になるような気がしています。 

 お互いが異質なものであることを認め合い、喧嘩し口論することから議論に伴う責任を背負い、『こういう人なんだ』と認め合い近づき合い、お互いが思いのままに振舞いながら一致できる関係の中には、お互いへの尊敬の念も心の奥底にあります。 

 肉体と精神からなるひとりの人間として、どちらも同じ比重で大切ですが、とかく若い時は肉体に比重がかかり、老いて精神に比重がかかって初めて成熟した人間関係に近づくように思います。 恋愛感情の内奥には、対象の相手を肉体的にも精神的にも所有したいという人間の本性としての獣性的憧れがあり、その対象に対して自分の役割を果たし犠牲になっても与えたいものがある人は対象を深く愛し、与えたい気持ちが萎えてしまった人は役割を放棄し憎悪に変わる危険が潜んでいます。 

 その対象相手に沸き起こる憎悪や嫉妬は虚栄心や自尊心から発するもので、その時対象相手を愛する者としてより、自分の所有物としての意識が勝っているからです。 

 嫉妬深い性質の強い人は、本当に人を愛することができない病弱な子供に似た精神の弱い人ですが、しかし抑制の効いた少しの嫉妬は、恋愛相手への敬意として払うべき礼儀でもある矛盾も内包しています。 

 基本はお互いが礼節を忘れないことで、礼節は非難を抑制し、怒りから発する言葉を正してくれ、お互いの感情を愛情へと導く大きな効果があります。 

 人は誰でも愛されたいと思う相手に対して、特に女性は自分自身の感情をむき出しにすることを恐れるものですが、長い夫婦生活においては互いの感情を気前よく出せることが必要です。 

 それでも円滑な関係を維持するには、お互いに素直でありながら狡猾であることを絶対に放棄しないことと、いつも相手の中に自分が惹きつけられるものを見出す努力が必要です。 

 特に女性は自分の特質を褒め励まされると自分らしく振舞うことができるようになるのは、相手に求めることより頑張っても与えたくなる母性があるからです。 

 どうも妻を亡くしてからは、自然に振り返り友情より愛情に偏りがちですが、私の中に愛情から友情が芽生えたのは、妻は生理終了後から肉体的繋がりを好まなくなったので、尊重して我慢したことも関係しています。

 最初の頃は男の血が騒ぎ忍耐が大変でしたが、亡くなる十五年程前から愛情の中から戦友としての友情みたいなものが多くを占め始め、性愛は接吻と抱擁だけで過ごしておりました。

抱擁後妻はいつも『私を見送ったら、若い良い人を見つけて頑張       れ』と尻を叩き私を励ましてくれましたが、性愛とは魂と肉体を酔わせるアルコールに似て、非常に短い幸せを感じさせる幻想のようなものと最近は思っています。 

今はせめて死後でも交わりたいので、二人の遺骨を混ぜて欲しいと娘にお願いしたいのですが、照れもあり中々言う勇気が持てず、いまだに心の中に閉じ込めたままです。  

最後に男同士の友情と、女性同士の友情の大きな差異として追加されることは、女性同士の場合は性格や倫理の類似より、お互いの境遇の類似の方が結び付きを早く強くする傾向があるように思いますが、類似関係が崩れると友情関係も崩れる脆さがあります。  

友情と愛情について思った私なりの六十七年間の総決算は、友情には本物が存在するのが稀という困難があり、いつも意外な真実から破綻する危険があります。 

そして愛情は持続させることに大きな困難があり、いつも何かの嘘から破綻する危険を抱えているような気がします。