負け戦。

先日近所のスーパーに歩いて行くと、昔この商店街にいた人と出会ったので『こんにちわ!お久しぶりです』と挨拶し、5m位行くとその方の奥さんとお兄さんが角を曲がって現れたのでご挨拶をしたその時に、後方から『まだ生きていたんだ!』という声が聞こえましたが聞こえないふりをして行きました。

この人はこの商店街にいる頃から、何故か? 対抗意識みたいなものがいつも感じられていたので、多分通り過ぎた後に私の妻が亡くなったことを伝え聞いたことを想い出し、咄嗟に出た言葉がお悔やみではなく溜飲を下げる言葉になったのでしょう。

前にも書きましたが、人は日頃の平静な時には演じ隠していても、咄嗟の時に人間としての本性のような感情的なものが表出してしまうものですが、私には平常時において『人の本性』を見抜いたようなひと言が漏れ出し、その特異な感受性が良い所でもあり悪い所でもあると生前の妻に怒られたことが原因と思いました。

察する』という言葉がありますが、一般に人は判られたくないことを察せられると不愉快になり、判って欲しいと密かに願っていることを察してくれると嬉しくなるのですが、お父さんのような人は障害児や子供のような弱者の立場である後者の人には好かれ、前者のような一般の人には嫌われる傾向があるけれど、私のような者には都合がよい人とも妻に言われておりました。

妻を亡くしてからはひとり言が多くなり、良いことも嫌なことなど何があっても聞いてくれる人(妻)がいなくなったので、いつも死んだ妻にひとり言で話しかけているのです。

妻が亡くなった当初は世間も死んだ妻の話を聞いてくれますが、これは浮世の義理でいつまでも妻の話はできないので、私一人だけは死んだ妻と話し続けてひとり言になるのです。

そんな私の中で妻が生き続けているとは誰も知らず、妻の死後も変わらず営業を続け、料理をして洗濯をして身なりも変わらず整えて生活をしている姿を怪しまれて、負け犬の遠吠えのような言葉を浴びせられるのでしょうが、もう喜怒哀楽のような感情的なものを出来るだけ封印して生き、残りの人生は全て『人として、どうあるべきか』だけを思案し余生を過ごしたいと思っています。

妻亡き後も生きている限り元気なふりを続けるのは浮世への義理で、この浮世への義理を果たし続けるには妻の想い出という形見が詰まったこの家で死んだ人との会話が必要なのです。

『まだ生きていたんだ!』と遠吠えした人も、思わず遠吠えしたくなるような気の毒な傷を抱えていて、彼に有って私に無いように見える傷のようなものへの嫉妬が言わせた言葉ですが、これなども何かと他人の癇に障る言動の多い私の不徳の致す所と思います。

これからはこのような罵詈雑言や陰口に遭遇することが増えるのだろうなと予測しながらも、もう死んだ人と話をするような半分死んで生きている私ですので、いろいろな意味で潔く様々な負け戦を受け入れていかねばならないのでは? と覚悟させられました。

先日も目の周辺が腫れて治癒しないので皮膚科に行くと、最終的に水泳のゴーグルのゴムに負けたようで治療中です。

人は成長につれ様々なものを獲得してきたのですが、五十歳過ぎから体力的にも様々なものを失って行き、トライアスロンを止め、マラソンを止め、残った水泳も止めなければならないのか? と覚悟みたいなものをさせられました。

妻との別れも覚悟はしていても現実は覚悟以上のもので、ひとり言の毎日も妻への未練があるからで、これからは生活のどの部分においても未練と負け戦の連続が待っております。

朝起きて散歩三十分・髭剃り整髪二十分・朝食用意三十分・食事とトイレで四十分・食器洗い十分で開店ですが、この二時間強が浮世と繋がるために費やしている時間のように思えて来ました。

様々な未練を抱えながら今後の負け戦を如何に潔く全うできるか? 何処にも自信はないのですが、元気なふりをして生きなければならない義理が浮世にあるとは思っております。