窮地には建前を選択。

妻との四十三年間の生活の中で辛苦を共にしながらも、いつも仲良く過ごせたことの最大の秘訣は『お金は少し足りない状態を心掛けること』でしたが、これは私の人生訓みたいなもので中々人に理解されず困りますが、本当のお金持ちになった人に言うと微笑みながら不思議と意味を理解してくれます。

妻に『お金はあるにこしたことはないでしょう、お父さんのは単なる負け犬の遠吠えじゃない』と言われましたが、その通りで私の人生で十分なお金を持った時期はないのに独身時代は贅沢な散財をして過ごし、結婚後すぐには一か月でその頃の自分の給料の十倍位の妻の独身時代の貯金を競馬に使ったりした前科者でした。

男がお金を持つと博打や車や女のような乗り物か? 見栄を張る接待というお金の散財に走るか? で、とどのつまり家庭をおろそかにした自分勝手な行動にお金を使うようになるのが定番です。

そうなると伴侶の妻も不満のはけ口に『私も勝手に友達と遊ぶ』という反撃に出て、気が付いたら家族はバラバラに行動するようになり心が離れお互いに拠り所を失ってバラバラになりますが、私の場合は幸運にも妻がじっと耐え私に気付かせてくれました。

お金があまりにも不足すると自暴自棄に陥り不幸なことですが、家族・家庭を思うと有り余るよりはマシではないか? と私が思うのは努力して勝ち取る人も少なからずいるからです。

何事においても程々が肝心で、お金とはどちらに転んでも不幸を招くことに繋がり易い理由は人間の中に潜む邪悪さで、不足すると僻み妬みの感情が肥大し、満たされると傲慢な感情が肥大してしまう悲しい性を持っていると思うからです。

そんな性を自覚して藤沢周平さんは『普通がいちばん』と言っていたと思いますが、私は『足るを知る』の一歩手前の少し足りない状況が家族の結束を生んで一体感を醸成し、お互いがお互いを思いやる感情を生み出すことに繋がると思います。

人生の岐路において感情が努力というプラスに働くか? 僻み・妬み・傲慢というマイナスに働くか? はその人の後の人生を大きく左右するほど大きな影響を及ぼしているものです。

階級社会のイギリスの国民投票でEU離脱決定後に後悔している人達は、移民受け入れによる治安悪化や格差拡大への不満というマイナス感情で離脱投票をしたのですが、離脱投票という感情爆発後に訪れた未来への不安を前に冷静になってから、自分達の感情的行動に後悔しているのもマイナス感情の爆発が作用しています。

家庭においても自分の感情的視点からだけでなく、いつも相手の立場も考慮し互いが贈与し贈与されている事を自覚し感謝できる家族関係構築の為に、その家庭においてのお金の使い方が深く係わっているものです

貧困は僻み・妬みを生みがちで、放蕩は傲慢を生みがちになり何事にも自制が欠落し、その空気を吸って育つ子供達にも沁み込んでいて、我慢や努力が身に付かない傾向に繋がります。

お金が生む弊害は、その家庭の中に充満する我が家はある・ないの空気そのものが僻みや妬みや放蕩の害を生んでいて、お金の使い方の中にお金で満たせる物への欲望を抑制する自制心が、人間の持つ邪悪さを自制する心を育てることに繋がっていると思います。

そして足りない時に僻まずに前向き努力するには、苦境において楽観的になることで、あまりに順調で良い時は悲観的に考える訓練をして身に付けることが肝要と私自身の経験は教えてくれました。

兎角人は絶好調の時には無意識に傲慢になり、窮地に陥ると『藁をも掴む』行為に走りますが、意外と窮地の選択において本音を抑え建前を選ぶ方が未来を切り開く幸運に繋がっているものです

英国の国民投票でキャメロン首相も含めた富裕高学歴層はEU残留の実利的利益を強調し呼びかけましたが、労働者・低学歴層の不平不満からの感情投票に走る動きを止められない結果になりました。

もし指導者層がEU残留の実利的利益より、戦争の歴史を繰り返してきたヨーロッパ諸国の平和と安定の為にもEU残留が必要と訴えて、実利的本音を抑えた建前の平和理想論を前面に出していたら僅差の残留勝利になっていたのでは? と私は思っています。

社会の最小単位が家庭ですが、家庭・会社・国家をまとめる立場にいる者の力量と見識が試されるのは、窮地に陥った時に指針を示す時の判断基準で、その判断基準が実利より理想を求めた建前の方が家族や集団の結束に繋がるのが人間という生き物の不思議です

これは多分前頭葉という脳の異常発達と関係しているのでしょうが霊長類のトップに君臨したことも、この実利より理想を優先する人間の習性と繋がっていると思います。

動物は目の前の実利以外は考えませんが、人間はいつも未来を見て生きる動物だったからと思います。

私も妻を亡くし一人になって未来を思うと不安になり悲しさと寂しさに襲われますが、少し落ち着いてきた最近は『慟哭』という言葉を初めて理解させられたような涙が溢れることがあります。

喉がつまり息が苦しくなるような状況で涙が込み上げてくるのですが、丁度火山の噴火のように地表の岩盤に抑え込まれたマグマの力が大きなエネルギーとして生まれるように、半年が経過して落ち着いた日常を過ごしているようでも、実は抑え込んで日常を装っている我慢が慟哭を引き起こすのだと思い到りました。

妻を亡くした当初は只々涙が溢れる止めどない毎日でしたが、以前ほど泣かなくなった頃から突然襲ってくる悲しみに慟哭が伴い、自分自身で理解してからは存分に泣くようにしています。

しかしマグマを吐き出し落ち着いた後には、悲しさや寂しさから逃げたい本音を自覚し抑え込んで、妻のいない一人の生活を受け入れ未来を見つめて娘達と孫に迷惑をかけないよう自己管理を心掛けた生活の建前を選択することが未来に繋がっていて、お客様への誠意と娘達家族の力になろうと心から思えるのです。

家庭・会社組織・国家におけるリーダーの大切な役割は、窮地に陥った岐路において実利的本音を抑え、建前の理想を声高に叫んで導く孤独な勇気が必要で、その理想を叫ぶリーダーの勇気に奮い立てられ一致団結した家庭・組織・国家が強くなると思います。

妻は我が家の進路において全権を私に委任し、その責任も私にあると言ってついて来てくれましたが、亡くなる十年程前から『お父さんも可愛くなったね』とよく言われました。

私の傲慢で小生意気なひねくれた性格にじっと耐え、我慢をしても見捨てずに根気よく私の小骨を抜いてくれたあなたのお蔭ですと照れ隠しに慇懃無礼に頭を下げていましたが、その頃から私はいつか妻に『亭主の鏡、主婦の友』と言われるようになりたいと目指し、妻の大きな恩に報いたいと思っていました。

一億総中流の高度成長時代を過ごした私と妻の若かった時代と、一億総格差拡大時代の現代の若者や共働きの夫婦を比較して考えてみると、労働条件・労働時間・労働に対する対価・派遣・パート・アルバイトの増加による差別に近い区別・保育所問題など全てで現代の若者の方が大変な思いをしているのが現状です。

あの時代のような余裕のある専業主婦は圧倒的に少ない共働き世帯の若い人達が多く、それでも世帯年収が低い子育て世帯が増加して母子・父子家庭の増加なども含め、現代の若い人達の方が精神的には勿論肉体的にも経済的にも大変な思いの中で頑張っていることは、意識して若者世代を注視していかないと見えて来ません。

妻を失って時に慟哭を伴うほどに四十三年間が幸せだったと冷静に振り返って思う事は、その空白を無気力や安易な依存で埋めることは実利的な甘えの逃げなので、やはり建前の理想を掲げて若い未来の人達に依存せず元気に過ごし、逆に少しは力になれるように仕事と家事に精を出す日々を出来るだけ長く続け、未来に向かう孫の成長から生きる力を貰いながら見守り見届ける道を選択します。