人間の生まれ変わり。

まだ日常の中にいつも妻が頭の中から離れずにおりますが、人間の相性みたいなものが程よく合った人だったとつくづく思います。

妻は無口な方で、私は妻に『男のおばさん』と言われたように良くしゃべり、妻は大事なこと以外はうん・うんと聞いていました。

しかしおとなしい妻が外で楽しいことや悔しいことがあると、私に聞いて欲しいと話し出しますが、楽しいことは良いのですが悔しさを味わった時の話に意見を言うとよく怒られました。

本人曰く『お父さんに、ただ聞いて欲しいだけ』で意見も聞いてないし、悔しい思いさせた相手への敵討ちも望んでないと言います。

この感覚が私の感覚では理解できず、これでは解決にも進歩にもならないと思い随分悩みましたが、実はこれで良いんです。

人間の日頃の言葉や行動における思考回路と決断は、その人の心の中にあるものが表出しているものだからです。

人間の心の中に有る悪を見つめて生きる人は残虐なことも平気で行いますが、その時にはその相手の心にも悪があることを前提にしているから平気なのでは? と思います。

そして人間の心の中の欲を見つめて生きる人は搾取も平気で行いますが、それも自分と同じ欲が相手の心の中に存在すると確信しているので平気なのでは? と思われます。

また人間の善を見つめて生きる人は、贈与を見返りを期待せずに平気で行えるのは、相手の心の中に有る微かな善をも信頼しているから出来ることでは? と思います。

結局大多数の人は自分の尺度でしか他人を見られないのですが、私の妻の心には、そんな悪も欲も善もほんの少ししか存在しないような優柔不断な人で、女に生まれてきて良かった人と思うと同時に、理解に手間取ったそんな妻との出会いが私の幸運だったようです。

一般に男の仕事世界では悪も欲も善もバランスが大事ですが、どの部分が強い人が功なり遂げるか? はその時代の空気に翻弄されていると歴史小説などを読むとつくづく思います。

若い頃の私の心の中は悪も欲も強く、善のような綺麗事では功成り難しと思っていましたので、善は相手の好き嫌い次第でした。

それと幼い頃からの劣等感で、僻みが源泉になった怒りを抑えきれず過ごしていることが実に多かったと思います。

そんな自分を回顧してみて、そして妻の死後に変わって行く自分の心を見つめていて気付いたことは、人は人生においても内面的には何度も死を繰り返し生まれ変わる輪廻転生をしているような気がして来ました。 

私にとっての一度目の生まれ変わりは妻と出会ってからの自殺願望消失で、この人を守り一生懸命に働き二人で幸せになろうと考えて生きる勇気が湧いて来たことで、その反面いわゆるプチブル的になり自分自身を大切にするようになり無茶をしなくなりました。

その後に娘が生まれてからが二度目の生まれ変わりで、この子を授かった喜びと共に親としての責任が重く感じさせられ、社会へ送り出すまでの養育と経済的な責任、そして巣立った後の娘の人生を考慮に入れた社会性も含めた数々の生きる力を身に付けさせる責任を強く感じ、娘を人として花咲くようにと欲張りな願いを持ち、その為に自分が親としての自己変革を強いられたことです。

三度目の生まれ変わりが娘の自立・結婚で、もう婿殿の手に委ねて親としての役割の大半が終了したことの安堵と、その後に訪れた寂しさによる空の巣症候群のような症状でした。

子を守る為の傘の役割が終了し、星空の小さな星のような役割で『あそこにいる』という安心感を持ってもらうだけの微かな存在に自分達がなったことを思い知らされたことでした。

この時を妻と二人で迎えられたので、親としての子離れの寂しさも何とか乗り越えられたように感じております。

妻を失い四度目の生まれ変わりを強いられておりますが、三度の生まれ変わりまでを共にした妻を失い一人になり、本当の子離れの寂しさを乗り越える困難さを味わっておりますが、一番の感謝の思いは妻が元気なうちに娘が所帯を持ち孫も見られたことです。

一人で生まれてきて一人で死んで行くことは苦ではありませんが、生きていることが一番の苦しみだから釈迦が四苦を生・老・病・死の順にしたのか? と思うほどに生きることには乗り越えなければならないことが絶え間なくやってくるように思います。

私も細かく言うと親からの離脱成功で東京に就職したことなども生まれ変わりで、人によっては仕事や借財返済や人間関係も含めて、もっと生まれ変わりを繰り返している部分もあると思います。

困難を乗り越えた時の達成感などで成長を実感して生まれ変わって行くこともありますし、困難や人間関係に打ち砕かれて僻みや妬みの邪悪さに侵され悪い意味に生まれ変わる人もいますし、体や心の病気に陥って立ち直れない人もいるような状態も実は輪廻転生のような生まれ変わりではないか? と考えます。

一人になるということは、やるべき事も多いのですが考える時間も多くなり、特に作業が少ない店が暇な時や眠れない夜などは回顧も含め様々なもの思いに耽りますが、人生を俯瞰して眺めざるえない年齢と今の状況もそうさせているのでしょう。

親も時代も性別も選択の余地が無い生まれた時の環境の違いから人生が始り、時代の流れに合わせたり抗ったりする中で本人の意志で能力を駆使し、誰もがそれぞれの価値観の幸せを求め生きているのですが、やはり私は人生の大半を共に過ごす伴侶と幸せを共有することが人としての花を咲かすことではないか? と思います。

栄耀栄華は誰から見ても判りやすいものですが、他人には見えづらい本人達しか自覚できない利害を超えた関係こそが、最後を迎えた時の人間としての一番大切な生きた証しでは? と思います。

最近は婿殿が保存していた亡き妻や未来に向かう孫の映像を自分のパソコンに入れたので、過去と未来を重ね合わせて時々見ているのですが、頭の記憶として再現できない妻の声を映像と共に見ていると、私達のその時の心が鮮明に蘇ります。

特に孫の遊ぶ様子を見ている妻の特徴あるウフフ・ウフフと続けていた無警戒で無垢な笑い声を聞いていると、あの笑い声にいつも私が幸せを実感していたのを想い出します。

果してもう一度生まれ変わりがあるのか? 最後を迎えた時に何を思うのか? 私の死後に妻と本当に再会できるのか? を思いながら、孫の無警戒で無垢な笑い声を妻に重ね合わせて、孫の早いその成長を眺め一日ずつの日々を重ねております。