言霊。

新年明けましておめでとうございます。

正月は料理の時以外は、ほとんど本を読んで過ごしたので腰が痛く、四日から針灸治療院通いです。

妻がいない一人の生活になってから、普段も仕事と料理と家事で忙しくても図書館から借り、三食後の歯磨きをしながらまるで貪るように読んでます。

妻を亡くしてから、エンドレス・テープのような忙しい生活なのに、『何故だろう?』と自分で疑問に思い考えさせられました。

思い到ったことは好きな人の本を読むことは好きな人の話を耳で聞くことに繋がっていてブログも忙しい中でも書き続けるのは、書くことが読んでくれる好きな人に話しかけることに繋がっており、話を聞いてくれる妻を失った自分が、孤立から逃れ架空の好きな誰かと対話しているようです。

本を読むことは、その前に著者の選択をしていますので、結局好きな人との対話になっており、ブログも読む人に興味もなく波長が合わない人は読まないので無意識的ですが好意で繋がっています。

言霊という言葉がありますが、人は話し・聞くという対話で発する言語内容によって、人間性そのものも変わって行き、念じたことは実現に近づきますので、やはり言葉に霊は潜んでいます

物事を良い方に考えるか? 悪い方に考えるか?

良い人間と交際するか? 悪い人間と交際するか?好き嫌いで選ぶ交際か? 損得で選ぶ交際か?

など選択は人によって様々ですが、この無意識的な選択も人生の幸・不幸を左右しています。

暴走族が集まるスナックの経営者は似た者であるように、店舗でも売り手と買い手は無意識にお互いを選び合うことで成り立ってます。

価格だけを見ている人と、物と価格と売る人を見て信頼感も基準に入れ選択している人とでは、見ている奥行と幅が大きく違い、その違いは言葉使いや会話の内容に自然に滲み出て来ます。

昨年は藤沢周平さんの全集を読み、その人間性に触れ今も私に欠けているものを学び、今年は山本七平さんの本を全て読もうと決めておりますが、このような読書を通じた対話からも著者の言霊を受け取っているような思いをしております。

ひとりになると妻との想い出も私の財産になっていて、家事をしている時などは妻から遺産相続したものを使って日常を過ごしているような気分です。

正月休みの元旦だけは高校時代からの友人を美唄まで訪ね、懐かしい会話の一日を過ごしました。

彼も昨年の十一月に再婚した伴侶を亡くしたので、正月休みにゆっくり話そうと打ち合わせ、およそ半世紀の付き合いでも,互いの辛苦で中断した時期も含め話さなかった人生の中身を忌憚なくをしましたので、帰宅車中は時間の速さを実感ながら、老いて知る人生の深さを思い知り振り返りました。

彼は私が高校二年生の時に留年してきて一緒のクラスになった友人で、留年理由は彼の抑えきれない若さからくる欲望のつまずきで、その後持て余した若さから家出をし東京にも行ったと後で聞きました。

その後私が自動車短大に行くと言うと『俺も行く』と言い、短大の二年間もいつも一緒に行動し学校よりスマートボールという娯楽施設に入りびたり換金して遊んでばかりいました。

卒業の時に『高野どうする』と聞くので、親の干渉から逃れる合法手段として東京のトヨタの販売店を受けるというと、その時も『俺も行く』と言い二人で一緒に就職しましたが、配属と寮が違ったので一緒の時間は少なくなりました。

私が妻と知り合った時も彼は一緒にいて、妻との別れ際に二人で名刺を渡し、どちらに電話がくるか? 連絡を取り合った悪友です。

その後私は妻と結婚・退社して今の自営業になり、彼は二年程前に退社し北海道のトヨタに移り、その後に美唄の卸問屋の令嬢と結婚することになり、その時は私もお茶屋で戻っていたので式に出ました。

その頃から彼が離婚するまでは連絡を取り合っていましたが、離婚してから年賀状が来なくなり自然に疎遠になりました。

その気持ちは判るので、待っていると再婚してから訪ねてきて元の友人関係に戻ることが出来ました。

今回本当に久しぶりにゆっくり話をし、高校時代に逢ったことのある彼の弟と、二人で短大時代に九州旅行をした帰りに寄って伊勢原で世話になった彼のお姉さんも亡くしたと聞き、『俺本当にひとりになった』と呟いた言葉には、彼が再婚してから子供がいなかったことを知っていた私の胸に伝わって来て、『俺の所に泊まりに来て、二人で飲もう』と誘うのがやっとでした。

幸い彼もまだ仕事を続け社会とは繋がっていますので、休日前日に私の家に泊まれば、お互いに一人身同士なのでゆっくり飲みながら話が出来ます。

誰でも子供の頃は生まれたての子犬のように平等にじゃれ合っていたのに、中学生位から学業の成績などで区別され始め、社会人の成犬になってから地位や収入や財産の違いで負い目を感じたり、傲慢に振る舞ったりしがちですが私達の年齢位になると、そんな社会的な一時的に羽織ったものは無意味なものと知りますので、昔の気持ちのままの只の老犬同士の関係に戻れたことが私の一番の喜びです。

今日は手紙が届き電話したら、奥さんの四十九日法要が済んで落ち着いたら『泊りに来る』と言っていたので久しぶりに飲みながらの話が楽しみです。

疎遠な時があっても、人それぞれに喜びと苦悩の人生があり、社会人の時のようなお互いに背伸びをしない裸で、お互いを思いやりながら光と陰を忌憚なく話せる友人の会話ができることは、お互いの寂しさの穴を埋める役目も果たしてくれそうです。

彼は離婚後に父母と同居し、お母さんを見送ってからの再婚後はお父さんを見送ることも果たしたのですが、再婚した奥様にお父さんんの世話で面倒をかけたけた罪滅ぼしが出来なかった無念さを話しておりましたが、私にも後悔は一杯あります。

中島みゆきの『糸』という題名の曲は男と女を縦糸と横糸に例えて歌っていますが、私は男は長い期間を社会人としての生活の中では縦社会で生き女性は横社会で生きていると思います。

老いてからひとりになった時、女性は横糸で社会と繋がっているので逞しく再生できますが、男は退職すると縦糸という人間関係を失い呆然自失か? 

濡れ落ち葉のように妻にしがみつくか? が多く、 

潔く虚飾を脱ぎ捨て縦糸を知恵として、ただの老人として新しい横糸を妻や友人や社会と築くことができるか? が豊かな老後と孤立の老後を分けます。

男と女も、親と子供も、若者と老人も、社会や家庭で縦糸と横糸を上手に編み込み幸せに繋げるには、相手の自尊心を尊重する思いやりが肝心です。

妻の一周忌を終え私が最初に思案したことは、我が身の死を上手く捉えたいという願いでした。

妻は還暦頃から『お父さんより先に、寝てる間に一気に逝きたい』が口癖でしたが、この言葉が言霊となり成就したと最近つくづく思います。

お母さん『願えば叶うよ、願いなさい!』と言い続けましたが、私も娘達に迷惑をかけないように死を捉えたいので、この言霊を信じ『寝てる間に、一気に孤独死を』と仏壇の妻に願い続けています。

そしてその日を迎えるまで、自分自身の為には決して出来なかった我慢でも、愛する大切な人達のために怒りや辛さや寂しさへの我慢ができることが本当の強さと自分に言い聞かせ続けたいと思います。

それまでは自分の流儀を日々の生活で実践し続け、目の前の一日だけを精一杯生きて、言霊を念じ続けようと思っています。