孝行は自然の情ではない。

豊かになった現代ほど虐待が増えているのはお金が目的の社会になった為で、食べ物に困った時代には子供を特に娘を売った時代もあったように人間も動物で自分自身が一番大切な生き物です。

しかし動物の母親は命賭けで子育てをしますが、養育時期を終了すると次の繁殖行動に移り、命を賭けて養育した子供も眼中になくなるのは本能に忠実に生きているからだと思います。

しかし人間は知性を獲得し、特に豊かさに慣れ欲望が肥大し始めてから本能が次第に薄れ、知性も教育環境や生活環境や大きくは時代環境によって変化して行き、生まれや環境で知性も性格も大きく違いが生じるので、その一人ひとりの人間性の違いが常識や倫理観の違いとして現れ愛情深い人もいれば虐待する人もいるわけです。

そして人間はその人生で獲得した知性と倫理がその個人の人生を支配し始めるのですが、一般的には虐待ではなく愛情を持って子育てをする方が動物としての基本本能に備わっていたのに、お金がなくなると食べ物にも困り、または贅沢に慣れ驕って自己本位に陥り、追いつめられた人は精神的ストレスからより弱者への虐待です。

つまり動物的には自己の次に子供で、子供が自活し自立できたら親としての仕事は終了が正しい姿のように思います。

しかし人間は豊かさと共に動物としての本能を失い始め、知性を利害という損得に使うことを優先するようになり、何故か? 育てた子供達に親孝行を教育の徳目として教え始めました。

こんな事を考えさせられたのは、妻を亡くし一人になった私に何かと『娘さんが』という言葉があり、私自身あまり意識していなかった親孝行が意図にあるようなので考えさせられました。

私自身は育ててもらった情が母親にはありましたが、特に親孝行という意識でやって来たことは有りませんでした。

自分勝手な父親の数々を許したのも孝行ではなく、娘と妻と三人の生活の幸福感と仕事への充実感を自覚した時、これも両親に生を授かったお蔭と思い許しただけで、そこに親孝行などの気持ちは欠片もなかったように思います。

私の父は親に依存して育ち親孝行もしませんでしたが、子供達には依存して孝行を迫る『弱い可愛そうな反面教師』の人でした。

私は親孝行は人間が本来持っている情ではなく、教育という強制力によって染み込ませたものだから滅びて行って当然と思っていて、大正デモクラシーの時代頃は親不孝が流行し、それ以後の核家族化の進行と共に親不孝は加速し、その結果が現代の社会問題のオレオレ詐欺や老人問題に繋がっていると思っています。

つまり孝行への親の期待値は大きく、それに対して子供達の方は小さくなり、そのギャップが老人問題の根幹と思っています。

私は親より妻と娘が大事でしたので、私の娘も夫と孫が大切で四番目がお父さんだからね!と言われた時は嬉しかったのです。

私は世界で妻が一番で娘が二番目に大切と言い続けていましたが、娘が中学生時の夕食中『お父さんはお母さん一番だけど、お母さんもお父さんが一番なの?』と何気なく妻に問いました。

その瞬間妻が伏し目がちになり食事を中断したので不穏な空気になりましたが娘が詰め寄ると、妻は目を伏せたままに『私は??ちゃんが一番』と娘に言うと、娘が私を指さし『やーい二番だって』と言ったのですが、これも動物(妻)の子育て中の自然の摂理なので、娘には『愛情は取引ではなく、ほとんどは一方的なものではないか?』と答えました。

その後娘が結婚し二年程経過した頃、妻とドライブ中に『今でも私は二番目ですか?』と聞いたら、即座に『もう??ちゃんは二番で、お父さんが一番』というので、私は『お母さんのその打算的な所が好きです』と返事したことが懐かしく想い出されます。

最後は自分への利に走るのが動物としての生への執着心で、それを善悪で論じるのは間違いのような気がしています。

昔丸山ワクチンというのがありましたが、何故有力な病院や医者が拒否をしたか? も病院や医者が儲からないからです。

丸山千里博士は徳を積んだ人で、一アンプル二日分が四百五十円で患者さんに処方していたので、病院経営にならない多くの医者が癌には効かないとむきになって言っていたのです。

このように本能として生きることより経済が優先する社会になってしまった結果として、人間の動物としての本能が抑え込まれた心の不合理さが精神を蝕ばみ、その蝕まれ抑圧された心の外的症状として鬱病・虐待・不登校・引き篭もり・いじめの蔓延・無差別殺人などの病が増加してきたのでは? と思っています。

核家族化の進行と共に親孝行という教育の建前の力が衰え、電話やテレビが普及し今はパソコンと携帯の時代ですが、全てが個の進行と物欲へと向かっているのが文明進歩の結果です。

電話がない時代の小説を読むと、来客はいつも不意にあらわれたのですが、電話が普及してからはまず電話して相手の都合を尋ねることが礼儀になり、不意に訪れることは無礼になりました。

しかし人間は誰でも不意に人恋しくなることがあり、友に逢いたくなったり息子・娘の声を聞きたくなる時があるのです。

電話しても某日が都合がいいと言われると、今逢いたいとは言えなくなって友との面会を断念し、忙しそうな子供の迷惑そうな言葉と態度に萎えて以後電話を躊躇するようになるのですが、これが問い合わせが困るオレオレ詐欺の好都合になっているのです。

地域社会も崩壊し孤独より辛い孤立状態の人恋しい老人に、息子や娘の一大事の連絡が一方的に知らされ、心配で心乱れても電話して確かめられない躊躇が実は日常の中に存在するのです。

昔詐欺に遭ったお婆ちゃんが私に言った言葉が忘れられないのですが、私は承知で騙された『あの人達は息子より優しかった、お金で優しさを買ったの』には胸が詰まり返答に困りました。

このお婆ちゃんには『親孝行は教育の力で、自然の情ではない』等とも言えず、誰に迷惑をかけたわけでない『自分のお金だからいいんじゃない!』と慰めるのがやっとでしたが、優しさは子供からは無理でも他人からはお金で買える時代になったのです。

子供を育てた恩を売り親孝行を求める人がいるなら、あなたも親に育てられて親孝行をしたのですか? と聞くときっと怒ります。

皮肉なもので親孝行をした人は、子供に親孝行を望んでいないもので、子供が自立し幸せに過ごしてくれると満足なのです。

人間は動物と違い本能と共に知性があるのですが、中途半端な知性は知識を悪用することに繋がり易いものですが、理性にまで高めると損得を越えた倫理に照らし合わせて判断するのは、最終決断をする脳の情動をも理性はコントロールするからです。

私は妻と出会うまで死にたいと思いながら生きていましたが、今妻がいなくなっても生きているのは、長年お世話になったお客様と娘達に心配と負担をかけず力になりたい思いだけで、このふたつを果たすために食生活と生活習慣に留意していますが、お釈迦様が言った四苦の生・老・病・死は辛い順番と思っていて、心や体の痛みを伴う生きることが死ぬことより辛いという思いを実感しています。

しかしその辛い生きることを、愛する誰かのために一生懸命に夢中になって過ごす人生が、やがて老いて病を持ち死を迎える状態が近づいた時でも、死を恐れない満足感を与えてくれると思っているのは六十七年間の人生で学んで確信しています。

私は教育と洗脳は紙一重のような気がしており、親孝行などは教えるものではなく、自分の人生を努力し豊かに充実させると、自然に生を授けてくれた親への返礼の情が湧くものと思っています。

逆に努力を怠り自分の人生に不満を持っている人は、いつまでも親への依存しか頭にない未成熟なために、親からの搾取と自分の子供への虐待などの迷路の中でもがいているのだと思います。

私はせめて娘達の孫が小学校にあがり、孫が親の立場や気持ちを理解し察せられる年齢になるまで、動物の親として少しでも力になりたいと思っているだけで、やがて力になれない体になったら妻のように一気に死を迎えたいが唯一の願いです。

私にとって自分の死は大きく捉えると社会奉仕であり、新陳代謝であると思っている一種の社会貢献です。