日本人とは?

籠池氏をめぐる政治状況の不透明さや過重労働を伴う格差拡大のような力が正義の状態が蔓延している昨今の社会状況は、いったい日本人の何に起因して起こっているのか? を考えてみて、その答えは極限状況と慢心状況の時に湧き出る人間の行動の中にヒントがあるのでは? と思い故小松真一氏の『虜人日記』を読んでみて答えらしきものを感じました。

私自身には戦争体験がないので微妙な行間や状況を読み解くことができないので、この日記を解説した山本七平氏の『日本はなぜ敗れるのか』を読んで、戦争という極限状態における人間の暗部を正確に知らされ、生物としての人間の食欲・性欲・金の欲による暴力性を思い知らされました。

この日記は太平洋戦争末期にフィリピンに行った小松真一氏の体験記で、捕虜収容所での異常体験を絵と簡潔な文章で記録したものを骨壺に入れ隠し持ち帰り、著者が亡くなるまで銀行の貸金庫に三十年間眠っていたものです。

 

人間の本性(以下は小松氏の日記)

人間社会では、平時は金と名誉と女を中心に総てが動いている。 それらを得る為に人を押しのけて我先にとかぶり付いて行く。 ただ、教養や色々の条件で体裁良くやるだけだ。 それでも一家が破産したり主人公が死んだりすると財産分配等にたちまち本性を現し争いが起こる。 戦争は負け戦になり食物がなくなると闘争が露骨にあらわれ、他人が餓死しても自分だけは生き延びようとし、人を殺してまでも、そして終いには死人の肉を、敵の肉、友軍の肉、次いで戦友を殺してまで食うようになる。 平時において金も名誉も女も不要な人は人望のある偉い人である。 偽善者や利口者やニセ政治家はこの真似をするだけだ。 世渡りの上手な人はボロを出さずに、このコツを心得ている。

戦時中に命も食物も不要な人は大勢の兵を本当に率いる事ができる人だ。

こういう人を上官に仰いだ兵隊は幸いだった。 負け戦で皆が飢えている時、部下に食物を分かち与える人、これは千人に一人いるかいないかだ。 捕虜になってからも食物を中心に人心が動き勢力が張られた。 どうにもならなくなった時、この一切れの芋を食わねば死ぬという時にその芋を人に与えられる人、これが本当に信頼できる偉い人だと思った。 普通の人では抜けられぬこの境地に達し得た人が上に立つ人だ。 この境地に少しでも近づきたいものだ。 修養の目的はここにあるのではないか。 戦国の武将の偉い人にはこのことを実行した人が多かったようだが、現代の武将には皆無といってよい位だ。

こういう人には自然と部下ができ物資には不自由しないのが妙だ。 だれかが『無一物中無尽蔵』といったがまさに名言だと思う。  この心境に到るには信仰以外に道はない気がする。 人間とは弱いものだから。

 

つまり人間の本性は絶好調の有頂天な時と追い詰められた窮地の時に無意識に現れるもので、今の政権の大臣の不祥事などは長期政権による慢心で、戦争窮地の負け戦で追いつめられた時は本能的恐怖心からエゴイズムがむき出しになったのです。

組織やある一定区域の人間集団で、自然に発生する秩序がどのような形のものになるのか? は各人が心の内に持つ自己規定が現れるのですが、その自己規定を決定づけるものは育った過程における文化の思想的確立が大きく影響しています。

逆説的に言うと食料が不足した捕虜生活という極限状態の中で打ち立てられた秩序が、その民族の文化と思想をさらけ出しているので、米軍は捕虜を将校と兵隊に分けていたそうです。

要約すると日本軍を支えていた全ての秩序は文化にも思想にも根ざさないメッキのつけ焼刃であり、特に将校のような高等教育を受けた者ほどメッキがひどく、メッキがはげ落ちると生地は腐食していたので、将校区画の秩序は暴力という力が支配する最悪の場所だったと述べています。

逆に教育というメッキをほとんど受けていない兵士達の区画の方が人間らしい秩序であり、特に捕虜の中から選抜された家具や建具職人の秩序は立派な居心地が良い区画で、その職人達の高度な技術は日本の文化と思想に裏打ちされたものと米兵達が感心していたと述べています。

この部分を読んだ時、頭に浮かんだのは私の人生で数々のアドバイスを頂いた方で、その方はシベリアに抑留されロシア人の言動を観察してロシア語を覚え通訳の役目をした人です。

その方も将校ほど食べ物に汚く、取り合い殴り合いだったが、若い洋服の仕立て職人だけは毅然としてその光景を眺めながら『可愛そうな奴らだ』とさげすんでいたそうです

その若者は毅然としたまま餓死をして行ったと言い、俺はシベリアで人間を見る目を身に付けたと言って、三十年ほど私の商売を見守ってくれ、窮地には会社(15店舗ほどの本屋さんを経営)に行かず、私の店に一日中いて助言をしてくれました。

その方の助言がなければ今の私は有りませんでした。

その方の話も小松氏の書いていることと同じで、捕虜収容所における日本の職人達には何ら虚飾がなく、伝統文化に基づく秩序という文化が厳然と内包されており、その職人技術においてはアメリカ人よりはるかに優れていたので、アメリカ人に対して何の劣等感もなかったので、米軍MPが完全に放置しておいても、職人区画の捕虜達は自然発生的に職人的な秩序を作りだし暴力的秩序は皆無だったと記述しており、その後観察していた米軍MPが収容所内暴力団をほぼ同時に一掃したそうです。

小松氏は『敗因21か条』を記していますが、貫くものはその頃の日本人に日本文化の確立なき為と、思想的に徹底したものがなかった為だが、職人の世界だけには残っていたのです。

現在の日本の政治状況を見ても、自民党内に異論を唱える論客もなく権力者の顔色を窺う者ばかりで、東芝の次には日本郵政など次々に大企業の不祥事が出るのも、太平洋戦争時と同じ様に権力者の顔色を窺う集団に成り下がったからだと思います。

 

捕虜おとなしくなる(以下は小松氏の日記)

帰国がいよいよ決まり、あと何日となると今まで威張っていた連中が段々萎れてきた。 彼らの心境を研究してみると、日本へ帰ってから生活していく自信がないからだ。 今迄小さくなっていた社会的経験者、時代に合った職業、腕を持った人だけが本当に明朗になり自信に満ちた喜びを味わっている。 

今までこれらの人にけんもほろろだった連中は急に頭を下げだした。

面白いようでもあり、気の毒でもある。

 

 

自己規定に伴う内的に確立した自信が無い者は、その場その場の状況に支配され威張ったり萎れたりするようで、現代の拝金主義も思想的に徹底したものがないからと思います。

人間とは食料がなくなると飢えで狂い、共食いを始めるような『弱き人間』と自覚している人間だけが、その状況に落ち込まないように不断の努力するもので、その努力を積み重ねることで初めて人間らしく生きられるのだと思います。

飢えの写真や映像への同情は、遠い異境のことと思える無関係の時の感情であって、その飢えが身近に迫ると本能的恐怖心から見まい触れまいとして退けるのが生物として自然な行動で、特に幼児は正直な反応で私自身を振り返ってもそう思います。

生物である人間が一番恐れる事は飢餓で、その食料を国民に配給することが国家という社会機構の果たすべき基本です

社会主義・資本主義の体制にかかわらず、国民に食料を供給できない国家体制は崩壊するのですが、現代の日本では空気のように食料への不安がないので、お金や地位や名誉に狂騒していますが、石油危機の様子を知る私には、現在食料が欠乏すれば捕虜収容所の将校区画のようになると思います。

今この芋を食べないと死ぬと思う時、他者へ与えた者に返礼される数々が無尽蔵になる『無一物中無尽蔵』の言葉は私の人生を振り返っても実感できる言葉ですが、そのような人達は現代でもごく少数(数%)と実感しております。

妻の一周忌以後の覚悟は、人は必ず死ぬのでお金は生活する分だけで良いので、固定客の方達への役割を果たすことだけに努め、その方達の減少と共に体力も減少しますので、できるだけ新規来店のお客様には穏便にお帰り願って、ごく少数の心地良い人達だけと接して人生を終えたいと思っております。

今迄仕事以外で妻が支えてくれた家事などの数々も背中に背負い大変ですが、食生活が乱れると人間性も乱れ、いずれ仕事も乱れますので三食も極力手作りで過ごし、整理整頓・清潔な生活を心掛けないと仕事内容にも波及するからです。

シャープ・東芝に続き日本郵政にも巨額損失報道ですが、日本軍のように異論を許さぬ組織の慢心・蔓延が原因で、政治も大臣の不祥事や辞任が続いても党内から異論がでない自浄作用の欠落も自民党結党以来初めての現象のように思います。

これらにも戦時中と繋がる怖さと不安を感じます。

森友学園の籠池氏も寄ってたかって葬り去られる気配ですが、今のような非常識な前提を『常識』として行動する日本人の様子を見ていると未来が心配になります。

このような現象の根本的原因は、意外に思われるでしょうが私は食の乱れと個食化にあるように思います。

家族が食卓に集まって、それぞれの一日を話しながら美味しさを共有する団欒の中に、家族を支えるお父さんの力と、お母さんの手作り料理の過程において込められたビタミン愛の実感と子供達の様子を知る会話による一体感です。

貧しさを克服して豊かさを手に入れたら傲慢になったようで、日本人全体が贈与より搾取で、強者に迎合して弱者から搾取かイジメの時代になってしまいました。

コンビニ・レトルト・ファーストフードの氾濫が生物としての人間生活の家族という原点を破壊し始め、生かされているという自覚による人間性をも破壊し始めているように思います。

お父さんは家族を守る為に働き、お母さんは家族の喜ぶ顔と健康のために料理する、その無償贈与行為に支えられた団欒が相互理解を生み幸せを実感させ、愛する人の為に努力するという人間としての真の勇気に繋がると思います。

貧しさは卑屈さを生み、過度な豊かさは傲慢を生み出すので、やはり何事においても少し足りないくらいの状態が努力を促進し、謙虚な心根に繋がって良いと思います。