空白から。

明日で妻を失った空白の時間から四十九日を迎えますが、一日を長く感じながらも何故か家を空ける気がせず、若い時から炊事の経験もないのですが一人暮らし歴七年の義兄から教わった炊事方法や娘・婿殿から料理方法を習って何とか過ごしております。

今日までブログを書く気にもなれず、妻の死後は一日が長く感じてただやり過ごすのが精一杯で、妻の日常だった買い物や洗濯などの今までの私なら煩わしいと感じた雑事をしながら、遺影の妻へ感謝の言葉をかけながら失った空白を雑事で埋め逃避をしています。

空白の時間は悲しみという深い穴を覗き込みがちで、じぃーっと覗き込んでいると飛び込みたくなるような自殺衝動を起こさせ、日常生活全ての中で妻の残像を追っている自分がいます。

それは日常の様々な状況の局面で『妻がいたらこうだったのに』という思いが込み上げてきて、その度にもういない確認を迫られ心の中を寂しさと悲しさの風が吹き荒れ涙が流れて来ます。

私は子供の頃から自殺願望を持っていて、親を選択できない状況の上に、生まれるか? 生まれたくないか? の選択権もなく、親の快楽の結果として生まれたことに『俺は頼んでないし、理不尽だ』と思いながら成長して来ました。

いつも自分自身で生活できるようになったら親の支配から逃れられる場所へ行こうと決めていても、果たしてどのようにと悩み鬱々とした気持ちで子供時代をやり過ごして、短大卒業後の二十歳の時に念願の東京へ就職し離脱が成就しました。

二十三歳の時に妻と結婚してからは幼児期からの自殺願望が消えても、私の心の性根にいつもあるのは『子供は何の選択の余地もなく生まれてくるのだから、どう生きるか? といつ死ぬか? は自分自身で決める権利がある』と思って生きて来ました。

これは私の信念に近いもので私の生きる意味と繋がっていました。

妻と結婚してからは飢えに近かった母性みたいなものを授かった思いを毎日の生活の中で確認でき、本当に生まれてきて良かった実感を持った妻との四十三年間でしたが、それは私の中にある邪悪なものも含めて『容認』してくれる妻の信頼と包容力でした。

後に気付いたのですが、それはどんな器にも馴染む水のような妻の性格に助けられ・救われ・育てられたのでは? と思いました。

妻は水の精で、たとえ暴力的な男でも耐えて受け入れ忍んで生きて行くのでは? と思い告げた事があるのですが『わからないけど、そうかもしれない』と答え、『でも好き嫌いはある』と微笑みながら言っていました。

その後娘を生んでから『これで子供好きのお父さんに妻としての責任を果たした』と何度も言われましたが、それまでの七年間もその苦悩は一度も口に出さずに過ごしていました。

二人の子育ての約束は、娘を社会人として送り出すまでは妻も私も娘を決して支配や命令をしないように、娘の人格を尊重して育てることを第一に考え、子供を育てる為の精神的・金銭的苦悩は私達の『快楽の代償』と思って頑張ろうと話し合っておりました。

そんな妻との喜怒哀楽を伴った四十三年間を振り返ると、怒と哀は私の親や兄弟や親類が関係したことがほとんどで、家庭の中いつも喜と楽で店舗併用住宅で普段も一緒ですが、月二回の休日も妻が亡くなるまで一緒に遊び廻って過ごしておりました。

亡くなる前の日も定休日で、夏はパークゴルフですが冬はまずカラオケで二時間ほど歌い、それからアウトレットに行きショッピングを楽しみ、夕方六時頃に孫に買った洋服を届けがてら尋ね孫と遊んでから、温泉に行く前に寿司を注文して持ち帰り二人でビールを飲んでから『おやすみ』と言って就寝するまで何の異変もなく、翌朝五時頃にアッという声と共に普段は寝息だけの妻から大きなイビキが聞こえて驚き駆け寄った時には息もなく胸の鼓動も聞こえない状況での救急車要請で、後に脳外科医の説明では脳に十年~二十年経過した大きさ6mmの動脈瘤が二つあり、その動脈瘤が一気に破裂したので何も苦しまず即死状態で亡くなったと告げられました。

週に二回水泳に週一回卓球に行き、お産以外は入院もせずに毎晩二人で晩酌をし、休みの日は朝から晩まで二人で遊び呆けていた妻が突然この世からいなくなったことを受け入れる困難さに戸惑い涙して過ごす毎日は、私の心の奥底に眠っていた自殺願望を呼び覚まし日常のあらゆる場面で私の心を誘い続けています。

しかし妻を亡くして一人になったと思っても、娘がいて婿殿がいて孫がいて私への様々な配慮を感じる時に、続けて私の葬儀をさせる無責任さへの思案や、共働きの娘達が孫の養育への協力を期待して一昨年に越して来た期待などを思うと、自分自身の苦悩から逃れるためだけの自殺へのエゴにやはり羞恥心を覚えます。

たぶんそれは私と妻の快楽の結果として生まれてきた娘に対しての無責任さへの羞恥心だと思います。

妻を亡くして一人になってから、妻との生活で得た幸せだった生きる目的を失った自分の気持ちだけを考え、もう娘も安心な伴侶を得て私の責任は果たしたので大丈夫と逃げていたと思います。

ブログに向かう気持ちも起こらなかった時は『もう妻はいない』という失った悲しみから想い出すら辛い気持ちになり、妻がカラオケでよく歌った曲を聞いただけでとめどなく涙が流れるので、想い出からも逃げて避けておりました。

しかし此の頃は大切な四十三年間の想い出を胸に抱いて、その想い出を胸にここに妻はいると思って生きる勇気にするべきではないか? と考えられるようになって来ました。

寂しくて泣きたい時は泣きいて生きて、いずれ妻と再会した時に『お父さん良く頑張ったね』と褒められることをこれからの生きる目的にするべきでは? とも考えて妻への俳句も作り始めました。

      亡き妻に褒められやうと初竈

そんな気持ちで台所に立ち、洗濯・掃除・アイロンがけなどの家事をしながら『お母さん今までありがとう』と話しかけると、四十三年間の妻の支えが身に沁みて参ります。

時々娘達から食事の誘いもあり、手作りのおかずを頂いておりますが、妻の配慮を受けていた時は口にしなかった物も食するようになってますが、そんな時は遺影の妻が怒っているように見え『ごめんなさい』と謝りながら食べています。

私のもう一つの信念みたいなものは『人は大きなものを手に入れると、同じくらい大きなものを失っている』と思うことです。

眠れない夜に思ったのは、逆説的に考えると『妻という大きなものを失った私は、果たしてどんな大きなものを手に入れるのか?』という疑問と難問を抱えました。

きっとその答えはこれからの悲しみや辛さを抱えて生きる人生の中に、この疑問と難問の答えがあるのでは? と思いますが、しっかり見つめてその答えを求めて行きたいと思います。